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戦国の片田順  作者: 弥一
戦国の片田順
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山名宗全(やまなそうぜん)

 最近、山名宗全(持豊)の心にしばしば忍び寄るものがある。

家督を長男の教豊のりとよに譲り、多くの国の守護職も子供達や一族の者に分けた。いま直接支配しているのは、但馬たじま国一国のみである。

 振り返ることもなく、しゃにむに過ごしていた六十余年の後、少し時間を持て余す時ができた。そのような時に昔のことが思い出されるのである。


 ある時は、兄の持熙もちひろ首級しゅきゅうを実検したときのことを思い出す。宗全には三人の男兄弟がおり、彼は三男であった。

 長男の満時みつときは二十五歳の時に早世した。このとき次男の持熙と三男の持豊、すなわち宗全との間に家督の相続争いがおこった。

 持熙が挙兵して備後びんご国に乱入、国府城に立てこもる。持豊の軍勢がこれを攻め、持熙は討死している。


 また、ある時は、足利義教よしのりが赤松氏の邸で斬殺されたときのことを思い出す。『万人恐怖』と語られる義教の恐怖政治に耐え切れなくなった赤松満祐みつすけは、結城合戦の戦勝祝いだと詐称さしょうして義教を自邸に招き、惨殺してしまう。

 討たれるときの義教のまなこを思い出す。

 また、その赤松満祐を播磨はりま国の城山きのやま城に追い詰め、詰め腹を切らせた。その首実検を行ったのも宗全であった。


 ちからと力がぶつかり合い、せめぎ合う、そのなかを一心不乱で勝ち抜けてきた宗全であった。

 その当時は当然であると思ってきたものが、この頃のように暇を持て余すようになると、思い出されてきて、仏心が出てくる。


 赤松氏の播磨を得て、自身が五か国の守護となり、山名一族で十か国を治めることになる。祖父の時義ときよしの時代に匹敵する繁栄を果たした。

 幕府の側は、西の大内氏に対抗する目的で山名氏を取り立てた。

 宗全は大内氏と姻戚いんせき関係を結ぶ。ただの当て馬にさせられるつもりはない。

一方で細川氏とも姻戚関係を結んだ。


 当時、幕政で力を持っていたのは畠山持国もちくにであった。義就よしひろの父である。

 その畠山家にお家騒動が起きる。持国は義就に家督を譲らせようとしたのに対して、宗全は細川勝元かつもととともに畠山弥三郎を支援して、家督争いに燃料を供給し、畠山持国を失脚させることに成功する。


 畠山が失脚した後は、細川と山名の二強の状態になる。

 

 幕府で、赤松氏を再興させる話が出てきたときには、これに反対する。播磨国の支配がまだ不十分であり、赤松氏に奪い返される可能性があったからだ。宗全は赤松の出仕(幕政に参加させること)に反対する。

 これに対して足利義政は、宗全の退治を諸大名に命じる。このときは細川勝元が取り成すことになり、宗全退治は中止されるものの、宗全は家督を長男に譲り但馬たじま国に下向する。

 宗全の心配は的中した。播磨国で赤松則尚のりひさが一族遺臣を結集して挙兵した。この反乱は鎮圧され、則尚は備前びぜん国に逃れるが、宗全はこれを追撃し、自害に追い込む。

 とある寺の門前にさらされた則尚の首も、宗全の思い出に現れる。


 宗全の謹慎きんしんは四年程で赦免しゃめんされるが、その時に宗全は赤松の再興を承諾させられたという。


 足利義政は、細川、山名などの大名に対抗して、伊勢貞親さだちか季瓊きけい真蘂しんずいなどの側近を重用ちょうようするようになっていた。

伊勢貞親は、足利義政を幼少の頃から養育する立場にあった。分一銭徳政令などで幕府財政の改善に成功するところから始め、政所まんどころという室町幕府の財政をつかさどる官庁の実権を握っていた。

 季瓊真蘂は相国寺の僧侶であるが、赤松氏の支族の出身でもあった。貞親とともに義政の側近として政治を顧問した。季瓊は赤松再興をねらっている。


斯波氏のお家騒動において、当初家督は斯波義敏よしとしに与えられていた。関東が戦国状態になった時、幕府は義敏に関東への出兵を命じた。ところが兵を集めた義敏は、関東に向かわず、国内で対立する国人、甲斐氏を攻撃した(一四五九年)。

 義敏は家督を奪われ、周防すおうの大内教弘のりひろを頼っていった。

 家督は一時義敏の子に与えられたが、すぐに関東に勢力を持つ渋川義鏡よしかねの子であった斯波義廉よしかどに移された。義鏡に関東の戦乱をうまくまとめてほしい、というのが幕府の意向だった。

 しかし、義鏡の関東経営は失敗した。義廉が斯波の家督を持っている理由がなくなった。

 幕府は一四六三年に義政の母、日野重子の死去に伴い、義敏を畠山義就とともに赦免した。伊勢、季瓊ら側近が義敏の家督復帰を支持したとされている。

 義廉は、身を守るため、山名宗全に接近し、その娘をめとる。

 宗全から見れば、赤松氏再興を目指す季瓊、伊勢などの側近に対抗する、という意味があった。


 宗全はため息をつく。もう、この年で、これ以上の罪障ざいしょうを重ねたくはないものだが。

 伊勢や季瓊などは、いずれなにかの理由をもうけて排斥する。彼らは政治家としては有能かもしれないが、動員できる兵力はわずかなものだ。

 分一銭か、よく考えたものだ。借りたもの、貸したもの、どちらでもいい借金の一割の銭を、先に幕府に治めた者の言い分を認める。というものだ。皆こぞって幕府に分一銭を納めるであろう。

 しかし、それまでだ。宗全のように実力で土地を切り取っていく、という力は彼らにはない。


 問題は、その次だ。これまでどおり細川と協力していくか。その場合大内と向き合わなければならないであろう。それとも大内と結ぶか。その時には細川に向き合わなければならない。


宗全は交易というものをあまり知らない。


しかし、いずれは交易により大きな資金を得たものが強い武力を持つ、という時代が来るであろう。自分のやり方は、すでに古くなっている、そんな気がしていた。


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