旗幟(きし)
「惣兵衛さん、お元気で、しばしの間のことですから。世間が収まったら、また堺に戻ってきてください」片田が堺の片田商店の番頭、大黒屋惣兵衛に言った。
「片田さんこそ、危ないことはしないでくださいよ。私はいつも、心配だったんです」惣兵衛さんが言う。
戦が近い、とのことで、大黒屋惣兵衛さんと片田商店の店員は、天皇陵の新田にある倉庫に避難することになった。
梅雨明けの強い日差しの中、彼らは覚慶運河の堺の泊りに向けて歩いて行った。
惣兵衛さんたちは去ったが、片田商店は営業を続けていた。堺の在庫と運転資金は最小限にして、残りは新田倉庫に送った。惣兵衛さんたちは、そこで堺から送られてくる伝言に従って業務を継続する。
店員は京都の藤林友保の所から呼ばれた野村孫大夫、播磨城山城の仕事から帰ってきた楯岡同順、治兵衛の三人だけだった。
城山城攻めの仕事は、細川方の赤松軍に雇われたものだった。忍び達は、山名方、細川方という考え方で仕事をしているのではない。
片田が堺の商店の営業を続けさせているのには理由があるが、それは後にわかる。
「では、商店の事、よろしく頼んだぞ」片田が孫大夫に言った。
「大丈夫だ。言われた程度の仕事であれば、商人でなくとも出来る」孫大夫が答える。
片田は商店を去って、戎島の埠頭に向かう。そこには彼の十二隻の砲艦が待っていた。小型船用の岸壁から連絡艇に乗り、彼の船、天龍に向かう。
片田が天龍に乗船し、連絡艇が引き上げられる。
天龍の主帆柱に司令官旗が揚がる。ついで『出航』の旗が揚がった。
各艦が帆を張り始める。これまで片田の砲艦は無地の麻布を使用していたが、今日初めて『片』の文字を染めた帆を使用した。
十二隻の砲艦と、六隻の商船が出発する。商船には兵員と食料、建設資材などが積み込まれている。
艦隊は、河野通春の下で参戦した村上義顕との合流点に向かう。
片田村の小山七郎さんが片田からの手紙を開く。
「犬丸殿、これは、出師の命令じゃ」
「出師って、なんですか」
「出兵ということじゃ。なんと、一万連れてこいと書いてある」
「戦を始めようとしているのでしょうか」
「わしが指揮官となれと書いておるな」
「朝基は、片田村に残って、もう一万の兵を育成しろ、とのことじゃ」朝基とは七郎の息子の名前だ。
「二万って、本気だったんですね」
「このようなことで、冗談を言うものはおらぬ」
「河内の新田、というとあの応神天皇陵の北側の新田のことじゃな、そこの開拓者向け集合住宅が空いているので、そこに軍をいれよ、とある。砲も三百程用意せよとも書かれている」
「おおがかりになりますね。砲弾、火薬、銃弾、食料も含めると大変な量を輸送しなければなりません」
「そのとおりじゃ。大和川の便船を総借り上げしなければならんかもしれぬ」
「でも、そこって河内の国ですよね。よその国に兵をいれても大丈夫なのでしょうか」
「畠山義就殿の許可は取ってあるそうじゃ」
手紙には畠山義就が書いた河内国内の軍隊通行許可証が添えてあった。
「新田に兵を集めて、待機ですか」
「いや、そうではない」
「堺の片田商店が代官所により押収されるはずなので、商店員保護の名目で、堺を制圧せよ、とそう書いてある」
「なんか、すごいですね。諸葛孔明みたいです。『じょん』は、なぜ片田商店が押収される、ってわかるんでしょう」
「なんでも、村長殿が旗幟を明らかにした水軍を指揮して、細川方を攻撃するそうじゃ。堺は摂津国と和泉国の間にあるが、両方とも守護は細川じゃから、片田商店は狙われるじゃろう」
「そういうことですか」
「堺を制圧したあとは、堺の堀の内側で待機せよ、とのことじゃ。おそらく村長が堺に戻り、そこからは村長自身で指揮しようというのであろう」
「堺を押さえても、周りはすべて細川ですよね。そのあとどうしようというんでしょう」
「そこからさき、村長が何を考えているのはわからん。手紙に書いてあるのはここまでじゃ」
大内政弘は尾道に居た。山名宗全や畠山義就からは、いままで再三、上京を催促されていた。政弘が上京を遅らせていたのは、京都での戦況を見ていたのかもしれない。
「右衛門佐(畠山義就)からの手紙には、兵庫に早く入れ、入ったら兵庫片田商店の明石屋三郎、五郎の兄弟を訪ねよ、と書いてある」
「訪ねたら、どうだというのでしょう」水軍を統率する伊予の守護、河野通春が言った。
「なんでも、その兄弟が兵庫の細川方の土倉を調べあげているので、それらの倉を押さえて兵糧を奪ってしまえ、とある」
「片田商店が、ですか」
「うむ、尼崎の片田商店にも明石屋二郎、四郎が同様に調べをいれているとのことだ。細川方に知られぬよう、本文の文と、明石屋某の名前は別の文で来ておる。念の入ったことだ」
「片田商店は、かなり前から、このことがあるのを予見していたのかもしれません」
「片田商店が、当方に加勢すると思うか」政弘が通春に尋ねた。
「おそらく、加勢するでしょう。すでに私のところの村上義顕が、片田と示し合わせて塩飽水軍を攻略しようとしています」
大内政弘や河野通春が知る片田商店とは、『片田銀』という私鋳銭を発行するほどの豪商である、というものだった。
「金は持っているのだろうが、戦の役に立つものかの」政弘が言う。
「自分で見たわけではありませんが、私のところの村上が言うには、片田商店は『蓋付き』という船を持っています。この『蓋付き』が塩飽水軍を、たった一隻で蹴散らしたとのことです」
「たった一隻でか」
「はい。『蓋付き』が煙を発すると、塩飽船の帆が次々と破られてしまったそうです」
「では、村上と片田が塩飽水軍を、どう料理するか見ることにしよう。もし二人が勝てば、瀬戸内の制海権はこちらのものだ。細川の兵も兵糧も海を渡ることが出来なくなる。そうなったら、いそぎ上洛することにしようではないか」




