謄写版(とうしゃばん)
この年、寛正六年(一四六五年)から、翌文正元年までは、足利義政の絶頂期であった。三月四日、東山の花頂山で花見を行う。衣服調度は悉く華美を極め、黄金をもって箸を作りし、という。
三月六日にも大原野に花見をなし、終日の遊興を尽くした。
九月には奈良の春日大社に参詣した。大乗院をはじめとした各寺院は、争って義政をもてなし、毎夜猿楽等を演じてこれを饗応した。篝火松明の明かりで、さながら白昼のようであったという。
正倉院を開いて、天下第一の名香、蘭奢待を截りとったのは、この時だといわれている。
歴史上、この名香を截香しているのは、数名しかいない。足利義満、義教、義政、織田信長、明治天皇などが知られている。
十一月二十三日には義政に男子が誕生している。のちの室町幕府第九代征夷大将軍になる義尚である。
この年、義視は数えで二十七歳であるので、義尚との年齢差は二十六歳である。年齢に大きな差があるため、義尚が将軍になるための障害とは考えられていなかったと思われる。
鏡台を明国や朝鮮に輸出するときに、組み立て作業が問題になるだろう、と鍛冶丸が言う。
「そうだな、京都ならば『あや』の弟たちが組み立てればいいけど」茸丸が言う。
「それで、どのように組み立てたらいいか、説明する図面が必要だと思う」
「木版で作るのか」
「それでもいいが、いろいろな形の鏡台を作ることになるだろうから、そのたびに木版をつくるのは面倒だ」
学校の教科書のような、あまり変更しないものは、木版による版画で作っていた。金属活字の仕組みも片田に聞いて作ってみたが、ひらがな、カタカナ程度までで、漢字の活字はまだ作れていない。漢字の数が多すぎた。
それに、活字だと自由に絵を描くことができない。
片田に相談したところ、謄写版というものを作ってみろ、と返ってきた。
薄い紙にハゼノキから採った蝋を塗る。蝋が乾いたところで、鍛冶丸が作った平たい鑢の上に載せる。鑢は、鍛冶丸が鉄の板に細かい傷を無数につけたものだ。
やはり薄い紙に図面と説明書きを書く。その紙を蝋紙にのせ、文字や図面などをなぞる。なぞったところの蝋紙が白くなった。白い部分は水や油を通す。
平たい板の上に同じ大きさの木枠をのせ、蝶番で縦に開くようにつなげる。木枠の下側に絹布を張る。
なぞった蝋紙を絹布の下に貼り付ける。
板の上に紙を置き、木枠を閉じる。
木を円筒形に切り、軸の所に穴を開ける。そこに細い木の棒を通す。円筒はくるくると回る。細い木の棒にコの字型の柄を取り付ける。この道具をローラーと呼ぶそうだ。
平たく四角い木の皿に墨の粉と荏胡麻油を張り、良く混ぜる。ローラーの円筒を木の皿につけて、油と墨粉が混ざったものを円筒部分に付ける。
ローラーを持ち上げ、絹布のところで一回、転がす。木枠を持ち上げると、下に置かれた紙に、もとの図面とおなじものが写っていた。
写された文字などの周りに、すこし油がにじんでいた。荏胡麻油と墨の率を変えたりして、にじみがなくなるようになった。
「これはいいな、鏡台の説明書きだけじゃなく、いろいろなものに使えそうだ」石英丸が言った。
「次に出荷する鏡台から、この説明書きをいれることにしよう。あと、いままで出荷したものについては、片田商店の店頭にこの説明書きを置いて、持って帰ってもらうことにしよう」
石英丸が提案して、『片田村報』という新聞が出来た。訃報であったり、どこそこに男の子が産まれた、などの記事からはじまった。やがて季節の話題や、小山七郎さんの兵の募集、シイタケ栽培経験者の求人など、記事の種類も増えていった。




