小猿(こざる)
『上京の戦い』の初期の焦点は実相院であった。
堀川小路を堀川が北から南にながれる。そのすぐ西側に山名宗全の邸がある。堀川小路から東へ、一町半(百八十メートル)程行ったところに、小川が、これも北から南に流れている。小川の東側に細川勝元の邸がある。
この東西の幅一町半の土地の取り合いであった。
実相院は、東を小川に接して、この争奪戦の地に突出していた。小川の向こう側は正実坊である。
山名方は実相院に対して、宗全直属の但馬守護代、垣屋氏が攻めかかる。細川方は讃岐国の、後に細川四天王と呼ばれる猛将達を実相院に送っていた。
垣屋氏の兵は、実相院と道を挟んだ邸に侵入し、その塀に登り、実相院へ矢を射かける。このあたりは、武家や公家などが住む高級住宅街であった。
攻めあぐねた兵は、傍若無人になる。戦に必要なものを侵入した邸から調達し始めた。
屋根瓦をはがして割り、相手方に投げ込む。柱や梁を外して邸内に矢倉を建てる。戦の邪魔になる建物は燃やしてしまう。
午後になり、斯波義廉軍の朝倉孝景、甲斐敏光、織田敏弘などが、一条大宮にある備中守護、細川勝久邸を南から囲んだ。細川方は京極持清を救援に向かわせるが、京極軍は跳ね返される。
これを見た細川方は、さらに赤松政則の軍を向かわせる。赤松軍が持ちこたえている間に勝久は邸からの脱出に成功し、東の阿波・三河守護である細川成之の邸に逃れる。
斯波軍は勝久の邸に火を点け、これを焼尽させてしまう。
斯波軍はさらに成之の邸に襲い掛かり、周囲の寺などと諸共に焼いてしまった。
戦域は一条付近まで拡大していた。あちこちで上がる火の手が延焼をはじめ、数えきれない家屋や寺院が焼かれていった。
「今朝方から、細川の軍が京都で山名と交戦し始めた、というのだな」片田が早馬で報告に来た小猿に言った。
「そうでさぁ。昨日からあわただしかったんですが。未明に細川が動き出しました」
二人が居るところは堺である。
京都片田商店の棟梁、藤林友保は、部下の報告から、これは小競り合いでは終わらぬ、と判断した。
そこで、辰の刻(午前八時頃)に、小猿を片田に派遣することにした。
かつて堺と『とび』の村の間に置いておいた駅伝を、このときまでに、堺と京都との間にも作っていた。
三里(十二キロメートル)程の間隔で、協力農家を募集し、馬を数頭預ける。この馬を乗り継いで連絡をするという方法だ。
馬は速足と呼ぶ時速十二キロメートルの速度で、一時間程走ることが出来る。馬にしてみればジョギングをしてる程度の運動量だ。駅毎に馬を乗り換えて京都と堺の約六十キロメートルを五時間で移動できる。
今は、未の刻(午後二時)頃である。
「では、打ち合わせ通り、友保殿達は九条の家に移動しているのだな」
京都で戦乱が起きたとき、片田商店の商品はそのままでよいから、堀川が九条通と交差するあたりに借りておいた空家まで避難することになっていた。
「それがどうも、そういうわけにいかないんでさ」
「どういうことだ」
「『あや』様が、まだ」
小山七郎さんの場合もそうだが、片田が育てた子供達は特別な才能あると思われているらしく、周囲の大人が敬称を使うことがある。
「『あや』がまだ京都にいるのか」
「はい、そうなんで。それで親方も困っています。あっしが来たのは、その相談もあって」
小猿は知らないが、その日のうちに二条より北の多くの場所が焼け野原になる。『あや』の店と京都片田商店は、二条よりわずかに北にある。
「わかった、急いで京都に戻れ。そして棟梁に行ってくれ。『あや』を連れて九条の家まで移動するんだ。嫌がるのであれば簀巻きにしてもかまわん」
「私は、これから大和の片田村に行き、兵を連れて京都に上る。もし、九条に行けないのであれば、片田商店で持ち堪えてくれ。明日の朝、あるいは遅くとも午刻までには片田商店に入る」
もう、戌の刻(午後八時)に入ったろう、小猿が思った。京都は目の前だった。伏見にある最後の駅で馬を乗り換える。
九条の隠れ家の前を通り、棟梁たちがいないこと、家が無事であることを確認した。北の方角を見ると、所々に火事の赤い光が見える。木の焦げる臭いがする。この夜は北風だった。
上京に近づくと、兵とも夜盗ともしれない者たちが見られるようになった。
僧兵姿の者が路に倒れている。小猿は馬を降り、その者から薙刀を奪う。
堀川小路から右に曲がって冷泉小路(夷川通)に入ると、足軽とも呼ばれる兵の数が増えて来た。左右の商店や公家邸を襲っているらしい。小猿の姿を見ると、襲い掛かってくる者もいた。馬を走らせながら、薙刀を使いあしらう。
相手をする必要はなかった。
「お頭達、大丈夫かな」小猿が言う。
片田商店のあたりには足軽がいなかった。
小猿が片田商店のある筋に入り、商店の隣の空家に入る。くぐり戸が無くなっているので、誰でも空家と分かる。そんなところには足軽たちも入らない。大戸を開けて馬を中に入れる。
小猿は奥に行き、厠らしき戸を開ける。向かいの壁も戸になっている。それを開けると片田商店の『通り庭』に出た。
「お頭、小猿が帰りました」
「おう、よく帰った。今夜は忙しいぞ」藤林友保が答えた。




