文正の政変
文正元年(一四六六年)七月。七月といっても旧暦であるから、今で言うと八月の後半くらいの頃。暑かった夏が過ぎ、京都に赤トンボが降りてきていた。
場所は、斯波義廉の邸である。彼の邸は室町通りと勘解由通り(現在の下立売通)が交差するところにあった。
『あや』の商店も室町通りにある。義廉の邸は、花の御所と『あや』の店の中間くらいのところである。『あや』の店からの距離は、今の言い方でいうと七百メートル程、北に行ったところだ。
応仁の乱については、分かりにくいという印象がある。多くの人物が出てくるし、幕府の要人の態度が頻繁に変わる、などが原因だろう。そこで、これまでもそうしてきたが、以後も重複を恐れずになるべく説明を重ねていくことにする。
斯波氏というのは将軍家の縁戚であり、三管領という高位の家系である。管領とは、今で言うところの総理大臣のようなもので、中央行政の長である。三管領は、この総理大臣を出す三つの家のことで、斯波、細川、畠山の三つの家を言う。
享徳元年(一四五二年)、斯波家の当主、義健が十八歳で死去し、斯波家の嫡流が途絶える。
そこで越前(福井県)の大野郡を領していた大野斯波家から義敏を迎え、これに斯波氏の家督を継がせた。ところが斯波家の家臣筆頭である甲斐常治と義敏とが対立する。
同時期、関東ではすでに戦国時代が始まっていた。関東への出兵を義政に命じられた義敏は、兵を集めるが、これを関東に向かわせず、甲斐氏の金ケ崎城や敦賀を攻め、敗れる(長禄合戦)。
斯波氏の家督は、義敏の子を経由して、義廉が継ぐことになった。
義廉は、斯波氏と同時期に足利氏から分かれた渋川家の出身である。母は山名氏の出である。山名宗全からみれば、従妹の子である。その縁もあってか、この時、宗全の娘との間で婚約中であった。
義敏は家督を奪われて、周防の大内教弘のもとに逃れていった。これが長禄三年(一四五九年)のことである。
その義敏が、伊勢貞親のとりなしで、昨年の末に実父の大野持種とともに上京してきた。義政や義視のところにも出仕しているとのことである。
義廉は不安でならない。
山名宗全との提携を試みたり、畠山義就と関係を作ろうとしていた。
義廉の心配は的中する。その日義政より内々ということで打診が来る。
七月二十三日、義廉は幕府への出仕を停止させられた。
義廉の家臣が動く。甲斐常治の子、敏光や朝倉孝景が繰り返し山名宗全の邸を訪ね、主君の窮状を訴える
宗全は考えた。伊勢貞親は何をやろうとしているのか。義廉を廃して義敏を立てる理由はなにか。義敏はこの七年程、周防の大内のところにいた。従って細川勝元や山名宗全とのつながりがない。その義敏に強引に家督を与えようとしているのは、管領職を握ろうということなのだろう。
伊勢貞親が支配しているのは政所という将軍家の財政を管理するところだけだ。しかし管領職を握れば、侍所(京都の警護、刑事裁判)、引付(所領の訴訟審理)なども握れる。訴訟審理権を握れるのは大きい。
管領職につけるのは繰り返すが斯波、細川、畠山の三家のみである。管領の候補としては、斯波が義廉と義敏、細川には候補がいない。細川勝元の嫡男、細川政元はこの年に生まれている。畠山は政長と義就の四名である。
義廉は山名と接近して婚姻を約している。義敏には色がない。政長は細川に管領職を譲られているので細川派だ。義就は吉野の山中にいる暴れん坊である。伊勢貞親にとって、管領職の候補は義敏しかいない。
斯波の家督を義廉から義敏に移し、次いで政長から管領職を奪い取る。
また、足利義視についても、義視は細川派だ。還俗するにあたって、勝元が後見役になっている。とすれば、これも斥けなければならないと考えているだろう。
これは、斯波義廉、畠山政長、足利義視と、たたみかけるように攻撃されるに違いない。大きな軍事力を持たない伊勢貞親にとっては時間が重要だ。現在でいうならばクーデターである。
ここまで行けば、細川勝元も黙ってはいまい。かならず伊勢貞親排斥に動くはずだ。
一方で、伊勢は畠山義就、大内教弘も取り込もうとするだろう。こちらはこちらで手配しなければならない。
宗全は決意した。
義廉に家督を譲るよう命ずる将軍の御内書が届くまえに、勘解由小路の義廉邸に軍をさしむけ、一戦してやろう。
地方から武士をよびよせることにした。
家臣たちが即断せずに熟慮されよ、と自重を求めたが、宗全は言い放った。
「そもそも大名の出処進退は、管領と諸大名の評定によらなければならない。伊勢貞親の一存で決めるようなことではない。伊勢は先に畠山を揺さぶり、いま斯波を動かそうとする」
「このようなことを許していたら、明日は我が身である。そち達が自重がよいと思うのであれば、ここに残るがよい。入道は、一人でも義廉の邸に行き、義廉と一緒に腹を切るつもりだ」
さて、細川勝元はどう出てくるであろう。宗全は思った。




