松笠菱(まつかさびし)
文正二年(一四六七年)三月五日、改元がなされ、応仁元年とされた。改元の理由は京都市中での兵乱であった(御霊合戦)。
改元を祝して、山名派の大名が足利義政の室町第を表慶訪問した。室町第の次に彼らは足利義視の住む今出川殿を訪問するが、両者の距離は三町(三百三十メートル)程の近さであったので、徒歩で行くことになった。
これが自然にパレードになった。
先頭から山名宗全(山名家当主)、教豊(播磨、備後、安芸守護)親子が先頭だった。
次いで、山名教之(伯耆、備前守護)、山名豊氏(因幡守護)、山名政清(石見、美作守護)など、宗全の親族の守護大名が続く。
さらに、斯波義廉(管領、越前、尾張、遠江守護)、畠山義就(河内を支配)、畠山義統(能登守護)、一色義直(丹後、伊勢半国他守護)、土岐成頼(美濃守護)、六角高頼(近江守護)など、宗全派の守護大名が続いた。
いずれも煌びやかな衣装をまとい、金銀珠玉細工の施された太刀を佩いていた。
山名派が都でパレードを行っていたのと同じころ、米俵をたくさん積んだ剣先船が十艘、淀川を上っていた。山名教豊の領国、播磨から京都の宗全派に兵糧を送る舟だった。淀川は、その名前の由来となった淀の地で桂川と宇治川、木津川に分かれる。
彼らの剣先船は桂川を上るには喫水が深すぎた。淀の津で上陸して、そこから陸路で宗全邸まで米を運ぶつもりであった。
その淀の津が近づいてきた。
船泊のあたりに旗幟が幾つも見える。近づいてみると細川家の松笠菱である。
「淀に着けるのは無理のようだ。巨椋池に入ろう」先頭の舟にのる頭が言った。
初めからそのつもりであったかのように、船泊を通過して巨椋池に入る。
複雑な砂州の間を縫って伏見の向島の津に近づいた。幾羽もの水鳥が飛び立つ。
「ここも細川の幟だらけだ、どういうことだ」
兵の頭はここも通過した。幟を持った細川兵舟を誰何しなかった。舟が過ぎていくのを見送った細川兵がニヤリと笑う。
巨椋池の東岸に近づいた。
「さて、どうしたもんかな。宇治まで行ってみるか、それとも木幡に近いところに寄せてみるか」
宇治の津も細川に抑えられている可能性が高い。それよりは木幡宿に近いところの岸に寄せて人を送ってみるか。木幡から馬借を呼ぼう、ということだ。
頭が葦原の薄いところに舟を着ける。最後尾の舟が呼ばれる。その舟には馬が一頭乗せられていた。斥候や連絡用の馬だ。
「五郎、馬に乗って木幡宿まで行ってみてくれないか」頭が言う。
木幡宿というのは、すこし東にいった奈良街道沿いにある馬借の集団居住地のことである。
五郎と呼ばれた十五、六の若い男は、芽吹いたばかりの柳や沼地を避けながら東に向かい、奈良街道に出る。そこから北に向かい、木幡宿を遠くに見る所まで来た。そこにも細川の幟が立っていた。
木幡を迂回して、さらに六地蔵まで北上してみる。六地蔵宿も同じであった。京都の南部のあらゆる津と宿に細川の兵がいる。
「これはどうしたことだ、細川の兵だらけではないか」五郎は舟のところに帰ることにした。
舟を接岸させたところに戻ってみるが、舟も頭もいなかった。湿地など、どこも同じようなものだから間違えたのかと思い、近くの岸を南北に移動してみるが、舟は見当たらなかった。
最初の所に戻る。日が傾いてくる。どうしたものか。
なにかを感じた。においだ。
血のにおいがする。
五郎は馬に乗ったまま、巨椋池の岸辺から目前の芦原に入る。血のにおいが強くなる。馬を降り、葦をかき分ける。
頭の死体があった。あたりをさがすと、他の仲間の死体も見つかった。
膝が震えて、うまく立てない。黒い水面をかきまわすように歩き、ようやくのことで馬の背に乗る。
どうしよう。どうしよう。
脳裏にいくつもの松笠菱が現れる。
やがて、意を決したようだった。五郎は薄暗がりのなか、京都の山名宗全邸を目指して走っていった。




