海港(かいこう)
畠山義就と片田は、まだ若江城で対面している。
堺は、摂津、河内、和泉三国の境にある、といわれるが、よくみてみると、河内は堺に接していない。河内国の最西端は八上郡長曽根村であった。現在の堺市北区長曽根町のあたりである。町内には金岡公園がある。
長曽根村から堺までは、仁徳天皇陵を間にはさんで、一キロメートル程の距離がある。南は和泉国大鳥郡、北は摂津国|住吉郡であった。
河内国は海に面していないのである。幅わずか一キロメートルほどの土地が河内国を阻んでいる。
この様子を現在に例えるならば、ペルシャ湾の最奥部が適当だと思う。シャットゥルアラブ川の河口付近で、イラン、イラク、クウェート三国が接近していて、いずれの国も現在は海に面している。
イランが摂津、イラクが河内、クウェートが和泉である。
チグリス川とユーフラテス川は、イラクの都市バスラあたりで合流してシャットゥルアラブ川となり、ペルシャ湾に注ぐ。
このシャットゥルアラブ川流域を、イランかクウェートいずれかの国が押さえてしまったら、どうなるであろうか。イラクは海に出ることができない。
おそらく、戦争になるであろう。
それが、当時の河内国最西端の状態だと思えばいい。覚慶運河が無い時には、それでもよかったかもしれない。従来、河内国の物流は、大和川をはじめ、南から北に流れる幾つもの河に依存してきた。しかし覚慶運河という東西を貫く物流の動脈ができてしまい、堺と大和が直結してしまった。河内国が海に進出したい、という動機が大きくなる。
覚慶運河は、この一キロメートルの間、摂津国側を流れている。この地帯は欠郡と呼ばれている地域で、細川家庶流の典厩家が分郡守護を行っていたとされているが、実際の支配の様子ははっきりしない。
片田はこの区間の工事に際して、誰の許可もとっていなかった。ここまで来た運河の利便性を否定できるものはいなかったので無許可で工事をしてしまっていた。
そして誰も文句をいってこなかった。
義就は考えた。片田が堺とその周辺を押さえてくれれば、自由に海に出て貿易ができる。摂津も和泉も細川の領地だ。どうせ敵対するのであるから、どさくさに紛れて片田が堺を取ることはできるかもしれない。片田が堺で動けば、細川の力を削ぐことにもなるだろう。
「わかった。片田、大和川以南、河内国での、そちの軍の通行権、軍物資輸送の自由をゆるすことにする」
「ありがとうございます」
「ただし、わしの軍を攻撃したり、河内で略奪を行った場合には、ただちに取り消すからな」
「承知いたしました」
「一万貫文は、いつ用意できる」
「堺に戻れば、すぐに用意できます」
片田は、銀などを京都から堺の土倉に移動させていた。
「では、遊佐を堺にやることにする。明後日に堺に着くであろう」
「一万貫、ですか」大黒屋惣兵衛さんが言う。
「はい」
「それを、畠山に貸すのですか」
「そうですよ」
惣兵衛さんが驚くのも無理はない。一文七十五円とすると、七億五千万円だ。それを右から左へと貸してしまおうというのだから。
「大丈夫ですよ。河内国を持っているのですから。来春になれば年貢で返すといっていました」
「でも、もし戦で負けたら、また吉野の山猿に逆戻りですよ」
「こんどは、そう簡単には負けませんよ」
「本当ですか」
「はい、前回は御一人で戦われましたから負けましたが、今度はおそらく、山名、大内と組んで戦をなされるでしょう」片田が言った。
「山名、大内とですか。組むのですか」
「おそらく」
「それは、大きな戦になってしまいますね」
「そうなるでしょう」
「堺にも戦火が及ぶのでしょうか」惣兵衛さんは七十年程前、応永の乱で、堺が焼け野原になったということを、堺生まれの商人達から聞いていた。
「さあ、それは分かりません」
片田は、自分が堺を戦にまきこむ、とは言えない。




