御霊合戦(ごりょうがっせん)
政長が陣を置いた上御霊社は、守りやすい場所だった。東から南は、当時は小川であった。この川は賀茂川上流の取水口から導かれた導水であり、上御霊社の脇を回り、南の相国寺の中を抜け、今出川となり、内裏の上水となっていた。
東側は、声聞師池という池が室町時代までは残っていた。そのさらに向こう側は賀茂川である。
上御霊社に配置された軍を攻めようと思うならば北側から攻めるしかない。
加えて、上御霊社は山名宗全が足利義政を擁している室町第にも近い。室町第は相国寺の西隣りにある。
政長が上御霊社に布陣したという知らせが足利義政のところに来る。彼の居る室町第は山名宗全、斯波義廉などの兵が固めている。室町第の外では、これに対して西は細川勝元、南は京極持清の軍が将軍御所を取り囲んでいた。
京極持清は娘を政長に嫁がせている。
義政は諸大名に、両畠山の争いに加勢するな、と命令する。細川勝元はその命令に従った。しかし山名宗全、斯波義廉は従わなかった。
十八日、畠山義就は大報恩寺を立ち、上御霊社の北面に布陣する。すでに日が落ちかけていた。
義就の軍には、宗全の孫である山名政豊や、斯波義廉の家臣朝倉孝景も参加している。
義就方の遊佐就家軍は、社前の町屋に火を放ちながら、神域に突入する。
社の森から無数の矢が飛んできて就家軍に降り注ぐ。
日が落ちるが、両軍は町屋から上がる炎を頼りに攻撃を続ける。町屋が燃え尽きてしまうと、楼門に火を点ける。
疲労した遊佐軍に代わって朝倉孝景の軍が出てくる。包囲出来ない地形であったので義就軍は交代に出て来るしかなかった。
政長方では遊佐長直、神保長誠、成身院光宣などが奮戦している。
孝景軍は神楽殿まで軍を進める。政長軍は神社の拝殿まで追い詰められていった。
政長方の神保長誠が細川勝元のところに使者を出す。
「上意のため、参戦していただけないことは、いたしかたありませぬ。武運も尽きかけておりますが、まだひと花咲かせたく考えております。つきましては多少の弓矢と酒樽を一荷、いただけないでしょうか」
使者は、相国寺との間の小川を渡り、密かに室町通りを越え、油小路の細川勝元の邸にたどり着いた。
長誠の文を読んだ勝元は、何も言わず、使者に鏑矢を渡した。これは逃げてこい、という意味だった。
鏑矢を見た政長達は、拝殿に敵兵の死骸を集め、火をかけた。そして先に使者が走ったのと同じ道をたどり、細川勝元の邸に忍んで行った。
にわかに拝殿から火が出るのが見えた。火勢があまりに強くなったため、義就軍は中に入ることが出来ない。松明を持って周囲の森に兵が潜んでいないかと探すが、逃げた後のようであった。
翌朝、焼け残った拝殿後にいくつもの遺体が残されていた。さては最後と悟って自害したのであろうか、と皆思った。
幕府の中では、政長は生死不明ということになった。そのため数日後には大乗院の尋尊さんの所にまで、政長の捜索命令が来ることになったそうだ。
征夷大将軍というものは、足利義政が贅沢三昧の暮らしを続けるために置かれているのではない。日本の国の安定を維持するための権威として存在しているのである。将軍の権威により、武家は所有地の保有を認められ、あるいは争いごとになったときには、その判断をゆだねるのである。
それにもかかわらず、義政は守護大名家の内紛に燃料を供給し、それらを弱体化した。弱体化することにより、相対的に将軍の力を向上させようとした。
社会を安定させるのではなく、逆に不安定になるように導いていた。
大名たちはそれに気づいてしまっていた。
この時、細川勝元は将軍の権威に従い、兵を出さなかった。
しかし、畠山政長は将軍のお膝元の京都で軍を動かした。先例であれば都落ちするべきところだった。
対する畠山義就・山名宗全も、将軍の命令に反して、その政長と戦った。
もはや、将軍の権威に従うことはなかった。




