養老律令(ようろうりつりょう)
あわただしい戦後処理の中、小山七郎さんが片田に書を送った。和泉共和国の領地を拡大するまえに、刑法を整備しなければならない。急ぎやってほしい、という内容だった。
若松荘において、ここはまだ和泉共和国ではないが、百姓が地侍の家族を殺めたり、財産を強奪する事件が起きた。
共和国の拡大につれて、このようなことが増えてくる可能性がある。それを防ぐためには、せめて殺人、強盗、放火などの重大犯罪についてだけでも、すぐにでも統領令を発してほしい、とのことだった。
片田が、とりあえずの統領令を出した。
この時代、誰かが殺人を犯したとき、誰が、なにに基づき、どのような処罰が行われるのか。
まず天皇を頂点とする律令国家では、律によって裁かれる。七五七年に定められた養老律令である。
しかし養老律令は平安中期までに多くが形骸化していた。
令のなかの、官位令、職員令などは、正一位、太政大臣などの位階役職の根拠になるため、長らく生き残るが、捕亡令、獄令などは忘れ去られた。
同じく、律も適用されることが少なくなり、戦国時代に散逸するが、今回、片田が統領令を出した対象である、『賊盗律』などの重要なものについては、必要性があったものとみえて後世に復元できるだけの逸文が残されている。
公家、または公家や寺社支配下の荘園の百姓町人は、この律によって裁かれることもあったかもしれない。
この律令が廃止されるのは明治になってからである。
次に武家が作った式目がある。鎌倉幕府が一二三二年に御成敗式目を作っている。さらに室町幕府が一三三六年に建武式目というものを出した。
建武式目は十七条に過ぎず、法律というよりも施政方針といったほうがよい。殺人などの犯罪にかかわる条としては、
一、狼藉を鎮めらるべき事
としか、書いていない。
御成敗式目は五十一条からなり、建武式目よりは具体的である。高校の教科書にも出てくる第三条において、守護の仕事の中に殺人犯の取り締まりというものがある。
また第四条では、重い犯罪を犯した者は丁寧に取り調べ、結果を幕府に報告して、幕府の指示に従わなければならない。守護が勝手に罪人を処分してはならない、とある。
武家、または武家の支配下にある百姓町民は、この式目によって裁かれていたと思われる。
なぜ、律令に比べて武家の法が簡素であったのか、おそらく法に縛られることを嫌ったのであろう。
例えば、養老律令の獄令において、死刑を執行するにあたっては執行前には親族・友人との決別の挨拶を交わすことを許し、執行は午後二時以降にせよ、とされている。
刑場に連行する際の作法、警護の人数まで定められている。
武家は、このような些細なまでの法を守りたくなかった。
最後に惣掟がある。
村の共同体である惣が、荘園領主や地頭に対して相対的に力を持つようになり、自治を行い始めていた。彼らは惣の内部で合意され、明文化された惣掟を行使して惣内の治安を守っていた。
このような形の治安維持を自検断という。検断とは、裁くということであり、農民が自ら裁く、ということを指している。
惣の力が強い村では、この自検断によって裁かれていた。
一条兼良の一条室町の邸に、大乗院の尋尊さんから、書状が届く。尋尊さんは兼良の息子である。正室の子ではあったが、長男ではなかったので、興福寺大乗院に入り、僧侶となった。
“養老律令を貸してほしい。片田商店が礼金を出すと言っている”
「そのようなもの、いまさら必要としている者がおるとは」兼良があきれた。
兼良の邸は一条と室町の交差点にあった。現在の京都御所敷地の北西、宮内庁京都事務所のあたりである。邸内に桃華坊文庫があり、和漢の書籍が犇めくように集積されている。
そのなかに、養老律令の写しも、もちろんあったので、貸し出すことにした。
兼良の邸も文庫も二か月程後に乱で焼けることになる。




