第一話 どうしても好きなこと
目の前にある水たまりは、広い世界を囲む海に繋がっているわけではない。
ゆえに水たまりの中の波紋は、ただただその小さな世界の中にいるあめんぼの態勢を不安定なものにさせるだけだ。
あめんぼの不安定さは、他の世界からは見えない。
波紋の広がりは、世界には及ばない。
どうしても好きなこと、を一人で黙々とやる。
黙々とした結果できたものの存在が一体何なのか、自分でも人に説明することができない。
そしてその存在をどうするのか、それ以前に何のために黙々と作業し続けるのか。
私には芸術が分からない。
周りの人は言う。
「今日、飲もうよ」
「土曜日、この映画観ない?」
「どっか旅行行きたいなー」
私は言う。
「いいね」
同じ遊びを定期的に繰り返す。
とても楽しい。
そして。
何かが足りない。
だから黙々と好きなことをやる。
ただ、それで心の隅々まで満たされているのかは自分にも分からない。
指が黒い線に沿う。
場所は、様々なサークルが集まっているクラブハウスの2階角部屋。
扉を開けるとそこは、散らかったままの状態が維持された小学校の図工室のよう。
不可思議に折れ曲がっている使いかけの絵の具。
幾重に積み上げられた廃材。
もうすぐ人の形になりそうなまま時を止めている粘土のかたまり。
自分の世界を作っているまばらな人々。
「どうもー」
「あ、おう」
「んー」
みなさんとの挨拶もそこそこに、私はベランダにつながる角の扉を開ける。
5月の木漏れ日は、“幸せ”を具体化しているようだ。
使われなくなった電動のこぎりなんかが隅の方においやられているベランダ、私はここに自分の居場所を作った。
「みんな、日中はここで好き勝手なものを作ってるの。ただ作業に没頭するのに疲れたら、行きたい人たちで晩御飯を食べに行ったりしてるかな」
大学の入学式を終えて4日後、たまたま見つけた『アートサークル』の看板を頼りに訪れた図工室。
世間から少し離れた場所で生きているようなぼんやりした表情で説明してくれたのは、2回生のリカさんだ。
仕方ない、彼女はちょうど私が訪問した時、自分の世界の中で紙に絵の具を塗りたくっていたんだから。
後日、リカさんを校内で遠くから見かけると、華やかな女子大生グループの一員と化していた。
リカさんは実際、世間と馴染んでいるらしい。
ただ、リカさんは心の一部を図工室で解放しているんだ。
私にも、世間と馴染みながらそういう場所が必要だった。