たまがき
祐清を殺害した豊岡と弥三郎は、若松荘の百姓によって、捕らえられた。
祐清は、若松荘の荘民ではなかったが、荘が飢饉から復興するのに貢献した。
そこで祐清を荘民に準ずることとし、惣掟によって、裁かれ断罪となることが決まった。
祐清の葬儀も、その後の法事も済んだ。
『たまがき』が祐清の遺品を下げ渡して欲しい、と望んだ。祐清の物は仁和寺に属する。
「望むのなら、仁和寺に書を送ってみたらどうだ。『たまがき』は文字が書けるのだから、自分で書いてみるがよい」代官所の現地代官が『たまがき』に言った。
五年前、『たまがき』を祐清に預けた男だった。
『たまがき』は手紙など書いたことはない。ましてや荘園主に対する嘆願書など、どのように書いたらいいのか見当もつかなかった。
現地代官が、このようにしたらよい、という手本を作ってくれたので、それを見ながら自分の思いのたけを綴ることにした。
【私のようなものが、このように申し上げるのも畏れ多いのですが、あのことに立ち会った者として、一筆申し上げなければなりません。
さてさて、祐清様が命をお落としになられたこと、まことにいたわしく、どのように言葉にすればよいのか、途方に暮れます。
祐清様の遭難の折、私は代官所におりました。また、没後の事も行いましたので、その次第について申し上げます】
【祐清様の遺品につきましては、ご存じのとおり目録を作り遺品ともども現地代官様に提出いたしますので、そちらに知らせが行くと思います。
目録にあるとおり、一部は処分し、また一部は葬儀や後の法要で世話になったお坊様に差し上げ、また墓を建てることなどにも使いました。委細は目録をご覧ください】
”このようなことを、書くために文字を覚えたのであろうか”『たまがき』の目に、また涙があふれた。
【私は、この五年間、祐清様に馴染み、育ててもらいました。ですので、少しの物でも、形見として私の側に置きたいと思っております。いただけますなら、どんなにか、うれしいことでしょう。
この旨は、現地の代官様にも、再三申し上げております。
代官様達もご存じですが、祐清様の遺品はほとんど処分いたしました。けれども目録の末尾にありますように、僅かに残った物もございます。目録に書きました通り、私に賜りますなら、どんなにかうれしいことでしょう。
いと畏れ多くも たまがき
仁和寺 公文所殿へ 謹んで申し上げます】
【祐清さまの遺品の目録
一 銭 一貫文 葬儀のときに色々使いました。
一 青小袖 一枚 僧侶に差し上げました
一 抜き手綿 二枚 同右
一 帷子 一枚 同右
一 畳の表 五枚 売りまして、これも法要に使いました。
これらの色々のものは、右に書きましたように処分いたしました】
【また、次はお願い事として申し上げます。祐清様の形見として残っている品
一 白い小袖 一枚
一 紬の表 一枚
一 布子 一枚
これら三つの品について、祐清様の形見として、私にいただけませんでしょうか。
いただけますならば、どんなにか、うれしいことでしょう】
『たまがき』の願いが、かなったのか、かなわなかったのか、それは知られていない。
祐清、『たまがき』は歴史上に実在した人物です。
京都の東寺に伝わった、東寺百合文書の中に現れます。
史実では、舞台は備中国新見荘、祐清は東寺の代官でした。
興味のある方は、Wikipediaで【たまがき】と検索してみてください。




