上京(かみぎょう)の戦い
応仁元年五月二十五日(西暦1467年6月26日)の日が暮れようとしている。この日、京都では梅雨空の下、兵や荷車があわただしく動いていた。
明日より『上京の戦い』が始まる。この戦いにより応仁の乱が始まる。
現在の京都御所の南側半分を除いた正方形を作るとする。それを左上に移動して、正方形の南東端を、元の御所の西北端に一致させる。その時の正方形の範囲が上京の戦いの主な舞台となる。
かなり狭い範囲である。
上京の戦いに登場する邸などを東から西に並べておく。それぞれの道は南北に走っている。
東
■相国寺
烏丸小路(烏丸通)
■室町殿(上立売通と北小路の間)
■今出川殿(北小路南側)
室町小路(室町通)
■一色義直邸
町小路(新町通)
西洞院通大路(西洞院通)
■細川勝元邸(上立売通り北側)
■正実坊(同志社大学新町キャンパスの南縁を小川通まで延長したあたり、小川通の東側)
小川(小川通 豊臣秀吉の『天正の地割』で新設))
■実相院(同上、小川通の西側)
油小路
堀川小路(堀川が流れる。山名宗全邸のところで舟橋という橋が堀川に架かっている)
■山名宗全邸(上立売通南側)
猪熊小路
■細川勝久邸(一条通北側)
大宮大路
西
細川勝元を中心とした勢力を東軍といい、山名宗全の元に集まった軍を西軍という。
東軍の本陣は、細川勝元邸であり、西軍のそれは山名宗全邸である。両邸とも四方に矢倉を建て、塀の上に楯を並べて要塞化している。邸の周囲のいくつかの道は、深く掘り下げてあり、さながら京の町中に城が現れたかのようであった。
応仁の乱は、東軍十六万、西軍十一万の兵が参加したとされているが、この時には、それほどの兵力は京都にはいなかったと思われる。
西軍は、畠山義就が河内の兵を連れて来ているのが最大だろう。それ以外は守護大名が上洛時に連れてきた兵だけだったと思われる。細川勝元側の諸国への牽制が痛かった。
それに対して、東軍は細川勝元が摂津、讃岐、土佐の自国軍勢を既に上京させていた。加えて斯波義敏も越前から兵を連れて上洛していた。赤松政則の軍の一部も播磨国から戻っている。
畠山政長も河内国、紀伊国を義就に奪われていたが、これらの国の政長派と越中国の兵を集めて上洛している。
数だけでいえば、この時点では東軍が有利である。
細川勝元は、短期決着できると踏んで戦端を開くことにした。
翌二十六日の未明。細川方の武田信賢が小川を越えて実相院という寺院に侵入し、これを橋頭保とした。ついで成身院光宣が小川対岸の正実坊という公方御倉の土倉を押さえ、これも要塞としてしまう。公方御倉となれる程の土倉は、最初から堀や石垣を周囲に構えている。実相院との間の連絡路を確保した形だ。
二人は実相院と正実坊に守兵を残し、東に駆け、一色義直邸に襲い掛かる。義直邸は室町第と室町小路を挟んで向かい合う位置にあった。
一色義直邸や室町第があるあたりは、平安京による都市計画の外側にある。しかし平安京の延長であり、都市計画が似ている。
細川勝元や、山名宗全の邸は、それぞれ一町(約百二十メートル四方)に近い広さがあった。しかし、義直の邸はそこまでの広さではなく、一町の四分の一程であった。
義直邸の東側は室町小路を挟んで室町第に面している。将軍御所への配慮から堀を掘ることが出来ない。
信賢と光宣は、その東側の塀から攻め込んだ。義直はたいした抵抗も出来ずに逃走し、南回りで山名宗全邸に逃げ込むことになった。
日が山の端を離れて上ってゆく。山名宗全がその太陽を仰ぐ。東の方から戦の音が聞こえる。
宗全にとって不本意な成り行きであった。
一月の御霊合戦で将軍と管領職を押さえた。斯波義廉による管領下知状により、諸国を思うがままにできるはずであった。
ところが、細川勝元は、水面下で兵を動かし、京都に至る途中の国々で戦を起こし、山名勢の上洛を止めた。
その間に、勝元は諸国から兵を集め上洛させた。京都周辺の国は細川領が多かった。
特に四国の細川兵は、船で細川勝元が守護を務める摂津国の尼崎に入り、なんの問題もなく京都に入ることが出来た。摂津に隣接する播磨には赤松が暴れこんでいたので、宗全は摂津を通る細川軍に手を出すことが出来なかった。良く計算されたやり方だった。
このあたり、出来るのならば応仁の乱開始時の守護配置がわかる歴史地図を見ていただきたいと思う。浦上則宗の策により、京都に入る道、摂津も近江、若狭も細川派によって抑えられていて、山名派は京都に入ることが難しい。
細川方は兵も兵糧も自由に京都に運び込めるのに、山名方はそれが出来なかった。山名方の兵で京都にいるのは義就軍と朝倉孝景軍を中心とした、御霊合戦の時に上洛させた兵だけであった。
気が付いた時には、劣勢になっていた。
そこで再度、将軍御所を押さえて挽回しようとした矢先であった。
宗全も、実相院、正実坊を押さえて道を確保し、味方の一色義直の邸を足掛かりにして室町第に兵を入れようとしていた。それをそのまま勝元にやられてしまった。
これは、よくない。敗れるかもしれない。




