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戦国の片田順  作者: 弥一
戦国の片田順
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義就出陣

 翌日、将軍の御内書ごないしょが発行される。斯波義廉よしかどの出仕停止と、勘解由小路かげゆこうじの邸の引き渡しを命じていた。御内書を持参した使いが義廉の邸に近づくと、なにか騒がしい。

 どうしたのか道を歩いているものに尋ねると、昨夜から山名宗全の将兵がやってきて、将軍の使いと一戦構える、と大騒ぎしているとのことだった。使いはあわてて、室町第むろまちだいにとって返した。

 その噂は将軍のところにも届いていた。それどころか山名宗全が但馬たじま国から石見いわみ国までの分国の軍勢を呼び寄せているとの噂が立っていた。これは宗全が意図的に流したものであろう。

 数日がつ。土岐とき、六角、一色いっしきなどの大名が山名宗全に同調しているようだという話が入ってくる。六角は近江、一色は伊勢の大名である。軍勢は数日のうちに京都に来ることができる。

 義廉も、尾張おわり守護代の織田氏、越前えちぜん遠江とおとうみの甲斐氏に手勢の上洛を命じていた。




 これらのことは、堺の片田のところにも知らされた。ひとつは京都みやこ片田商店から、もうひとつは楠葉西忍さんの方からである。

「そろそろ、京都の土倉に預けている銀を引き上げたほうがいいだろうな」片田は思った。

 かれは、翌年改元があり、年号が応仁になることを知らない。しかし、地方から京都に軍勢が集まり始めているならば、ろくなことにはならないだろうということは想像できる。

「『あや』にも、資金を大和か堺に移動したほうがよい、といっておいた方がいいだろう」

 片田商店から来ていた使いの小猿こざるに『あや』宛ての手紙を託す。


「なあに、京都の土倉に預けている銭を大和か堺に移動したほうがいい。なに、これ」

「ねえちゃん、知らねぇのか、最近諸国の兵が京都に集まりだしてるっていうぜ」

「そうなの」『あや』は外出が嫌いであった。

「嘘だと思うんなら、ちょっと勘解由小路のあたりまであががってみるといい。斯波様のお屋敷がすごいことになってるぞ」


 『あや』は見物に行くことにした。中御門大路なかみかどおうじ(現在の丸太町通り)までくると、斯波義廉の邸が見えた。

 敷地の中にいくつか矢倉やぐらが立っているのが、まず見える。もうすこし近づいてみると、塀の上に何かが立っているのが見えた。

 これは掻楯かいたてというものだ。木製の楯を塀の上にびっしりと並べている。敵の矢を防ぐためだろう。道のかたわらに、組んだ材木がいくつも置かれている。いざというときに道路を封鎖しようというのだろう。

 多くの荷車が、邸の勝手門かってもんを出たり入ったりしている。米俵を運ぶもの、なにやら箱のようなもの、矢や槍を運ぶものなどである。

「これは、すごいわね。京都の真ん中でいくさをやるつもりなのかしら」

 『あや』がまわりを見る。閉店中の店の戸板に落書らくがきがあった。


義敏よしとしは 二見ふたみの浦の海士あまなれや 伊勢のワカメを頼むばかり


「なにこれ」


『あや』は引き返すことにした。『じょん』が言う通り、京都の土倉に預けたものを大和に移動させよう。




 斯波義廉は、邸から動かない。御内書は彼には届いていない。そうしているうちに近国の兵たちが、それぞれの大名屋敷や、寺院などに集結しはじめる。

 一月ひとつき程たった、八月二十五日、幕府は義廉を無視したまま、義敏の家督を認め、越前・尾張・遠江三国の守護職を与える。

 同じ日、吉野の山中にいた畠山義就よしひろが動いた。天川てんかわにいた彼は、吉野川を渡り、奈良盆地を見下ろす壺阪寺つぼさかでらに陣を置いた。ここで彼は越智家栄いえひでと合流する。

 義就の旗揚げに当たっては、片田の貸した三千貫はもちろんだが、伊勢貞親からも資金の援助があった。

 一方で、昨年の末に朝倉孝景が送ってきた馬と太刀たちを用いていた。斯波義廉の側に立つのか、伊勢貞親の側に立つのか、よくわからないちである。


 畠山義就の出師すいしの報を聞いた山名宗全は、伊勢は、畠山政長には義就を当ててきたな、と思った。伊勢は足利義視よしみには何を当ててくるだろう。


 義就は、家栄とともに、奈良盆地を横切り、水越みずこし峠を越えて河内国にはいる。

 畠山義就が帰ってきた、という知らせが河内国内に知れ渡り、参軍してくる地侍が多かった。彼らは九月二日に金胎寺こんたいじ城に入る。この城は嶽山だけやま城と同一の尾根筋にある城で、かつて義就が嶽山城籠城戦を行っている。

 義就は時間をおかず、天見川を挟んで南西にある烏帽子形えぼしかた城に攻めかかる。

 烏帽子形城は西と北を石川が、東側を天見川が流れていて急斜面となっている。攻める方角は南しかない。

 義就は二日二晩連続して南面を攻撃させる。攻め手は交代であるが、城を守る側はおいそれと寝てはいられない。

 二日目の夜、義就は忍びを二十名程出し、北側の急斜面を登らせる。南側ではこの夜も義就と越智の兵が喚声を上げて矢を撃っている。山城やまじろの斜面に木は生えていないので、危険な賭けであった。

 夜明け前、忍びたちは最も高位にある本丸に侵入し、持参した四尺ほどの小さな弓で敵兵を狙撃する。曲輪くるわは縦三十間(約五十四メートル)、横十間(十八メートル)ほどの細長い形をしていて、中に五十名ほどの将兵がいたが、思わぬ方角からの急襲になすすべもなく倒れていった。

 忍びたちはやぐらに火を放ち、この曲輪が占領されたことを守兵たちに知らしめ、上から、奪った長弓で城兵に射かけた。

 烏帽子形城は二日で陥落した。


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