第八話 秘密の基地
「鹿子がいるから頑張れるのかも」
ふと、あの頃の大樹君の言葉を思い出す。
あんなにあんなに一緒に机に向かい合って、目を合わせていたこと。
もう二度と、そんな状態は訪れない。
もう二度と、二人で共有し合えるものがないのなら。
マネージャーのことを好きになってしまったかもしれないと告げる、あなたの感情の流れは正しいように思えた。
「そうだよね」
意外と納得してしまっている自分がいた。
でも、きっと同じ大学に通っていたとしても。
焦げ茶色の針金細工に囲まれた私を見て、もしあなたが私を無理矢理そこから連れ出してしまったのなら、泣いてしまう。
高校生の頃に『共有』だけで成り立っていた私たちの関係、近くにいても共有するものがなければ。
終わり。
「梅雨の季節なはずなんですけどね」
私は針金シャンデリアの最後の仕上げにかかっていた。
空は薄い雲を漂わせて、青い。
隣には物思いにふけっている青年が一人。
「こんないい天気が続いてるのに、今日から6月ですよ」
聞いているか聞いていないか分からない矢崎さんに、畳み掛けるように話し続ける私。
「……これ、今日中にできちゃいそうですよ」
「え?」
「これ、できますよっ!今日中に」
反応してくれたのが嬉しくて、つい顔がほころんでしまう。
「ついにその時がきたか……小鹿ちゃん頑張ったもんなーっ」
まるで考え事を吹き飛ばすためのような、大声と背伸び。
少しのけぞる私。
「じゃあさ、今夜にでもカフェに設置しに行こう。鍵だけ借りてさ」
「……基地を出るんですね」
二人で。
「……基地?」
「あ、えっと、まあ基地みたいなものじゃないですか、ここ。作戦たてたり、なんかこんなもの作ったり……あ、言ってるそばから恥ずかしくなってきました」
「うん、聞いてる方も恥ずかしいから、もう言わなくていいよ」
からかっているような表情を私に向ける。
せめて三玲さんに向けてはそんな顔、できないであって欲しい。
ひとつだけでも、私だけのものが欲しい。
月を見ていた。
ベランダで体育座りの私。
夜に入り交じる木々の間からのぞく月。
この針金シャンデリアの後は何を作ることができるんだろう。
月の微かな光が、湾曲して並ぶ黒い線をなぞる。
次の可能性の隣にも、矢崎さんは座ってくれているんだろうか。
「おーまたせ。よし、運ぶか」
学校からそれほど遠くない自宅に車を取りに行ってくれた矢崎さん。
今からの運搬作業を、夜のドライブととらえてしまっている私。
「うわー、運ぶと思ったら重いなー」
保護シートに包まれた針金シャンデリアを両手いっぱいで抱え持って、重そうにしながらも笑っている。
つられて笑いながら、足元の見えない矢崎さんのために図工室の中を誘導する。
扉から出て、誰もいない図工室の電気を消して鍵をしめた。
クラブハウスの薄暗い階段を慎重に下りる。
少しずつ、何かに向かっているような気がして、心にとまどいの波紋が広がる。
目の前に停めてある車に近づくと、重そうにしている矢崎さんは「ちょ」と言う。
「あ、はいっ」
向かい合わせでシャンデリアを支える。
「小鹿ちゃんっそんな小ボケはいらないからっ。ここに鍵入ってるから開けてくれー」
「ボケてるつもりないですよーっ」
慌てて矢崎さんの上着から車のキーを取り出してアンロックのボタンを押し、とりあえず後部座席を開ける。
そこに、ゆっくりとかたまりは下ろされた。
「ふう」
「わー、すみませんー、ありがとうございましたっ」
「……いいよ。その変わり、というか、お願いがあるんだけど」
「はい、何でしょう……?」
「その前に、図工室の鍵返してきていいよ」
「え、ああ、はい」
警備員室に小走りする。
何だ、改まってするお願いって、何だ。
用を済ませ、くるっと体を回転させて矢崎さんのもとへ走る。
「何ですか!」
軽く息を弾ませていた。
「……後部座席に座ってくれない?」
「ああ、全然……」
「それで、申し訳ないけど、しゃがんで欲しいんだけど……」
「しゃがむ……」
紺色の世界にただ在るのは、シャンデリアをのせた車と男と女。
「小鹿ちゃんにはなんか申し訳ないけど、図工室以外で俺ら二人でいるとこ、あんまり人に見られたくないんだ……」
それはもうほとんど自動的に。
「当たり前じゃないですか!」
自動的に、笑っている自分がいた。
「私だって、あんな恐い彼女さんを誤解させたくないですよ!あ、恐いとか言っちゃったけど」
矢崎さんの目も見ずに後部座席の隙間に乗り込む。
「連れてってもらってありがとございますねっ」
車の傍に立ったままの矢崎さんに呼びかけるように言うと、彼は返事をしてやっと動いてくれた。
図工室の独特な空気を、外に持ち出してはいけない。
図工室での自分で、外を出歩いてはいけない。
図工室での関係を、外で続けてはいけない。
きっと、私が望んでいる未来は、永遠にあの空間に閉じ込められたままだ。
今も、私と矢崎さんの亡霊のようなものが、あのベランダで笑い合っている。
しゃがんで見上げた車窓の景色は、まるで高速で過ぎてゆく日々のように走り去ってゆく。
目に映るのは直列に流れてゆく街灯。
今、一体自分がどこを進んでいるのか分からなくなる。