三角関数
片田村の上流、七郎さんの訓練場よりも南に、倉橋の溜池がある。水をせき止める堤の下に『ふう』と『かぞえ』、それに風丸がいた。『ふう』は二十八歳、『かぞえ』は十六歳、風丸は八歳だった。
彼女らは、覚慶運河の建設や、風丸の育児で中断していた片田村の上水道建設の準備測量をしていた。
『ふう』は『かぞえ』が測量している様子を見ている。『かぞえ』は分度器を大きくしたような板を縦に持って、その直線の辺に眼をあて、堤の取水口予定地の高度を測ろうとしていた。分度器の中心部分から細い紐で重りが下がっており、紐が分度器の交わるところの角度を『ふう』が見ることになっている。
すこし離れたところで、風丸が拾った木の棒を銃に見立てて、なにかを狙って発射するふりをしている。
『かぞえ』は、応神天皇陵での爆裂火箭暴発事件のときに、犬丸に説教していた少女だ。
『ふう』が『かぞえ』を可愛がるようになったのは、風丸の出産前後からだった。当時『かぞえ』は十歳くらいだった。
出産のため『とび』の村に帰っていたときに、『かぞえ』が『ふう』の家に入り浸るようになった。
村の学校で教えていた時、賢そうな子だなとは思っていた。出産を待つため、家で暇そうにしていた『ふう』を見つけた『かぞえ』が、もっと算数を教えてほしいとやってきたのだった。
『ふう』は、まず対数を教えてみた。
「掛け算が、足し算になるのか、ふうん」『かぞえ』が言った。
翌日、『かぞえ』が紙に書いた穴だらけの四桁対数表を作ってきた。『ふう』が対数の補完法を教えると。ほぼ満足な一から十までの間の対数表を作った。
「なにがしたいの」『ふう』が尋ねる。
「ないしょ」
次の日に、『かぞえ』は台の上に載せた細長い二枚の板を持ってきた。両方の板には数字と目盛りが書かれていた。
「これ、なにに使うの」
「簡単に掛け算ができる道具よ。二掛ける三だったら、片方の板の二のところに、もう片方の板の一を合わせて、その板の三の数字のところにある、もとの板の数字を見ると、ほら六でしょう」
板の目盛りは同じ右向きの対数目盛になっていた。計算尺だった。
「逆の方法で、割り算もできる」『かぞえ』が言った。
『ふう』は卓上用の拡大器を『かぞえ』に与えた。拡大器とは、安宅丸が船板を作るときに型紙を拡大した装置だ。計る所と、指す所を逆にすれば、縮小器にもなる。より精密な対数目盛を作ることができるようになった。
三角関数を教えると、三角関数用の計算尺も作ってしまう。現代の計算尺で言えば、S尺、T尺にあたる。
以来、『ふう』は『かぞえ』に気を配るようになり、様々なことを教えた。
先日、『かぞえ』が一枚の紙を持ってやってきた。その紙には直角に交わった二つの矢印と、x、yという記号が書かれていた。
xもyも、sin、logなどの記号も、片田が未来から持ってきたものをそのまま使っている。
「これの意味が分かった」『かぞえ』が言った。
「これって、座標系のこと」
座標系は、三角関数やベクトル、物理などの教育課程で多用している。座標系も同様に片田が教えてくれたものを鵜呑みにしていた。
「そう、座標系は、幾何の問題を数式で解くためのものよ」
現代的に言えば幾何学の問題を代数学で解く、ということだ。
『ふう』は、『かぞえ』の言っていることがよく解らなかったが、なぜか胸がドキドキした。いままで、ぼんやりと考えていたことを明確な言葉にされた、という感じだった。
例えば、ある山の、いま居る位置Aからの高さを測るとしよう。
『ふう』のやり方はこうだ。
位置Aで、山の頂上の仰角(上向きの角度)ΘAを測る。大きな白い紙を持ってきて、そこに地平線を書き、地平線上のa点からΘAの角度の線を仮に引く。次に山の頂上と正反対の方向を向きDの距離だけ歩く。ついたところをBとする。AとBの標高は同一とする。ここでもう一度、山の頂上の仰角ΘBを測る。紙の上で同様に地平線上のb点からΘBの角度の線を引く。紙上のa点とb点の距離をdとしよう。二つの線が交わったところから、地平線に直角に線を引けば、それが紙上での山の高さhになる。紙上のhとdの比は実際の高度Hと歩いた距離Dの比と等しい。dの長さは物差しで測ればよい。dの実際の距離Dは歩数でわかるから、比の計算でHが分かる。
交点が紙の外になる場合には、歩く距離Dを増やせばいい。
つまり、『ふう』のやりかたは、紙の上に現実と同じ比率の図形を書いて、それの長さを測るというものだ。
ところが、『かぞえ』は言う。座標系と三角関数があれば、紙の上に実際に等比図形を書かなくともいい。
「山の頂上真下の地点Oと、Aとの間の距離をD0(ディーゼロ)としましょう。tanΘAはH/D0よね。tanΘBはH/(D0+D)だわ。だから、こうやって変形してtanΘAとtanΘBとDだけの数式を作ればいい、そうすればこの三つの数字だけで、図形を描かなくても、計算だけで高さHがわかるもの」
いま、彼女達は、『かぞえ』のやり方で上水道の取水口予定地の高度を測ろうとしていた。『かぞえ』が計算した高度は、『ふう』が紙上で測った高度と一致した。




