播州坂本城
“諸国の兵が上京できぬ程度に暴れて欲しい”
浦上則宗は、細川派の諸将にそう言っていた。
しかし、自身が属する赤松軍の播磨派兵は、そうではなかった。赤松氏の旧領である播磨一国から山名軍を追い出すつもりであった。それどころか、あわよくば美作国、備前国も取り戻そうとしていた。
則宗は赤松氏の一族である宇野政秀を播磨に送った。
赤松氏は室町幕府の成立以来、百年以上も播磨国の守護を務めていた。そのため、赤松軍が播磨に入ると、赤松氏を支持する旧臣、牢人、寺社、百姓などが赤松軍に集まってきた。
「赤松の殿様が帰ってくるそうだ」
「殿様って、誰のことだ。大膳太夫(満祐)様も、その御子の彦次郎様も、嘉吉の時に自害されているはずだ」
嘉吉というのは、『嘉吉の乱』すなわち赤松満祐が将軍足利義教を暗殺したことを指している
「大膳太夫様の弟の伊予守様(赤松義雅)様も自害されていたはずだ」
「ところがだ、その伊予守様の御子の千代丸様を上総介(赤松満政)様が密かに匿っておられたのだそうだ」
赤松満政は、赤松家の一族で、満祐の叔父である。将軍義教の側近であったため、『嘉吉の乱』では、山名宗全とともに満祐の討伐を行っている。
「敵味方に分かれていたのに、そのようなことをなされていたのか」
「その千代丸様は早世されるが、千代丸様の御子が今回の赤松軍の総大将だそうだ。政則様というらしい」
「知らなかったが、既に加賀半国の守護をなされているそうだ」
播磨国とは、兵庫県西部の明石、姫路、赤穂市などとその奥の山間部のことを言う。播磨の国の国府は、今の姫路城のあたりとされているが、室町時代の守護所は、国府の北西にある書写山の山際、坂本城にあった。
現在の加古川市側から姫路市に行こうとするときには天川が削る細い回廊を通らなければならない。
山名軍は御着(地名)あたりで、天川の西に着陣し、赤松軍を待ち構えた。天川の東側に赤松軍が到着し、両者が矢戦を始める。
川を挟んで一刻ほど矢を射ちあったときに、若宮神社裏手の森から兵の集団が現れた。姫路の赤松旧臣を結集した小寺政隆が山名軍の背後から襲い掛かかる。装備の整っていない小寺勢は、短く切った槍や竹槍を、いくつも山名軍の背後に投げた。
敵の混乱に乗じて、赤松軍が天川を渡る。山名軍は耐えることができず、南と北に分かれて逃走していった。
進軍する赤松軍は市川を易々(やすやす)と渡る。
御着の合戦場には、両軍の死者や負傷者が横たわっていた。
野盗の群れが彼らを襲う。胴を守るだけの鎧である腹巻や脛当、鉢金などを盗んでいる。
そのなかに、二十名程、野盗とは思えない集団がいた。太刀で野盗を蹴散らす。彼らも具足を盗んでいた。さらに壊れていない槍や山名方の旗指物なども取っていた。
会戦に敗れた山名勢が坂本城に戻って来ていた。南北に分かれて逃げたので、戻ってくる者たちは、三々五々と分散して入城する。そのなかに先ほどの集団がいた。山名の旗指物を持っていたので、城兵には疑われずに入城できた。
宇野政秀は短期間に播磨国を制圧することを求められていた。直後に京都で合戦が予定されているからだ。そのために、赤松家としては破格の軍資金を与えられていた。
彼はその金で楯岡同順という忍びの頭を雇っていた。忍びには高額の成功報酬が与えられる。多数の兵で長期の攻城戦を戦う費用は莫大なものになる。短期間に攻略できるのならば、相当な報酬を払うだけの価値があった。
翌日、坂本城の南側で軍を整えた赤松軍が動き出す。両者がしきりに矢を放つ中、楯で守り、丸太を持った兵が、坂本城の城門に突撃して門を破ろうとする。二度、三度と突撃を繰り返すが、門が破れる兆しは見られなかった。
終日矢を射ち合った両軍は、戦を翌日に持ち越すことにしたようだった。
子の刻が満ちる頃(午前零時頃)、坂本城の複数の曲輪から出火した。夜間の守衛は倒されていた。
「我々は赤松家臣、別所大蔵の家中である、赤松の旧恩に報いるために、城内より火を放ち、本来の城主に城をお返しするものである」
「同じく、小寺家中である」
「平野家中なり」
楯岡の配下の忍者は口々にそう叫びながら城内で暴れまわった。もちろん嘘である。
目を覚ました城兵が出火場所に気を取られている隙に、正面の城門に控えていた忍びにより、門が開けられた。
赤松の兵は城のすぐそばにまで忍び寄っていた。それが一斉に城内に走りこむ。城内は幾つもの門で区切られていたが、それらの門も開け放たれていたため、赤松兵は瞬く間に本曲輪にたどり着く。
体制の崩れてしまった山名軍は、北側の城門から逃走した。彼らは後詰の山城である城山城を目指して、西に逃げていった。




