染物工房(そめものこうぼう)
『あや』は北隣りの、空家になっている商店を染物工房とするために借りた。
入口は締め切ったままとして、鏡屋の裏庭に戸口を設けて工房に入れるようにした。最近は物騒なので外から見て、空家のままのようにしておいたほうがよい、と思った。
なので、工房の正面は角大師様が路の方を睨んでいるだけだった。
三人の絵師が『あや』の仲間になった。
まず、村上家の信子という二十歳くらいの娘が店に鏡を買いに来た。彼女は、店頭に置いておいた染物の見本に興味を持った。
『あや』が染物の服を作ろうと思っているの、と説明して工房の畳ほどの大きさの謄写版を見せる。
信子は、幕府に仕える、国絵図や戦絵図を作る絵師の娘だった。絵を描く職人が必要なのであれば、私とあと二人ほど、絵を描ける女性を知っている、一緒にやらせてもらえないだろうか、と持ち掛けて来た。
信子が連れてきたのは、狩野家の雅子、土佐家の茂子の二人だった。
雅子は狩野正信の姉で年の頃は三十代後半くらいだった。茂子は土佐光信の妹で、三十歳くらいだ。
三人とも絵師の家で育ち、絵を描くことが好きだった。しかし、女性がいくら絵を描いても、その絵が御所や、内裏、名刹古刹の障子を彩ることはない。そのようなところに絵を納めることが出来るのは男性だけだった。
ところが、『あや』が考えているとおりになると、京都中の女性が、彼女らの絵を纏って市中を歩いてくれることになるのだ。
御所や社寺の奥にしまわれているより、よほど人目にふれる。多くの人に自分たちの作品を見てもらえるだろう。
これはやりたい。彼女たちは思った。
また、彼女たちには描きたい絵があった。彼女たちが理想とする絵は、当時流行していた院体画のようなものではなかった。それらは直線が折れ曲がるような鋭さがあったが、彼女達の望む絵は、もっと曲線的なものだった。
連続的に曲率の変わる、なめらかな曲線を組み合わせたような絵が彼女たちの好みだった。そのような曲線で、スズメや鯉、花などを描いていた。
また、色も華やかで、変化に富んだ色彩を好んだ。
三人が意気投合したのは、高山寺の鳥獣戯画が好きだというところからだった。三人はそれぞれ、父や兄弟に同行して栂ノ尾に参っていた。
あのような丸い線が彼女らの望むものだった。
「どうせやるのならば、日本中の美しいものを詰め込みたいの」『あや』が言う。
雅子が首を傾げながら言う。
「そうねぇ。日本の美しいものというのは、三種類に分かれるかしらね」
「どの三つ」
「まず雄大素朴な万葉風の美ね」
「うんうん」
「次が古今調の王朝美」
「それから」
「最後が新古今調の幽玄妖艶美ね」
「三つともやりましょう」『あや』が言う。
「どうせやるのなら、それぞれの春夏秋冬、四つの図柄にしない」茂子が言う。
「そうね、四季折々の絵を試したいわよね」雅子が同意する。
三つの画風で、四季ということは十二種類ね、一つ二百着染めたら、二千四百か。『あや』が内心で皮算用する。
「最初は、全部、型摺りにしましょう。それで人気の出た絵柄については、後で手描きの高級品を別に作るのはどうかしら」
「そうよね、手描きは評判を見てからの方がよさそうね」
それぞれの図柄の構成は信子が担当することにした。国絵図を描く家なので、全体の構成力があった。雅子と茂子は花とか鳥とかの各部品の図案を画風ごとに描いてみることにした。
「それぞれ、万葉風、貫之風、定家風という商品名にしましょう」雅子が言った。
それから、四人は毎日のように、染物工房で仕事をした。『あや』は鏡屋の仕事を弟の番匠屋三郎に押し付けた。
「ねえちゃん、勘弁してくれよ。鏡屋の店番なんか、出来るわけねえだろう」
「いいからやりなさい」
しかし、これは失敗だった。鏡屋の店頭で男性の三郎が店番をしていると、入ってきた女性客が逃げていった。
しかたがないので、近所の若い娘を雇い、客が来たら工房に『あや』を呼びに来るようにと言いつけた。
三郎と兄の二郎が、鏡屋と工房の屋根に登って、『針貫き』と呼ばれる竹製の槍衾を取り付ける。これは『忍び返し』とも言う。
諸国の言葉を話す兵を見ることが珍しいことではなくなった。米も、塩も、酢も、あらゆるものの価格が高くなっていった。
戦が近づいている。
そのなかで、『あや』の工房の中だけは、彼女達の楽園だった。




