兵庫津(ひょうごのつ)
兵庫津とは、神戸港のことである。だが、室町時代の兵庫津は、現在の神戸港の位置とは、少し異なる。
現在、神戸港といえば、メリケンパークから東に連なる埠頭を思い浮かべるであろう。税関もここにある。この神戸港は南に開いている。
しかし、室町時代の兵庫津は、東に開いていた。場所はJR兵庫駅の東側である。メリケンパークと和田岬を結んだ線を、すこし西側にずらしたあたりに、南北に海岸線があった。
海岸線から海を引き込むように石垣が造られ、その内側に港があった。湊川は、今とは異なり、兵庫津の北側で海に出ていた。
その兵庫津に、続々と大内の兵が上陸してゆく。片田は、沖に停泊している『天龍』からそれを見ていた。
ここからは見えないが、兵庫片田商店の明石屋三郎と五郎が、今頃大内兵に襲撃対象を教えているであろう。三郎と五郎は、どの土倉が細川の御用蔵であるか、調べ上げていた。それらの倉では、瀬戸内沿岸から集めた兵糧や兵器が京都の東軍に送られるのを待っている。
大内兵はそれらを略奪していった。
一方で小競り合いの気配も見える。正面奥の福厳寺、左手の能福寺あたりで、煙が上りはじめていた。これらの寺は兵庫津の防衛線の内側にある寺だった。防衛線の外側は、堀を回している。
片田には考え事があった。
兵庫、尼崎の津を大内が制圧したあと、堺に一度帰ることになる。そこでは一万の兵が片田を待っている予定であった。
ここまで彼は、兵達に、なんのために戦っているのか説明してこなかった。海軍の場合にはそれが可能であった。水兵たちは常に将校の監視下にあったし、脱走も不可能であった。しかし、陸兵となると、そのようにはいかない。
陸兵を統率するためには、彼らが、なんのために、誰と戦っているのか、を明確にしなければならない。
そして、その指針を分かりやすい言葉で表現しなければならない。現代の言葉で言えば、モットー、ないしはスローガンである。日本語では『標語』という。偶然にも、現在攻めている港と同じ『ひょうご』である。
片田は、自分が知っている標語を探してみる。
『八紘一宇』なんていうのが、あったな。『全世界を一つの家にする』というような意味である。片田が子供の頃に起きた『二・二六事件』あたりから、よく言われるようになってきた言葉だ。
皇紀二千六百年のお祭りのときには、流行語にまでなった。そういえば、この年あたりから『大東亜共栄圏』なんて言葉も、急に出てきた。
『アジア諸国が一致団結して、欧米の植民地帝国主義勢力をアジアから駆逐し、共に栄えよう』というような意味だったと思う。これは標語というより、構想といったほうがいいかもしれないが、似たように使われていた。
当時、若かった片田には、このような標語に何の意味があるのか、と考えていたことを思い出す。
人の上に立つ立場になって、初めて人を死地に追いやる、あるいは殺人を犯させるには、大義名分が必要だと気づいた。
正しいことをやっているんだ、と思わなければ、人は銃など持たない。まして、それを撃つことなどはしない。
兵庫津の北の門、湊口門あたりから兵がまろび出てくるのが見える。兵庫津の防衛線の内部では細川方が崩れたのであろう。そのまま、西国街道を走り、湊川の北岸に逃げ込もうとしている。
兵庫津での戦いの形勢は決まったようだ。近くを見ると、米俵や、何かが入った箱などが、倉から持ち出され、入港した関船に移されている。
加えて、片田は人前で話すのが苦手だった。苦手、というよりも一万人もの群衆の前で演説したことなどない。これも憂鬱の種だった。
うまく演説し、彼らの心を捕らえなければならない。そんなことが自分にできるのか。
とうていできるとは思えない。せいぜい無様に演説を始め、意味不明な言葉を並べ、結局いままで築いてきた信頼を失って終わるのではないか。
いっそ、演説などしない方がよいかもしれない。
「尼崎攻めの応援に向かってほしい、という信号旗が揚がりました」『天龍』の航海士が艦長『中筋の太助』に向かって叫ぶ。
「出航しますか」太助が片田に言った。
「尼崎津に向かって出航する」片田が命令した。
船内があわただしくなる。水兵が帆を拡げ、動索を動かし始めた。錨を巻く音がする。
帆が風を捉え、『天龍』の艦首が右に向かって動き始めた。




