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Cafe Shelly

Cafe Shelly 見失ったもの

作者: 日向ひなた

「まだ資料できてないのっ、これ三時までに必要だって言ってるじゃない。それにこっちの見積書、もっと値下げするように交渉してちょうだい」

 私はオフィスで金切り声をあげ、社員にハッパをかけながら出かける準備をした。四時からの会議に出るために、ギリギリまで資料をつくらせる。同時に新しい機械の購入についても交渉を行う。他にも仕事の入札の予定をチェックし、さらに今抱えている現場の状況にも目を通す。

 こんな毎日を過ごす私。気がつけば毎日が戦争。なんでこんな生活をすることになっちゃったんだろう。そっか、一年前に父から社長を引き継いだんだった。といっても、やっていることは社長を引き継ぐ専務の時代から何一つ変わっていない。代表権を私に移した途端、すべての判断が私のところになだれ込み始めた。

 父は体を壊し、現在は隠居中。会社は土木作業の現場を持つ建設会社。そんなに大きな会社じゃないけれど、父の時代から築きあげてきた信頼と実績をここで壊すわけにはいかない。それだけに私の毎日は必死な状況。

 家に帰れば、高校一年と三年の娘、そして専門学校を出たばかりの息子がいる。六年前に離婚して父の会社に入り、今の仕事をやり始めた。女手ひとつで思春期の子どもたちを育てること。これも一つの戦争。子どもたちのリクエストに答えながら家のことをこなす。おかげで毎日寝るのは遅い。そして現場仕事があるので朝は早い。

「ふぅ、つっかれたなぁ」

 車に乗り込み会議会場まで自分で運転。どこかの大企業の社長なら、こんなときは運転手付きの車に乗るんだろうけど。うちみたいな中小企業じゃそんな余裕もなく、自分で運転。でも、この車の中の時間だけが唯一自分の時間ともいえる。今の楽しみといえば、外回りの帰りにちょっとだけ寄り道をして買い物をするくらい。専務の時代はもうちょっと時間に余裕があったので、ブティックとかに寄れたんだけど。でも社長になってからは気持ちに余裕がなくて。買い物と言っても、家の食事とか子どもの必要品しか買えない。それでもちょっとした気晴らしにはなるけど。で、今日もいつも立ち寄るスーパーで夜ご飯のお買い物。子どもたちに迷惑をかけている分、ご飯はなるべく手抜きをせずにつくるのが私の主義。

「あらぁ、瑞恵さんじゃない」

 スーパーで突然声をかけられた。声をかけてきたのは、長女の中学校時代に友達になったお母さん。

「久しぶりね。最近忙しいの?」

「うん、やっぱ社長なんてなるもんじゃないよ」

 これ、本音。なりたくてなった社長じゃない。他にやれる人がいなかったからなってしまった、というのが正解。けれど、なったからには一生懸命やる。それが私のポリシー。

「でもさぁ、また一緒にお茶したいよねー。やっぱり社長になると、そんな時間もなくなっちゃうの?」

 これには答えられなかった。私だって、昔みたいに自分の時間を持って友達とゆっくりお茶を楽しみたい。けれど私には義務がある。社員を守り、会社を守り、そして家庭を守るという。言葉を出すことに躊躇していると、突然携帯が鳴り出した。

「あ、ごめん」

 あわてて電話に出る。

「瑞恵さん、すいません。山代商事の見積もりの件で…」

 部下から仕事の電話だ。内容を聞けば大したことじゃない。そのくらい自分で判断して欲しいもの。

 友達は私の雰囲気を察したのか、手を振って去っていった。私も電話で話しながらも、ごめんねのポーズで対応。私には友達と話をする時間すらないの? 一体何のためにこんなに忙しい毎日を送っているんだろう。そして、いつになったらこんな日々が終わるのだろう。電話を切り、ふぅっとため息。どうやら今日も帰りが遅くなりそう。

 そんな毎日を送っているある日。

「瑞恵さん、ちょっと顔に疲れが出てますよ。大丈夫ですか?」

 取引先との打ち合わせの時に、相手からそんなこと言われた。相手は私が専務の時代から知っている大手ゼネコンの営業マンの時任さん。歳は私よりずっと下だけど、経験は時任さんの方が豊富。今までいろんなことを教えてもらい助けてもらった人。私が仕事の愚痴をこぼせる、唯一の人でもある。

「やっぱ時任さんには隠せないわよね。最近突っ走り過ぎかなぁ」

「休日はきちんと休んでますか?」

「うぅん…先週も実家の手伝いと子どものことでいろいろ走りまわってたし。うちは中小企業だから、土曜日休みなんてつくれないし。このところ休んで自分のことをやるなんてこと、できてないなー」

「それはいけませんねぇ。仕事と家庭のことばかり重視して、自分のことをないがしろにしちゃうとバランスを崩しますよ」

「でも、そんな自分のことをやってる暇なんてないのよね。自分を犠牲にしても、周りのことを優先させないと。会社も家庭も守らなきゃいけないから」

「そっか…まぁ瑞恵さんの気持ちもわかるけど。このままだと瑞恵さん、倒れちゃいますよ」

「大丈夫。頑丈なのがとりえだから」

 私は力こぶを見せた。けれど、それはポーズだけ。実のところいっぱい一杯であることは私自身がよくわかっている。でも、突っ走らなければ今を乗り越えられない。社員のためにも、家族のためにも。

「どうです、気分転換にたまには外に行きませんか? いつも事務所の中でばかり打合せしてもつまらないでしょ。瑞恵さん、コーヒーはお好きでしたよね」

「そうね、たまにはおいしいコーヒーが飲みたいわ」

 時任さんに言われて気づいた。ちょっと前までは自由に使える時間もあった。そんなときには友達や一人で喫茶店に行って、なんでもない時間を過ごしていた。でも今じゃそんな時間すらない。コーヒーは事務所でつくったのを飲むばかり。私のわがままで、コーヒー豆だけは好みのものを入れさせてもらってはいるけど。

「じゃぁ早速でかけましょうよ。今日はまだ時間大丈夫なんでしょう?」

「ごめぇん、この後現場に行かないといけないのよ。検査のことで役所の人間が来るらしくて」

「それって瑞恵さんじゃないとダメな仕事なんですか?」

「うぅん…私以外に役所の人間に対応できる人がいないし…」

 気がついたらそういう仕事は専務の時代から私がやるという役回りになっていた。結局、いつかコーヒーを飲みに行く約束をして打ち合わせが終了。さて、現場に出かけるか。車に乗り込んだ途端、電話がかかってきた。いつもこんな感じだから、車に乗る時には必ずイヤホンをつけて運転をしている。唯一の自分の時間も、ゆっくり過ごすことはできない。

 以前、経営者の勉強会というのに参加したことがあった。あのときに言われたのは「経営者は寝ても覚めても会社のことを考えなさい」ということ。あのときはまだ専務だったから、そんな人生は送りたくないと思ったものだけど。今じゃ強制的に会社のことばかり考えさせられている。そして出てくるのはため息と疲れたという言葉だけ。こんなので本当にいいのかしら?

 現場の検査立会も終り、あとは会社に帰るだけ。今日は少しは早く家に帰れそう。そんなとき、時任さんから電話がかかってきた。

「瑞恵さん、今日はこれからまだお仕事ですか?」

「ううん、あとは家に帰るだけなんだけど。どうしたの?」

「うちの社の連中に、美味しいコーヒーを飲ませてくれるところはないかって聞いたら、ちょっと変わった喫茶店を紹介してもらって。それでデートのお誘いなんですけどね」

 時任さんは笑いながらそう言う。

「ね、ちょっとだけ時間に余裕があるなら行きましょうよ」

 時任さんのような若い人からデートだなんて言われて悪い気はしない。まぁ、あちらは冗談で言っているのだろうが。ここまで誘われたら行かなきゃ損だわ。

「わかった。で、どこに向かえばいいの?」

「えっとですね…」

 場所を告げられ、車をそちらに向かわせる。わりと街中ではあるな。そういえば、最近街でショッピングもしていないわ。

 待ち合わせの場所に向かうと、時任さんはすでにそこに来ていた。

「ごめん、待たせちゃって」

「いえいえ、私も今来たところですから。さてと、喫茶店に向かいますか」

 時任さんは地図を片手にキョロキョロしながら歩き始めた。私はそれについて行く。しばらく歩くと、目の前には小さな路地が。そこはパステル色のタイルで彩られ、道の両側にはブロックでできた花壇。道幅は車一台が通ればいいくらいの狭い通り。その通りの両側には雑貨屋やブティック、レストランなどいろいろなお店がずらりと並んでいる。

 そういえば前にこの通りは来たことがある。というよりも通っただけだけど。

「あ、ここだここだ」

 時任さんが指さした先には、黒板の看板があった。

「CafeShelly…」

「カフェ・シェリーっていうんです。ここのオリジナルブレンドが面白いらしいですよ。さ、行きましょう」

 時任さんは看板のあるところから二階にあがる階段を登っていく。私もその後ろを追いかけるようにあがる。

カラン、コロン、カラン

 時任さんがドアを開けると、カウベルの音が私たちを出迎えてくれた。同時に漂ってくる甘いクッキーの香り。

「いらっしゃいませ。お二人様でしょうか?」

「えぇ」

「ではこちらのお席にどうぞ」

 若い女性の店員に促され、お店の中央にある三人がけの丸テーブルの席につく。腰をおろしてお店を見回す。入り口にあるクッキーは自家製。これがお店の香りを漂わせていたのね。帰りに子どものお土産に買って帰ろうかな。窓際には半円型のテーブルに四人がけ。カウンターは四人がけ。そして今私たちが座っている三人がけの丸テーブル席。十名も入ればいっぱいになる小さなお店。

「あれっ、オーラソーマじゃない」

 カウンター席には二色のボトルがきれいにかざられている。

「なんですか、そのオーラソーマって?」

 時任さんは私にそれを聞いてきた。

「あのボトルを使って占いというかカウンセリングみたいなのをするの。ここでやってくれるのかな?」

「はい、ご要望があればオーラソーマでのカラーセラピーを行ないますよ。有料にはなりますけど」

 店員の女性がお冷を持ってきてそう言った。

「そうなんだ。一度見てもらおうかな…」

 今、心には何かひっかかるものがある。それが何かはよくわからない。そこをすっきりさせたいとは思っている。

「あ、このお店におもしろいオリジナルブレンドがあると聞いてきたんですけど」

 時任さんはコーヒーを飲みたくてウズウズしているようだ。

「シェリー・ブレンドのことですね。ご注文はそれでよろしいですか?」

「はい、二つお願いします」

「かしこまりました。マスター、シェリー・ブレンド二つお願いします」

「はい」

 カウンターに目をやると、四十代半ばくらいのマスターがにこやかにコーヒーを入れている。

 あらためてお店を見回す。白とチョコレートブラウンの落ち着いた内装。壁にはモダンアートが飾られている。シンプルで落ち着いた空間。窓から差し込むやわらかな日差しもこの空間を演出してくれる。なかなか雰囲気のいいお店だな。

「どうですか、たまにはこうやって外に出るのもいいでしょう」

「そうね、いつも事務所ばかりでなんだか窮屈だったかな。うーんっ、久しぶりの自由だな」

「思い切って誘ってよかった。ところで瑞恵さん、彼氏っていないんですか?」

「なに変な事を聞いてるのよ。こんなおばちゃんもいい年の女性に彼氏なんかいるわけないでしょ」

「そうなんだ。よかった」

「よかったって何よ?」

「あのですね…正直にお話します。私、瑞恵さんのことが好きです」

 私は目が丸くなった。突然こんなところでそんなこと言われても。心の準備もできていないし。それに時任さんって私よりずっと年下。そんなことはありえない。

「私をからかってるの?」

「いえ、本気です」

 確かに、時任さんの目は本気。私のことをしっかりと見つめている。

「な、なに言ってんのよ。私はもう五十に手が届くおばちゃんよ」

「ぼくだってもう四十になりますよ」

「そ、それにわたしには子どもが三人もいるし…」

「ぼくはずっと独身です」

「あ、あと両親の面倒もみなきゃいけないんだよ」

「ぼくは次男で、両親はまだ健康で、兄貴が近くに住んでいるから」

 お互いに、理由にならない理屈を言い合っている。

「瑞恵さん、ぼくのこと嫌いですか?」

「嫌いじゃないけど…でも…」

 そこから先の理由が思いつかない。時任さんはとてもいい人。やさしくて、年下だけど頼りがいがあって。私が言葉に詰まっているところに、ちょうどいいタイミングで店員さんがコーヒーを運んできてくれた。

「おまたせしました。シェリー・ブレンドです」

「あ、ありがとう。さ、コーヒー飲もう」

 私はごまかすようにコーヒーを勧めた。けれど時任さんの目線は私をずっと捕まえている。目線を外さずに、時任さんはコーヒーに手を伸ばす。私は逆に目線をなんとか外そうとする。そしてコーヒーに口をつける。

「えっ、なに、この味?」

 口の中には、私の想像とは異なるコーヒーの味が広がった。同じことが時任さんにも起きたみたい。さっきまで私をとらえていた目線が、今度はコーヒーに釘付けになっている。

「なんなんですか、このコーヒー。とても不思議な味がするのですけど…」

 時任さんは思わず店員さんに質問をしたようだ。

「お二人ともどのような味がしましたか?」

 店員さんの質問には、時任さんが先に答えた。

「なんだか口の中ではずむ感覚というか…そう、ドキドキ感みたいなものが感じられたんです。そしてその後、ふわっとした温かさ…ぬくもり…」

 時任さんの言葉を聞いて、私はちょっと驚いた。

「えっ、私のは違った味わいだったわ」

「そちらの方はどのような味でしたか?」

「私はホットコーヒーなのに少しクールな感じがしたの。メンソールが入っているわけじゃないだろうけど。冷たい、というよりも熱が冷めていくような感じ。少し落ち着きたいのかな…」

「そんな味はしなかったけどなぁ」

 時任さんと私の味覚、どうにかなっちゃったのかしら? そう思っていたら、店員さんが微笑みながら解説をしてくれた。

「うふふ、それ、お二人とも正解の味ですよ。実はこのシェリー・ブレンドは、飲んだ人が今欲しいと思っているものを味で表現してくれるんです。人によっては欲しいものの映像が頭に浮かんでくるみたいですけど」

 まさか、そんな魔法のようなコーヒーがあるだなんて。私としては半信半疑。だが時任さんは逆のリアクション。

「あぁ、なるほど。だからウチの社員がここのオリジナルブレンドが面白いって言ってたんだ。そしてコーヒーだけじゃなく店員さんも面白いって言ってたけど」

「あはっ、私たちとしてはそれは最高のほめ言葉ですよ。ね、マスター」

 女性の店員がマスターに話を振った。マスターも笑顔でその言葉に返事をした。

「ということは、そちらの男性の方は人のぬくもり、そしてそこからくるドキドキ感…恋をしているのかしら?」

 店員さんの言葉に、時任さんはドキッとしたようだ。

「え、まぁ…いやぁ、どうしてわかっちゃうかなぁ」

 照れながらも時任さんは自分が恋をしていることを素直に認めた。

「そしてこちらの方…」

「高梨瑞恵といいます。瑞恵でいいですよ」

 私は店員さんがどんなことを言うのか、身構えて待ち受けた。

「では瑞恵さん、確か熱が冷めていくような感じ、少し落ち着きたいとおっしゃっていましたね」

「えぇ、私って何かに集中するとついヒートアップしちゃうクセがあって。頭に血が上ると周りが見えなくなっちゃうの。だから、社員たちにもつい過激にあたっちゃうことがあって」

「そうなんですね。だから自分の熱を覚ましたい。それ、お仕事以外でも気にかけていることがあるんじゃないですか?」

 仕事以外でヒートアップしてしまう。思い起こせばいろんなことがある。以前はお菓子づくりに熱中していたことがあった。おかげで我が家には本格的なオーブンがある。今では娘ふたりが占有している。一旦何かに熱くなると、他のことを放ったらかしにしてしまうという悪い癖を持っている。お菓子づくりの時も、夕飯をつくらずに没頭し、結局買ってきたお惣菜で済ます、なんてこともあったし。

「そうですね、私って一度興味をもつとそればかりになるから」

「だから今は興味を持ちたくても、それが怖くて持つことができない。特に対人関係について。違いますか?」

 今度は私がドキッとした。時任さんとの関係を見透かされたような気がしたから。私はそれから何も言葉が出なかった。ちょっとした沈黙が続く。

「そうね、私は怖いのかも」

 私の口から自然とその言葉が出てきた。私自身、思いもしなかった言葉。

「時任さん、ごめんなさい。まだ今は何も考えられない。決してあなたのことが嫌いだってわけじゃないの。ただ、家族のことや会社のことで頭がいっぱいで」

「わかりました。けれどぼくはあきらめません。瑞恵さんの気持ちにぼくが入り込める余裕がでてきたときには、もう一度考えてください」

 その言葉に涙が出そうになった。けれどここで泣いてしまったら、なんだか私自身に負けてしまうような気がした。ここでもう一度コーヒーに手を伸ばす。

 えっ、なに? コーヒーを飲んでびっくりした。さっきより冷めてしまっているはずなのに。妙に熱さを感じる。そして苦味ではなく甘みが口の中を包み込む。私は砂糖もミルクも入れていないのに。これ、どうしてなの?

「瑞恵さん、どうかしたんですか?」

 私が驚いた顔をしているのを見て、時任さんがそう聞いてきた。

「あ、えぇ、さっきと味が変わったから…」

「変わったって、どんなふうに?」

「もう冷めているはずのコーヒーなのに、妙に熱いの。それにブラックで飲んでいるはずなのに甘みがあるし」

「それは瑞恵さんが人の温かさと、人に甘えたいという願望があるからじゃないかしら」

 店員さんが私の疑問に答えてくれた。人の温かさと甘えたい願望。確かにそれはある。私だってまだ女。女として男性に甘えたり、その温もりが欲しい時がある。けれど、そんな意識なんてどこかへ飛んでいってしまっていたつもりだった。

「瑞恵さん、もう一度言います。ぼくは待っています。もし甘えたくなったら遠慮なく言ってください」

 私は時任さんの言葉には何も答えなかった。うれしい気持ちもあるけれど、そうなってはいけないという気持ちも強い。やはり社長という立場がそうさせているのかもしれない。

 結局この日はこれで終り。あえて店の前で時任さんと分かれることにした。少し一人で歩いて考えてみたい。そう思ったから。こんなこと、誰かに相談もできないし。さて、これからどうしようかな…。

 夜は寝付けなかった。今の私って、何がしたいんだろう。時任さんの気持ちはありがたい。嫌いじゃないし、むしろ好きな方であるのは間違いない。けれど今はそんなことをやっている場合じゃない。私は社長であり母親。その方を優先しなきゃ。でも、誰かに温めてもらいたい。甘えてみたい。その願望も強い。こんな思いが頭の中で何度もグルグルと回ってしまった。

 翌日、目の下にくまをつくって出社。おかげで社員から心配されてしまう始末。経営者として情けないなぁ。

 その日の昼、突然予定がキャンセルになった。先方に事故が起きてしまったとか。こちらは打ち合わせのつもりで会社を出てしまったのに。仕方ない、帰るとするか。

 このとき、ふと昨日行ったカフェ・シェリーが頭に浮かんだ。次の予定までは二時間以上ある。今会社に帰っても、電話と書類に追われるだけだし。私がいなくてもいいようにしてきたんだから。よし、行ってみるか。そうして私は再びカフェ・シェリーの扉を開いた。

「こんにちは。またコーヒーを飲みに来ました」

「いらっしゃいませ。瑞恵さんでしたね。お待ちしていました」

 マスターはさも私が来るのが分かっているみたいに応対をしてくれた。今日はお客さんは私以外に二人の女性が窓際の席にいるだけ。どこに座ろうか迷っていると

「よかったらこちらにどうぞ」

とマスターがカウンターへ促してくれた。遠慮無く私はカウンター席へ。

「あれ、今日は女性の店員さんは?」

「あぁ、マイは今ちょっと買い物に出ています。すぐに帰ってきますよ。今日は何になさいますか?」

「あ、じゃぁ昨日と同じコーヒーを」

「かしこまりました」

 マスターはすぐにコーヒーの準備にとりかかった。

「瑞恵さん、お疲れになっているんじゃないですか?」

 コーヒーを入れながらマスターが問いかけてくる。

「えっ、どうしてですか?」

「その顔を見ればわかりますよ。目の下にくまができていますから。あまり眠れていないんじゃないですか?」

 やっぱそう見えるんだ。

「えぇ…実はそのことで相談があって。それで寝付けなかったんです」

 あれ、私何言ってるんだろう。喫茶店のマスターに相談なんかするつもりじゃなかったのに。ただ単にコーヒーを飲みに来ただけなのに。けれど口から出た言葉は、次第に私の本音へと変化していった。

「私ね、昨日告白されちゃった。それはもうご存知でしょう?」

「昨日の男性の方ですね。なかなかいい方のようで」

「でもね、ダメなの。時任さんのこと、嫌いじゃないけれど。今の私にそんなことをしている時間はないの。父から任された会社を維持していくので精一杯。そして三人の子どもを育てていかなきゃいけないし。社長と母親、それだけで精一杯。そんなところに恋愛だなんて、とっても無理」

 フゥっとため息。けれど、話をしてみて少し気が楽になった。

「そうなんですか。社長と母親、二つの役割でイッパイいっぱいなんですね。じゃぁ、毎日気が休まる暇もない。そうじゃありませんか?」

「えぇ、その通りなの。ゆっくりコーヒーを飲みにも行きたいけれど、そんな時間もない。今日、こうやってここに来たのは奇跡に近いくらいよ」

「じゃぁ、その奇跡の時間を十分お楽しみください。はい、シェリー・ブレンドです。今回はマイ特製のクッキーもおつけしました」

 お皿の上には白と濃い茶色二色のクッキーが並んでいる。どちらもおいしそう。

「よかったら茶色のクッキーからお召し上がりください。クッキーを口に含んでからシェリー・ブレンドを飲むと、面白いことが起きるかも知れませんよ」

 マスターは笑顔でそう言う。面白いことってなんだろう? とりあえず言われた通りのことをやってみよう。

 クッキーは茶色というよりは黒に近い。どんな味だろう。一口かじると、口の中に香ばしさが広がる。これはゴマの風味だ。そしてシェリー・ブレンドを口の中に。そのとき、私の目の前には緩やかなくつろぎの空間が映し出された。

 お茶を飲みながらクッキーを焼き、沢山の人にふるまっている。あくせくして働いているのではなく、一つ一つの動作を楽しんでいる私。そういえば昔はそんな時間を過ごしていたな。時間にも、そして心にもゆとりがある。そしてすべてを楽しんでいる私。もうずいぶんとこんな時間を味わっていないな。いつかは社長業を引き継いでもらって、こういった楽しめる時間を持ちたい。そうすれば時任さんのことも素直に受け入れられるかも。

「いかがでした?」

 マスターのその声で私はハッと目を覚ました。まるで幻覚を見ていたような感じ。

「えっ、えぇ…」

 言葉が出てこなかった。さっき見えたものは何だったのだろう?

「瑞恵さん、何か見えましたか?」

「見えましたかって…これ、一体どういうことなんですか?」

「実はこのクッキーはシェリー・ブレンドの効果を高める作用があります。さっき食べてもらった黒ごまのクッキーは、なりたい自分を見せてくれます」

 なりたい自分。そう言われて思い出した。私、今の会社の社長になる前までは普通の主婦として生活したいと思っていた。あの頃は専務という肩書きはあったけれど、会社そのものは父親がやっていたから。その手伝いといった形でお客様のところに行ったり、各種の会合に出たり、仕事そのものは気楽なものだった。そのため、自分の時間ができたらクッキーやケーキを焼いて、人を集めてワイワイやっていたこともあった。気持ちにも時間にもゆとりがあった。そんな日々を送りたい。なりたい自分というより、戻りたい自分といった方がいいのかもしれない。 「そっか、やっぱりあの頃に戻りたいんだ、私」

「よかったらどんなものが見えたか、教えていただけないですか?」

「うん、私ね…」

 マスターに今の私の状況を伝えてみた。

「なるほど、そういう事情がおありだったのですね。じゃぁ私からもう一つプレゼントです。もう一枚の白い方のクッキー、これも先ほどと同じように食べてみてください」

 もう一枚の方は表面に軽く焦げ目はついているものの、普通のクッキーよりも色が白い。今度はどんなことが起こるのだろう? 期待しながらクッキーを口に入れてみる。

 サクっとした感触。下の上で溶けるように崩れていく。同時に甘いミルクの香りが口の中で広がる。そしてコーヒーを口に含む。クッキーの甘さとコーヒーの苦味がうまいぐあいに調和して、ひとつの世界をつくっていく。そのとき、私の目の前にまた一つの光景が現れた。

 そこに現れたのは私自身。ニコニコしながら誰かと話をしている。とても幸せそう。あ、そうだ。私、笑いたいんだ。こんなふうに笑って時間を過ごしたいんだ。仕事も、家庭も、そしてプライベートの時間も。笑って、楽しんで時を過ごす。これが私の望みであり、私が今一番欲しいもの。

 そして私は目を開ける。すると、目の前には今の私と同じように笑っているマスターの顔。マスターもきっと今が楽しいんだろうな。楽しいから、こんな笑顔ができるんだ。

「何か見えたようですね」

「えぇ、今のマスターと同じように笑っている私の顔が見えました」

「なるほど、笑顔ですか。それが今、瑞恵さんが欲しいと心から思っているものなのですね」

「はい、そうですね。私、今は社長として厳しく社員や取引先に当たっているのかも。いつも険しい顔をしているから。おかげで最近、シワが増えてしょうがないわ」

 なぜだか素直に話すことができた。

「ははは、けれど笑ったら目尻にもいっぱいシワができちゃいますよ」

 マスターの笑顔で、私の心の中にある何かが溶けていったみたい。

「ただいまー」

 あ、女性の店員さんが帰ってきた。

「マイ、お帰り」

「おかえりなさい」

「あら、昨日の瑞恵さん、でしたよね。なんだか昨日とは雰囲気が違いますね。すごく楽しんでいる感じがしますよ」

 えっ、そうなの? 昨日の私ってどんな感じに見えたのかな?

 マイさんと呼ばれた女性の店員さんは、エプロンをして私の横に座った。

「瑞恵さん、昨日オーラソーマのセラピーを受けたいって言っていましたよね」

「えぇ、ぜひ受けてみたいわ」

「本格的なものは予約制だけどお店が終わった夜七時からやっているんです」

「夜七時かぁ。その時間だと家に帰れるかどうかってところだし。それに家に帰って子どものこともしなきゃいけないし…」

「じゃぁ、あれほど本格的じゃないけれど、色で今の瑞恵さんの課題を解決するヒントを与えることができますよ。これだったらすぐに出来るからやってみませんか?」

「えっ、いいの?」

「はい、よかったらぜひ」

 すぐに出来るのだったら、あらためて時間を作る必要もないし。私はマイさんの提案に乗ることにした。マイさんは一度奥に引っ込むと、今度はなにやらカードを手にして戻ってきた。

「ここに七色のカードがあります。赤、オレンジ、黄色、緑、青、紫、ピンク。この中から、今欲しいと思う色を一枚選んでください。好きな色じゃないですよ。今欲しいと思っている色です。あ、まだ指ささないでくださいね。選んだらその色のカードをひっくり返してください。私は後ろを向いているので、その間にひっくり返してくださいね」

 マイさんはそう言うと、くるりと私から背を向けた。私は七色のカードをじっとにらんで、今欲しいと思う色を考えた。

 赤…違う。オレンジ…これもいいかも。黄色…じゃないな。緑…うぅん、迷うなぁ。青…微妙。紫…なくはないか。ピンク…そうかも。

 そして私は一枚を選び、そのカードをひっくり返した。

「はい、終わりました」

 するとマイさんは私の方を向いて、にこりと笑う。そしてカードを一度全部手にとって、また同じようにテーブルに並べた。さらに、テーブルに並べたカード一枚一枚に手をかざす。

「そうですね…瑞恵さんの選んだのは…これじゃない、こっちか、いや、こっちかも…はい、わかりました。瑞恵さん、あなたの選んだカードはこれですね」

 マイさんはピンク色のカードを選んでひっくり返した。

「えっ、うそーっ、どうしてわかったの?」

 マイさんは私が選んだところを見ていないはず。けれどピタリと当ててしまった。

「ピンク色を選んだということは、今瑞恵さんは愛情に包まれたいという願望がありますね」

「はい。その通りかもしれません。さっきシェリー・ブレンドと一緒にクッキーを食べたときに、笑って楽しんで過ごす自分が見えました。それって、家族とか周りの愛情に包まれて時間を過ごしているってことなんですよね」

「えぇ、きっとその通りですよ。けれど今はそれが不足している。いや、見失っているだけなのかも」

「見失っている?」

「えぇ、実は家族や周りの人からたくさんの愛情が注がれているのに、そこに目を向けていない瑞恵さんがいる。違いますか?」

 言われてドキリとした。最初に頭に浮かんだのは時任さん。昨日、あれだけのラブコールを送られたのに、私はそれをスルーしようとしていた。マイさんの問いかけに、私は何も答えることができなかった。

「瑞恵さん、大丈夫ですよ。そのみなさんからの愛情を感じる方法がありますから。残ったカードからもう一枚選んでもらってもいいですか?」

 マイさんはそう言うと、またくるりと後ろを向いた。どこに仕掛けがあるのだろう? あ、ひょっとしたらマスターが何か合図を送っているのかもしれない。そう思ってマスターを見ると、さっきまでカウンターにいたけれどバックヤードの方で何か作業をしている。ということはマスターが合図を送るっていうのは無理か。

 私は気をとりなおして残った六枚のカードを見つめる。赤…オレンジ…黄色…緑…青…紫…。これかな、頭にひらめいたカードをひっくり返す。

「はい、いいですよ」

「じゃぁ、またどのカードを選んだのかを当てますね」

 マイさんはさっきと同じように、一度カードを回収し、そしてまたテーブルの上に並べた。今度はさっきと違って、並び終えたときにはもう笑顔になっている。

「今度はすぐにわかりました。このカードですね」

 そう言ってマイさんがひっくり返したのは青色。

「うそっ、また当たった…どうして?」

「うふふ。青色はコミュニケーション、人間関係。そこに静けさを必要としています。瑞恵さん、確か社長さんでしたよね。ひょっとして部下を結構ガミガミ怒っていませんか?」

「あ…はい」

 ズバリ言い当てられて何も言えなかった。まさかここまで当てるとは。

「マイさんって…ひょっとして占い師?」

「うふふ、これは色が教えてくれているだけ。占いとは違いますよ。そして色はこんなことも教えてくれています。今の瑞恵さんには笑顔が必要。心から楽しむこと。そうすることでさっき引いたピンク色の気持ち。周りが包みこんでくれる愛情を感じることができますよ」

 マイさんが言った言葉は、さっきシェリー・ブレンドを飲んだときに感じたことと同じだった。笑顔、か。そのためには心から楽しむこと。間違いなく今の私に欠けていることだわ。

「マイさん、ありがとう。私、見失っていた。今を楽しむことを。ちょっと前、社長になる前だったら楽しむことばかり考えていたんだけど。責任が重たくなって、自分で自分を苦しめていたんだな」

「そういえばこんな話がありますよ」

 気がついたら、マスターがバックヤードから戻っていた。そしておもむろに話を始めた。

「私の知り合いでね、自称不幸のどん底っていうヤツがいましてね。いつ口を開いても、自分はツイていない、不幸だってことしか言わなかったんですよ」

 あ、そういう人周りにもいるなぁ。私は関心を持ってマスターの話に耳を傾けた。

「そこで私は彼にあることを教えました」

「どんなことですか?」

「口癖が自分の思考を決め、その思考が自分にいろんなことを呼び寄せて今の状況をつくるんだって。最初は半信半疑で信じてくれなかったのですが。いろんな実例とか私自身の体験を話していたらなんとなく信じてくれるようになりましてね。そうしたら彼の言葉が変化していったんですよ」

「どんな風に変化したのですか?」

「まず愚痴がなくなりました。そして、幸せにならなきゃ、幸せになるぞって。最後には、俺は幸せだなぁに変わりましたからね。まぁそこまでいくのに半年もかかりましたけど」

「半年もかかったんですか。でも言葉が変化していったのはいいですね。で、その彼は今はどうしているのですか?」

「やはり言葉が変われば人間も変わるものですね。昔は顔つきもきつくて、女性にはもてなかったのですが。次第に笑顔が増えて、今では奥さんをもらっていますよ。それに、仕事も順調になって。今ではどこに行っても愛想がよくて、お客さんから人気がでていてですね…」


カラン、コロン、カラン


 そのとき、お店のドアが勢い良く開いた。

「マスター、マイさん、こんにっちはー」

 どうやらこのお店の常連さんの来店らしい。

「隆史くん、いらっしゃい」

 このとき、マイさんが小声で私に教えてくれた。

「あの人がさっきマスターの言った人なの」

 うそっ。こんなに明るくて楽しそうな雰囲気の人が、昔は不幸だって言っていた人なの? とてもそうは思えない。

「あ、お客さんなんだ。じゃぁあっちの席にいるね」

 隆史さんと呼ばれたその常連さんは、明るい笑顔で丸テーブルの席へと腰をかけた。見ているだけで人生を楽しんでいるって感じがする。マイさんはさらに教えてくれた。

「あの隆史さんはね、今でこそあんな感じだったけど。昔は人を寄せ付けない雰囲気があったの。だから商売もなかなかうまくいかなくて。でもね、今じゃ心から人生を楽しむように変わっていったのよ。そうしたら、商売もうまくいきはじめて。奥さんももらって、人生絶好調って感じ」

 なるほど、人生を楽しむか。今の私に欠けていることなのかも。人生を楽しむどころか、目の前のことだけに一生懸命な私。どうやって今の状況を乗り切るのか。それしか頭にない。

「大事なのは、未来を見ることですよ」

 私の心を見透かしたかのように、マスターがボソリと言った。

「未来を見ること?」

「そう、未来を見るんです」

「それって一体どういうことなんですか?」

「あ、それマスターが昔オレに言ってくれた言葉ですよね」

 隆史さんがテーブル席から話に参加してきた。

「マスターさ、オレがマイナスの言葉ばっか口にしてたとき、明るい未来を想像してみてごらんって言ってさ。そのときはそんなことできなかったんだけど。マスターがうまい具合に誘導してくれて。じゃぁ三年後はどんな生活をしていたいんだ、とか言って。オレもマスターの話に乗せられて調子よくしゃべってたら気持ちよくなってねぇ。それからかな、なんか自然に笑えるようになったのは」

 隆史さんの言葉は胸に響いた。三年後とか考えたこともなかった。けれど、その言葉を聞いた瞬間から、私の頭の中では未来像がいろいろと湧いてきた。三年も経てば一番下は大学生かな。私の手から離れているかもしれない。そうなれば時間ももっと自由に使える。仕事もスタッフが育って、私のやることが減っているかも。時間に余裕ができれば、また自分のやりたいことができる。そうしたら時任さんのことも受け入れられるかも。彼には悪いけど、もうちょっと待たせてみるかな。なんて、悪女になってみるのもいいかもね。

「瑞恵さん、なんだか楽しいことが頭に浮かんできたようですね」

「あはっ、わかります?」

「もちろん、今の笑顔を見てればね」

 マスターはウインクをして私にそう言ってくれた。

 自分でもわかる。今、私笑ってるんだなって。そうか、今のこの気持ちを私は忘れていたんだ。楽しむってこと、笑うってこと。明るい未来を想像すれば、自然にその気持ちになれる。

「マスター、マイさん、隆史さん、ありがとうございます」

 私は深々とお礼をした。みんなは笑顔でそれを返してくれた。

 ここ、なんて素敵な喫茶店なんだろう。また自分を見失いがちになったときにはここに戻ってこよう。そうしたらまた、楽しむってことができるから。そうしたらまた、愛情に包まれるってことを感じられるから。

「じゃぁ私、そろそろ行きます、さぁ、がんばるぞ」

「瑞恵さん、がんばらなくてもいいんですよ」

「えっ!?」

 マイさんのその言葉に私はちょっとびっくり。

「がんばらなくてもいいって、どういうことですか?」

「がんばろうって思ったら、どんな気持ちになりますか?」

「そうねぇ…ちょっと肩に力が入って気合いを入れるって感じかな」

「そうなると、体が緊張して余計な力が入っちゃうんです。どちらかというと、顔もこわばっちゃいますよ。だからこう言っています」

 どんなふうに言うのだろう? 私はマイさんの言葉を期待して待った。そしてでた言葉がこれ。

「楽しんでね」

 楽しんでね。その言葉を聞いたとき、体からすーっと余計な力が抜けていった。そしてなんとなく笑顔になれたのを感じることができた。

「楽しんでね、か。うん、そうよね。仕事も、家庭も楽しまなくちゃ」

「そうそう、それに恋もね」

 マイさんはウインクをして私にそう言ってくれた。

「マスター、マイさん、隆史さん、今日はありがとうございました。さぁ、楽しんでいくぞ」

カラン、コロン、カラン

 カウベルの音が私を祝福してくれる鐘の音に聞こえる。そして私は一歩を踏み出した。私が見失っていた、楽しむことを味わうために。

 空が青い。太陽がまぶしい。目に映るもの、体に感じるもの一つ一つが私に楽しさを与えてくれる。そんな気がする。

 それからというもの、私の生活はより一層忙しくなった。けれどそこには苦しみはない。全てが楽しく感じられる。仕事も、家庭も、そして…

「時任さん、遅いっ!」

「瑞恵さん、ごめんなさい」

「まったく、今日は時任さんとたっぷり楽しむつもりだからね」

「はいはい。で、どこに行きましょうか?」

「もちろん、カフェ・シェリーよ」


<見失ったもの 完>

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