人類最大の発明
水蒸気パイプ内の気体について、水蒸気+空気から、水蒸気のみに訂正
片田が大乗院から帰ってくると、とびの村は大騒ぎになった。秋の刈り取り前の比較的忙しくない時期なので、大人もレンズ作りに参加した。十市の殿様が直々に「皆、レンズ作りをよろしく頼む、必要ならば応援を出す」といってくれたのだ。大人たちは朝の早いうちに田にでて草取りをし、暑くなってくると水車小屋に来てレンズを削る。
大人は慣れていないので、荒削りを担当してもらった。もちろん手当は出している。即席のロクロをいくつも作り、荒縄で水車とつないだ。つなぎきれないロクロは手で回すことにした。
事情を知らない人が見たら異様な景色だ。
「父ちゃん、はしの方、すりつぶしちまってんじゃないか」
父親が叱られている。粗削りの工程を分離したのは石英丸だ。粗削りは煉瓦の摩耗が激しいので、煉瓦のくぼみの形を維持するためだった。その石英丸は、仕上げの子供達のそばで、レンズの焦点を確認している。凹レンズの焦点確認は、凸レンズと組み合わせて確認する。焦点が合っていないものは、仕上げの子供に戻す。
「もう少し、短くしてくれ」
片田は、橋を渡って、寺に戻る。僧坊の座敷に女の子が集まっている。『あや』という名の子が中心にいる。鮎を思いついた子供だ。
あやが初めて鮎を持ってきたときに片田は尋ねた。
「なんで、鮎っていうんだ」
「目の端の方でゆらゆら揺れているのが、鮎が跳ねているようで、かわいいから」
片田や、石英丸には思いつきようもないものだ。二人だったら、煩わしいと思うだけだろうが、女の子にはそれが面白いのかもしれない。半信半疑で持って行ってみたら、意外と尋尊様に受けた。
花や蝶の結び目を付けたもの、ガラス玉を通したもの、絹紐を数本長く垂らしたもの、いろいろなものを作っている。やりたい放題、というところだが、原価はわずかなものなので、好きにさせていた。そのうち、売れ筋が見えてくるだろう。
売れ筋といえば、眼鏡の紐の部分は、黒に金糸を編み込んだものが僧侶に人気であった。今作っている紐は、片田が最初に作った物とは異なり、多少伸び縮みする。ゴム編みとでもいうのだろうか、『いと』という女の子が得意とする編み方だった。こちらも、さまざまな色、さらにはそれらを組み合わせたものが作られていた。ふうがいないな。ふうはこういうものより、水車の方が好きなようだ。
眼鏡の枠は、矢木の市の鍛冶にまかせていた。鍛冶の大将は、めんどくせえものが売れるようになっちまったな、とぼやいていたが、まんざらでもないようだった。
「そんなに売れるもんなら、型でもつくるか」量産するつもりらしい。
手帳と鉛筆を取り出す。これらは片田と一緒にこちらの時代に来た背嚢のなかにあったものだ。
先日鉛屋に、石炭を探してくれと頼んだ。
「九州の、いや筑前の壇ノ浦から西に行ったところの大きな川を、三里ほど川上に登ったところあたりで、燃える石を探してくれないか」
「また、雲をつかむような話だね」
「そうなんだが、露頭があるはずだし、付近の民が燃料がわりにつかっているかもしれない」
「人づてになるが、蘆屋津の鋳物師と取引をしたことがある。聞いてみるよ」
仮に石炭が手に入ったとする。手帳に手順を書いてみた。
まず、密閉した容器に湯を沸かして水蒸気を大量につくっておき、フイゴの吸気部分につないで送風できるようにしておく。これを水蒸気パイプと呼ぶことにする。
そして、炉で石炭を燃やし、炉の中に水蒸気パイプの水蒸気と空気を混ぜたものを吹きかける。石炭の炭素と水蒸気が反応して、一酸化炭素と水素になる。比率は一酸化炭素が二、水素が一になる。これを気体Aと呼ぶことにする。
次にこれを鉄管の中を通すことにより冷やす。大体五百度くらいまで下げれば、一酸化炭素がさらに水蒸気と反応して二酸化炭素になる。ここにも水蒸気パイプが必要だな。このとき二酸化炭素が二、水素が二の量だ。五百度か。亜鉛が四百度程度で融けるから、温度計代わりに使えるな。
この気体を水酸化カリウム水溶液に通してやり、二酸化炭素を炭酸カリウムとして沈殿させて、水素単体にする。水素の量は二だ。
これに、最初の気体Aを等量混ぜる。厳密に等量でなくともよいが。
一酸化炭素二に水素が三だ。すこし一酸化炭素が多いな。このガスをニッケル触媒でメタンにする。温度はどれくらいだったか、二百度くらいだったか。実験が必要だ。
余った一酸化炭素がじゃまになるので、もう一度水蒸気をいれて、水酸化カリウム水溶液に通してやろう。メタンって水溶性だったかな。いや沼気というぐらいだから、溶けてもわずかだろうし、すぐに飽和するだろう。
メタンが出来たら、この後は高温高圧炉にいれるので、いったん保存しておく必要があるだろう。やっぱりガスボンベが必要だ。
つぎにアンモニア製造炉だ。この高温高圧炉は、南都の鋳物職人に作ってもらう。炉のなかに鉄鉱石を入れて触媒とする。そこにボンベからメタンを入れて、さらに圧縮して三百気圧にし、五百度に加熱するとアンモニアが出来る。三百気圧というと、ものすごいように感じるが、気体は圧縮しやすい。普通のガスボンベでも百五十気圧程度はある。寺の鐘のような大物をつくれるのだから、彼らにできるだろう。
圧縮してやるために、水車を動力としたポンプと弁が必要だ。これは自分で作ろう。
温度の方は、これも五百度くらいだから亜鉛が温度計として使えるだろう。
出来たアンモニアは、別のガスボンベに導き、ボンベを冷却すれば液体アンモニアになる。常温ならば十気圧程度で液化するはずだった。
アンモニアさえできてしまえば。肥料である硫酸アンモニア(硫安)でも、硝酸カリウム(硝石)でも作り放題だ。
硫酸は方鉛鉱からできるし、硝酸はプラチナを触媒としてアンモニアからつくることができる。プラチナは貴金属なので高いが手にはいるだろう。硝安は硫黄、木炭と混ぜれば黒色火薬ができる。
陸軍士官学校の化学の教師が陶酔型の人間で、この過程をまるまる一コマ使って説明していた。ハーバー・ボッシュ法は人類最大の発明であると。
当時は変な教師だと思っていたが、これで床下にもぐりこんで硝石をあつめまわらずにすむことになるのはありがたい話だ。確かに人類最大の発明だ。
亜鉛はトタン(吐丹)という言葉があるくらいなので、鉛屋のところで簡単に手に入るだろう、鉄鉱石も、鉛屋のところにありそうだ。カリウムは草木灰から手に入る。問題はメタンを作るときの触媒に使うニッケルだな。
山で蛇紋岩でも拾ってきて砕いて使ってみるか。




