小谷(こたに)氏
戎島での片田の演説は、謄写版で摺られ、和泉国の市や駅の高札場に掲げられた。無許可である。
同じ文書が寺や神社にも投げ込まれた。
演説文の最期には、以下の文章が加えられていた。
「和泉国の惣、寄合のなかで、片田に同意するものは申し出よ。申し出て、片田商店により認められたものは、商店が庇護する」
この時期、村には三つの勢力があった。荘園領主から派遣された荘官、守護などの武家に被官する国人(地頭など)、そして、それらの支配を逃れようとする地侍や農民である。
武士は下地中分により、荘園の一部を切り取る。あるいは地頭請、守護請などとして、百姓に対する年貢徴収を代行することにより百姓を直接支配していった。
これらの武家方圧力に対して、荘園領主側は守勢にあり実力行使する能力は無く、もっぱら法的に対処せざるを得なかった。
また、有力農民、地侍などは徒党を組み、惣、寄合などをなした。これらが合議して一揆を起こすようなこともあった。
これも、あなどれない勢力である。
堺のすぐ南にある塩穴荘が、まず片田商店の庇護下に入った。塩穴荘は京都の渡月橋近くにある臨川寺の荘園であったが、これを離脱したのだった。
片田商店は、塩穴荘に五十挺の小銃を渡した。
この時代、和泉国の城といえば、和泉山脈と、その支流である尾根にある山城が多かった。
平地に建設された城は、大きなところでは、細川氏の岸和田城と、小谷氏の鼎三城の二つだった。
岸和田城は和泉国の中心に近いところにあり、和泉国最北にある堺とは離れている。
小谷氏の城は、現在の堺市内にあり、岸和田城より近いところにある。堺との距離は十キロメートル程である。
小谷氏の城は鼎城と呼ばれることがある。三つの城が集まっていることから、こう呼ばれる。小谷城、豊田城、栂山城の三つの城が、和泉山脈から伸びる尾根のなごりのような丘の上に建てられていた。
小谷氏は平家の末裔だと言われている。源平合戦の折、平氏一門は西国に走ったが、平頼盛は都に残った。残った理由は分からないが、彼は源頼朝により本領安堵されている。
鎌倉幕府は、頼盛の子孫の一人を仁和寺の荘園、和泉国の若松荘に地頭として派遣したという。それが小谷氏の祖である。
若松荘の名前は、泉北高速鉄道が、石津川と交差するあたりの若松台という地名に残っている。
小谷氏は和泉国政所に勤めるなど、鎌倉幕府には近い立場にいたが、南北朝の時には南朝方だった。室町幕府とは距離があったようだ。
戦国末期には根来党であり、織田信長の根来攻めで鼎城が落城している。




