八の字運動
片田の艦隊が、高見島と粟島の間の水道を、一列になって南南東に進んでいた。右舷側から八点(九十度)の風を受けている。
志々島東方に遊弋する塩飽水軍の側からみると、彼らに向かって真っすぐに片田艦隊が進んできているように見える。彼らの筵製の帆とは異なり、向かってきている艦隊の帆は麻布製で白い。その白い帆に黒々と『片』の字が染められていた。
“正面からかかってくるつもりだろう”赤い風見をなびかせた船に乗る、塩飽水軍の頭領が思った。“横一線で攻めるのが定石なのだが、縦列でくるのだろうか”頭領が思った時、片田艦隊の帆が右に向き、針のように細くなった。
やがて、片田艦隊は、頭領から見て左側に艦首を振る。風上側に向かったということだ。
“八点以上に間切れる、というのか”頭領が驚いた。
「帆を降ろせ、南に向かって櫓漕ぎ開始」頭領は全水軍に指示する。このままでは、敵艦隊に風上を押さえられてしまう。
塩飽水軍の全艦、六十隻程が四国の水平線に向けて櫓を漕ぎ始めた。
海戦は、両艦隊が接触する前に風上の取り合いになった。
片田艦隊が二つに分かれた。後方の船は粟島付近で速度を落とす。これは安宅丸が指揮する四隻の砲艦と、六隻の商船だった。これらは戦闘に参加しないらしい。
残りの八隻の砲艦が、さらに風上に向かい、志々島の西側に回り込む運動を始めた。
塩飽側から見て、片田艦隊が志々島の影に隠れた。
梅雨明け十日の空は青く晴れ渡っていた。太陽が昇りはじめ、暑くなってくる。海面に浮いた海藻の切れ端がゆっくりの後方に去っていく。櫓の推力だけでは、あまりに遅い。
頭領が予測していたより、はるかに早く、艦隊が志々島の左側に姿を現す。
“これでは、とても風上側を取ることはできない。反航して、一旦やりすごすしかない。”頭領が判断した。
「帆を上げよ。志々島の風下側を目指して進め」号令する。
塩飽水軍が一斉に帆を上げるのを見た片田艦隊は、前帆より順に帆を戻し、針路を東に変える。斜め後ろからの風を受け、艦隊が加速する。
塩飽水軍は片田艦隊より先に、志々島の風下に逃げ込み、島を回り込んでくるはずの片田艦隊の風上に立とうとしている。片田艦隊が風下側に回り込んできたら、一斉に艦首を敵艦隊に向け、乱戦に持ち込もうとしていた。
しかし、水軍の頭領の判断は少し遅かった。彼らの艦が志々島の風下側に隠れるより前に、追い風を受けた片田艦隊が大きく迫ってきた。
先頭の『天龍』が赤い風見をなびかせた塩飽水軍旗艦に肉薄する。全長十二間(約二十二メートル)程の塩飽の関船に対して、片田艦隊の砲艦の全長は二十八間(約五十メートル)の大きさがある。それが覆いかぶさるように旗艦に迫ってきた。
例えるならば、競技用の五十メートルプールを縦に割ったほどの容積が、学校の二十五メートルプールを同様に縦に割ったほどの容積に覆いかぶさるようなものである。
砲艦が水軍旗艦の艦尾をかすめるように通り過ぎようとしたとき、左舷の砲十門が火を噴き、赤い風見を付けた帆柱が、帆もろとも吹き飛んだ。
一列縦隊となった、後続の砲艦も、それぞれに色付きの風見を付けた組頭艦に肉薄し、その帆を吹き飛ばす。
塩飽艦隊の集団から離れた『天龍』が、その後檣に『逐次上手回し』の旗を上げる。
片田艦隊の後続艦は、相次いで、同じ旗を掲げる。『天龍』が、その旗を降ろし、右に回頭を始める。『天龍』は惰性で艦首を風上側に向ける。艦首は、そのまま風向である西南西をやり過ごし、帆は左舷側から風を受け始める。
後続艦は、『天龍』が回頭したところで次々に回頭し、結果として、志々島と塩飽艦隊の間に針路を向けた一列縦隊となる。
帆を破られた艦は、潮流に乗って、ゆるやかに東に流されていく。残った塩飽艦隊では、二番艦と思われる艦が、帆柱の風見の色を変えて、こちらに向かって来る。
艦隊は、水軍の風上側より、再度左舷砲で、それらの艦の帆を裂いていく。
粟島の南側を回ってきた村上水軍が、推進力を失って漂流する塩飽水軍艦を取り囲み、鳶で引き寄せて、敵艦に乗り込む。兵達が持ってるのは刺股のようだった。村上義顕が、殺生はしたくない、といっていたのは本気らしい。
巳の刻(午前十時)くらいになったろうか。風向がわずかに変わり、南西の風になる。片田艦隊は依然として一列縦隊のまま、風上側にいる。艦隊が上手回しを繰り返す。八の字型の運動をしながら、塩飽水軍を北東方向に追っている。
水軍の群れとすれ違う時には、必ずいくつかの帆が引き裂かれる。塩飽軍からは、無数の矢が飛んでくる。火矢により、幾枚かの帆が焼かれ、各艦の行き足が乱れる。一列縦隊を維持するのが困難になってきた。
村上水軍の艦艇は、帆を失った塩飽艦を曳航しながら、脱落していく塩飽艦を捕捉する。
すれ違いざまの斉射を繰り返し、塩飽水軍の艦数が半分ほどに減った。塩飽軍はたまりかねたのか、思い思いの方向に逃走を始めた。もはや、風見の色を変えて、艦隊を主導しようという艦はなかった。
彼らは、それぞれに本島、広島、牛島などを目指して逃げていく。
片田艦隊は、一時停止をして、村上水軍が到着するのを待つ。
村上水軍の旗艦、能島丸が『天龍』に近づいてきた。手旗信号で合図してくる。
“作戦を次の段階に進めよう”




