第九話 きっと、波紋が世界に及んでしまう
到着して起き上がってみると、そこは川沿いのカフェだった。
テラス席が分厚い透明のビニールカーテンで閉められている。
「素敵ですね」
心から言えた。
私の作ったものに命が宿る場所。
そして無意識の深呼吸。
私は今、自然に心にフタをした。
この、もう二度と訪れることのないかのような時間を全身で感じたい。
先程の出来事に対する心のざわつきには、後でしっかり時間を取って話を聞いてあげよう。
「小鹿ちゃんのシャンデリア、すっごく似合うと思う」
そう言ってカフェの鍵を開けた矢崎さんは、いつもの矢崎さんに戻っていた。
シャンデリアをテラス席に運び込み、天井に吊るして電気をつなぐ作業を始める。
矢崎さんは前もって段取りしていたかのように手際がいい。
私はたまにシャンデリアを支えたり、言われた物を取ったりして、少し参加する。
ふと視線を遠くにやると、小さな窓に寄り添うように大人しく座っている針金のアヒルちゃん。
自分の作品が溶け込める空間が、ここにはあるんだ……。
「作りっぱなしじゃ、寂しいだろ?」
脚立から伸びる足に沿って、矢崎さんを見上げた。
「作ることが好きなのに、好きなことをしてるだけじゃ、だめなんですね」
天井付近で作業されている手が止められて、目が合う。
「矢崎さんに作る目的をもらって、すごく救われましたよ」
笑うと、笑みが返されて作業が再開された。
波紋が心のフタを揺らす。
振り切るように、私の瞳にシャンデリアのまだ純真無垢な粒状電球を映す。
自分が真剣に向き合っているものの存在を、確認してくれる人がいること。
一人で向き合っていると、この存在が見えているのは自分だけなんじゃないかと思えてくる。
誰かが隣に来て、一緒の目線で同じものを見てくれると、やっと縛られていた心が軽くなる。
あなたにもこの存在が見えていますか?
これは私が今一番向き合っているものなんです。
小さい頃、同じ目線までしゃがんで家の水槽の金魚を見てくれた人。
高校生の時、同じ大学の過去問に一緒に挑んだ人。
今、私が作った針金のシャンデリアに明かりを灯そうとしてくれている人。
いつも、誰かがそこにいてくれて。
一人で息が詰まるほど夢中になってる私に、息継ぎをさせてくれる。
でも、好きなことに向き合い続けたいなら。
いつかは一人で息をし続けることができるように……。
「できたーっ」
勢いで脚立から飛び降りる矢崎さん。
「と、思う。電気つけてみよう」
「はいっ」
「あ、でも、その前に…」
彼はテラス席を囲むビニールの分厚いカーテンを開け始めた。
目の前を広がってゆくのは、穏やかな闇を塗られた川と木々。
ここがここだということを忘れそうな。
いつから私はこんな知らない遠い世界に来てしまっていたんだろう。
「つけるぞー」
室内の照明を消すと同時に、針金シャンデリアに明かりが灯された。
線香花火の最後の粒たちがテラス席をやわらかい温かさで包み、一本一本の湾曲された黒い線の存在感を印象付ける。
本来なら、限られた時間の中で終わるまで見届けたい光の粒たち。
でも終わらない。
私が作った線香花火は、終わることを惜しまなくていい。
大きなソファーに座って、私の指から生まれた流れる線の結晶をただ見つめていた。
矢崎さんも吸い込まれそうに同じ方向を見つめながら、私のすぐ隣に腰を下ろす。
世界に及ばない波紋が広がってゆく。
胸の鼓動が水面に輪を重ねる。
誰も知らない、見ていない、二人の空間。
いつからか矢崎さんが私の方を見ていることに気づき、息が止まった。
ここで、目を合わせてはいけない。
きっと、波紋が世界に及んでしまう。
私と二人でいるところを他の人に見られたくないほど、守り続けているものがある人。
そんなあなたの日々を、一瞬の過ちで揺らしてはいけない。
お願いです、あなたの作品、最後まで完成させてください。
一生をかけて彼女を支える環境、という作品を。
「三玲さんの個展、うまくいかなかったらしいよ」
アイスキャンディーを食べながらつぶやくリカさんの言葉に、まぶたが少し上がる。
「うまくいかなかったことに、意味がある時があるんだ……」
声にならない声を放つ。
三玲さんには気の毒だけど、矢崎さんの作品に目的が生まれたんだ。
あの夜以来、矢崎さんはベランダにも図工室にも来ない。
入れ替わりに、定期的にリカさんがベランダにアイスを食べに来るようになった。
空気は湿っている。梅雨が顔を出しかけていた。
「リカさん。今度、井の頭公園行きませんか?」
「いいけど、アヒルにでも乗りに行くの?」
「違いますよ」
そう言って、針金の子どもたちをなでる。
「この子たち、連れてくんです」
「広げて売ったりするの?わー、チャレンジャー」
「まぁ、別に売りたいために売るわけじゃないですから」
リカさんが不思議そうに可愛い顔を傾けた。
「『買いに行くよ』って言ってくれた人が、実際は来ないことを確認しに行くんです」
ぽつ、ぽつ、と雨の滴。
「来なかったら、あの人はきっと、自分の作品を最後まで完成させている気がする」
滴を浴びた針金の小鹿ちゃん、私の代わりに、涙の水たまりの中にいるみたい。