浦上則宗の策(さく)
昨日の投稿において、朝倉孝景さんと浦上則宗さんを取り違えてしまいました。
赤松政則の家臣は、浦上則宗です。
すぐに削除したのですが、既に読まれてしまっていた皆様には、申し訳ありませんでした。
訂正して投稿いたします。
畠山政長は、細川勝元の邸に逼塞している。
御霊合戦の前、彼は河内、紀伊、越中の守護であった。
政長の親族で、能登守護の畠山氏は畠山義就方についた。彼が不在の間に紀伊国は、能登の畠山正国に奪われる。
越中も、隣の能登から、正国の兄である畠山義統が国境を越えて刺激してくる。河内は既に義就に奪われていた。
一月に管領が政長から山名派の斯波義廉に変わって以来、幕府の諸大名に対する指示は義廉が発行する管領下知状によっておこなわれている。
細川勝元は蚊帳の外に置かれた。
幕府より諸国に、臨時の戦費調達の指示が出たが、勝元の領国である摂津・丹波・和泉などへの調達指示は、勝元に対してではなく、現地の守護代に対して直接行われた。
これでは、勝元も気付かざるを得ない。今回の騒動は、単なる畠山家の家督争いではなく、山名宗全による細川勝元外しである、と。
勝元は、赤松などの反宗全派の大名を自邸に呼んで対策を検討した。
「敵軍の上洛と兵糧輸送をなるべく阻止し、その間に自軍を京都に入れるのが最も優先されます」赤松政則の重臣、浦上則宗が言った。
「どのようにしてやる」勝元が尋ねる。
「幸い、京都の近く、若狭、丹波、摂津、和泉などは、お味方の領国です。河内は義就ですが、これは既に都に入っています。大和は両派が分立しています」
「そのとおりだ」
「これらの国の、さらに周囲の山名派の領国は丹後、但馬、播磨、近江、伊勢、越前などです。あと、紀伊は政長殿の領国でしたが、最近山名派が支配しました」
「それらを、どうする」
「これらの国で戦を起こします。国を奪う程の戦でなくともよいのです。軍がそれらの国を放置できない程度の戦を起こします。そうすれば兵の上洛を遅らせることが出来ます」
「山名派の軍が領国に釘づけになる程度に、ということか」
「そうです」
「山名派の軍が上洛してくる主な道は、播磨になるでしょう。ここは赤松家の旧領でありますので、我々が軍を出します」播磨国奪還は赤松家の悲願である。
「丹後の一色義直については、武田殿にお願いしたい」
「弟の国信にやらせよう」武田信賢が言った。国信は信賢の十七歳年下の弟である。国信は、このとき将軍義政の御供衆として京都にいたが、これを下国させることにした。
「伊勢の半国も一色が持っているが、これは大膳太夫殿にお願いしたい。上洛出来ない程度に騒いでくれれば助かる」
「よかろう。微力ながら助力させていただく」大膳太夫と呼ばれたのは土岐政康である。彼の父は伊勢の守護を務めたこともある有力者であったが、時の将軍、足利義教に疎まれ自害させられていた。政康にとってはお家再興の機会である。
「越前は、源三位殿に起っていただくことにしましょう」源三位殿とは越前に落ち延びている斯波義敏のことだ。
「あと、大きなところでは、近江の六角高頼ですが、これには六角政堯を当てます」六角政堯とは、前の近江国の守護であったが守護代の子を殺めてしまったため、廃嫡されていた。
政堯は現在赤松家に寄宿している。これを近江半国守護の京極氏に預けて、近江の六角高頼に当てようというのだろう。
「これだけ騒動を起こせば、宗全方は上洛するのに苦労するでしょう。次は敵方の兵糧ですが、これは主に二つの経路で運ばれます。第一は瀬戸内海から兵庫、尼崎、堺に入ります。これらの港は全て右京太夫殿の摂津国にあります」浦上則宗が、さらに言った。右京太夫とは細川勝元のことだ。
「どうしようというのだ」勝元が尋ねる。
「略奪します」則宗は、当然だという顔で言った。
「わかった」勝元は少しひるんだ様子で答えた。
「都に兵糧がはいる、もう一つの道は若狭の小浜と、越前の敦賀です。武田殿の弟君には、この方面の兵糧の押さえもお願いします」
「承知した」
「最後に、念のため京都周辺の津と馬借も押さえましょう。これは今京都にいる勢力だけで行えるでしょう」
「なにをやればいい」
「京都の南、淀川と巨椋池にある津を味方の兵で押さえます。さらに馬借達の集住地を囲み、我々の荷物のみを運ばせるようにいたします。彼らの集住地は、北は粟田。南は淀、伏見、六地蔵、木幡です」
「よく、そんなことまで知ってるおるな」
「輜重は兵法の重大事です」
「いずれ、宗全方も気づくことになるでしょうが、それまでの間でも、いくらかは効果があるでしょう。そうしているうちに、味方の兵を京都に集めます」




