瓢(ひさご)
前の年の夏に戻る。梅雨明け十日は毎年よく晴れる。早朝、好胤さんと片田が三輪道を歩いていた。金屋の辺りで、三輪道から外れ、山の方に向かう。大神神社の隣にある薬泉寺が目的地だ。
「薬泉寺の覚慶は古い馴染みでな。あいつも目では苦労している」
片田は、眼鏡の縁やレンズ一式が入った箱を背負っていた。小さな階段を登って、山門を潜ると、思いの外大きなお堂が現れた。好胤さんは遠慮なく方丈に入った。
「覚慶、おるか」
「おう」声が聞こえ、僧が現れた。好胤さんより痩せている。
方丈の座敷。
「こいつが順と言って、今うちの寺男をしておる」そう言って片田を覚慶さんに紹介する。
「眼鏡を作った男だな、早速見せてみろ」
「はい」そう言って、片田は箱の中から眼鏡の縁を取り出した。
「この丸いところにガラスで出来たレンズという物を入れます。レンズには種類があって、ちょうど良い物は人によって異なります。試さなければなりませんので、何か文字が書いてある物を持ってきてください」
「ここにあるぞ」覚慶は何かの書付を出した。
片方の目毎に幾つかのレンズを試す。
「覚慶さんは左目が三、右目も三ですね」片田はそう言って、箱の中から三番のレンズを取り出して、眼鏡の枠に嵌め、覚慶に渡した。
「なるほどのう、よく見えるわ」
覚慶さんは、書付を持って、方丈の奥、薄暗い所に行って、試す。
「暗くとも、よく見える。すごいもんじゃ。で、これを二百文で売ると言うのか」
「はい」
「欲の無い男じゃな」
「その代わりと言う訳ではありませんが、このような物も用意しました」
そう言って、片田は、円を二つ繋げた木片を出した。
「眼鏡の縁のところは鉄がむき出しで無粋です。これは鉄の部分を隠すもので瓢と言います。桐で作っているので軽い物です」
形が瓢箪に似ているので、片田が瓢と名付けた。現代でいえばスマートフォンのケースのようなものだ。
片田は渋色、黒、赤の瓢を出していった。
「この柿渋を塗った物は二十五文で売ります。黒漆、赤漆は五百文です。漆に金砂を散らした物は一貫です。他にもご注文があれば、べっ甲、沈香、白檀の瓢も用意できます」
「沈香、白檀とな、それは坊主が好きそうじゃな。いくらで売るつもりだ」
「沈香、白檀は二十貫です」
「こりゃあ、恐れ入った」
「な、覚慶、面白かろ。こいつは、金持ちから銭を巻き上げようとしとる」好胤さんが言った。
「面白い。近々大乗院(興福寺の一部)に行くつもりじゃが、精々見せつけてやろう」
「覚慶さんも好胤さんもお坊様なのに、興福寺の事をあまり良くおっしゃりませんね」
「当たり前じゃ。今の坊主は、裏に回った高利貸しじゃ。わしも好胤も、それに嫌気が刺して、こんな貧乏寺に居る」
「そういうことであれば、わしは奮発して黒漆の瓢を買うてやろう。大乗院の表六玉どもの呆れる顔が今から楽しみじゃ」覚慶さんが笑いながら言った。
帰りの道で好胤が言った。
「座と言うものがある。紙なら紙、酒なら酒、これを独占販売する集団だ。これに入らなければ紙や酒を売ることが出来ぬ」
「なぜ、座があるのですか」
「誰でもが紙や酒を売れば、競争になって価格が安くなってしまう」
「そうですね」
「おまえは、精米器を隠しておるじゃろう。仕組みを教えてしまえば誰でも白米を簡単に作れるようになってしまう。そうなると一俵で六十文も取れなくなる。同じ事だ」
「座を作っても、隠れて作る者が出るのではないですか」
「そのような者を痛めつける暴力装置があればよい。そこで座は銭を払って寺に保護を求める。寺には僧兵がいて、勝手に紙や酒を売る者を取り締まる」
「そういう事ですか」
「寺は、そのようにして集めた銭を土倉などに預けて利息を取る。土倉はそれを民に高利で貸して、さらに利息を取る。民は苦しくなり、我慢できなくなると一揆が起きて、借金を帳消しにさせる。その繰り返しじゃ。浅ましいことだ」
好胤さんは切なそうな表情をした。
「わしも、覚慶も、若い頃は興福寺におったのじゃ」




