毒酒
伊勢貞親の家は、すでに八十年以上、代々足利幕府の政所の執事を、ほぼ独占してきた。政所は、幕府の財政を預かっている。今で言えば財務大臣のようなものである。
また、伊勢氏は将軍の嫡男の養育係を担うことも多かった。
足利義政は、幼時に伊勢貞親の家で育てられた。前年生まれた義政の嫡男、後の義尚も、いま伊勢貞親の家で育てられている。
その貞親にしてみれば、義尚が元服できる年齢になるまで義政が将軍職を担い、義政から義尚に移譲するのが最も望ましい。義政や日野富子は、先に還俗した義視を、つなぎの将軍にしよう、と考えているようであるが、寺で育った義視が貞親の言うことを聞くとは思えない。
山名宗全に接近する斯波義廉に対しては斯波義敏を当てて、これに家督を渡させた。
細川勝元に与する畠山政長に対しては、畠山義就に軍資金を与えて、これを挙兵させた。政長は河内に挙兵する義就の鎮圧に向かわなければならない。
足利義視も、これを除く。
そうすれば、大内、河野、義就などを味方に加えて、細川、山名を押さえることが出来る。
貞親はそう、思っていた。
九月五日。貞親は、室町第の酒宴にいた。
「最近、今出川殿の様子が、少しおかしいようで」貞親は義政に言う。
「そうか、先日来た時、そんな様子はなかったが」
今出川殿、と呼ばれたのは足利義視のことである。今出川に邸を構えているからだ。
「殿の御内書にもかかわらず、義廉が勘解由小路の邸を明け渡さず、逆に守りを固め、戦の準備をしているのは、今出川殿の後ろ盾があるのではないか、という噂です」
「なぜ、そのようなことをする。理由がないではないか。黙っていれば、すぐにも将軍職に就けるのに、事を構える必要などない。わしは、すぐにでも隠居するつもりだ」
「あまり、早急に決断するのは、いかがかと」
「先日、近衛に東山の隠居所用の建物図面を借りた」近衛と呼ばれたのは、前の太政大臣、近衛房嗣のことだ。彼の以前の邸が義政の趣向にあっていたものとみられている。彼の隠居所の土地は、まだ決まってはいない。
後に銀閣で有名になる慈照寺の場所は、この時点ではまだ義視が居た浄土寺の寺域の中にあった。浄土寺が応仁の乱で焼失した後に、その一角に建てられたのが慈照寺である。
義政の隠居が近い、貞親は考えた。
「今出川殿は、殿と、前年生まれた殿のお子を同時に除かれようしているのではないでしょうか」
「なに、吾子にまで手をかけようというのか」義政が気色ばむ。さすがに、嫡子に手をかける、などと言われると穏やかではない。
「いえ、そのようなことも、念のため配慮しておかなければ、というだけのことでございます」
「脅かすものではない」
その時、義視の使いの者が酒樽を持参して、やってきた。
「伊勢殿と酒宴とのことで、安酒でありますが献上にまいりました」使者が述べる。
「ほれみろ、あやつはいいやつじゃ」義政が貞親に言う。貞親は応えない。
「さっそく開けてみようではないか、どれ、柳屋の酒ではないか」
「殿、すこしお待ちを。先ほど申し上げましたとおり、万一のことを考え、念には念をいれませねばなりませぬ」貞親がそういって、部下を呼ぶ。
「弾正、この酒を検見せよ。犬を連れてまいれ」
弾正と呼ばれた武士が下がる。
「無粋じゃのう、そこまでせぬとも」義政は不服である。
「殿に万一のことがありましたら、後見役として立場がありませぬ」
弾正が椀を持って、犬を一匹連れてくる。
犬追物という弓術鍛錬の競技のため、花の御所にも二百匹以上の犬が飼われていた。
樽から酒を一合ほど、椀に入れ、犬の鼻先に差し出す。よぼど喉が渇いているのか、犬は酒を勢いよくなめた。
椀の中の酒を全て飲み、椀を嘗め回す。
「なんともないではないか」義政が言う。
「そのようですな」そういって貞親が階を登り、室内に戻る。
義政と貞親が着座し、改めて酒を酌み交わそうとすると、外が騒がしい。
「なんだ」と言って義政が再び立ち上がり、廊下に出ると、眼下の庭で犬が苦しんでいた。
たくさんの涎を口から流し、前足は膝をついている。食べ物を吐き出していた。苦しいのか、体をねじり、横たわる。四肢が痙攣し始めた。
「これは、なんだ」義政が叫ぶ。誰も答えない。
しきりに痙攣していた足が、やがて小刻みになり、ついに止まる。
「おのれ、十郎め、手討ちにしてくれるわ。 誰ぞ十郎を、いや今出川を呼んで来い」義政が怒気を含んだ眼で睨みながら叫んだ。




