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君に恋をするということ

作者: クロウ


 教室は静かだった。

 窓からは西日が差し込み、白い壁はもちろん、机や黒板やリノリウムの床まで、あらゆるものを橙色に染め上げている。

 まるで映画のワンシーンを切り取ったかのような、美しい光景――

 だが、俺の意識を支配していたのは、目の前にいるたった一人の女の子だった。

「来てくれて、ありがとな」

 一言目が肝心だと、いつもより張った声が教室に響き渡る。

 彼女は返事をしなかった。その代わり、慌てたように小さなお辞儀を返してくる。生真面目でちょっぴり臆病な、実に彼女らしい仕草だ。

 俺はつい頬を綻ばせながら、改めて、この想いが間違っていないことを実感した。

 わずかに残っていた迷いの気持ちも、今はもう感じない。

「手紙にも書いたと思うけど……今日ここに呼んだのは、伝えたいことがあるからなんだ」

 彼女と出逢って約半年。そのあいだ、同じクラス委員として彼女の頑張る姿を見てきた。彼女はいつだって諦めなかった。口先ばかりの俺とは違い、夢に向かって突き進んでいく強さを持っていた。

 そうして抱くようになった同級生に対する尊敬の気持ちは、いつしか別の感情に変わっていた。

「回りくどいの、苦手だからさ。単刀直入に言うよ」

 だから俺は、この想いを真っ直ぐにぶつけたい。そうすることが、彼女と出逢えたことに感謝する一番の方法だと思うから。

「俺、佐倉サクラのことが好きだ」

 言葉にした瞬間、彼女の瞳は大きく見開かれた。口は半開きのまま、胸元に寄せていた両手が小さく震え始める。

「あ……あの……わ、たし……」

 白い肌は紅潮し、小さな体が少しずつ後ずさっていく。そして――

 その瞳から、幾筋もの涙が流れ落ちた。

「あ……れ……?」

 自惚れでなければ、彼女は少なからず俺を慕ってくれていたと思う。それは、クラス委員の仕事をきっかけに、二人きりで過ごす時間が長くなるにつれ、感じるようになったことだった。

 それでも、溢れる涙はとどまることなく、彼女の綺麗な顔をぐしゃぐしゃに濡らしていく。

「ごめ……ん、なさい……わたし……」

 覚悟していたことだった。

 きっと俺の気持ちは、彼女の心に重く圧し掛かる。彼女を、出口のない迷路の中で苦しめ続けることになる。それを分かった上での決断だった。

 だから俺は、決して諦めるわけにはいかない。

 そう、たとえ俺たちに――


 『運命のひと』の存在が約束されているのだとしても。



   ◇



 今から数十年前まで、人は自由に恋愛し、自由に結婚することが許されていた。

 思春期となれば話題の中心は恋愛ごとになり、学生の身分であっても好意を持った異性に想いを伝え、交際に至る例も少なくなかったという。

 だがそんな状況も、深刻化し始めた少子高齢化によって変わらざるを得なくなった。

 政府は、全人口に占める現役世代の割合が規定値を下回ったことを発表し、同時に『国民皆婚法』の法律案を国会に提出したことを報告した。これは、それより以前から運用が開始されていた『全国民個人データベース』を活用し、個人それぞれに最適な結婚相手、つまり『運命のひと』を抽出し、該当した男女を引き合わせようというものである。

 当然、国会での審議前から国民の反発は多かった。そんなものは違憲だと、抗議活動を活発化させる集団も続出したという。だが、当時の与党政権が反対を押し切って法の試験運用を開始し、結果的にはこれが英断となった。当初は国のお墨付きとも言える『運命のひと』に皆、懐疑的だったものの、実際に面会を果たしてみると見事なまでに気が合い、そのまま交際から結婚へと至るカップルが続出したという。

 そうして『国民皆婚法』は施行され、人々は『結婚相手を探す』という、人生でもとりわけ難儀な問題に時間を割く必要がなくなった。出生率は大幅に改善し、先行きの不安が解消されたことで経済も活性化、戦後最大とも言われる好景気が今もなお続いている。

 だが、良いこと尽くめと言われた中にも、弊害が一つだけあった。

 それは、子供時代に異性と接する機会が少なくなった結果、いざ『運命のひと』と出逢った時に、どう仲を深めていけばいいのかが分からないという人々が増えてきたということである。

 『運命のひと』が決定されるのは、高等学校卒業の直後。

 そこで政府の要請を請け、文部科学省は高等教育課程の中に新たな教科を一つ、追加したのだった――



   ◇



「今日はこれから、『デート実習』に行ってもらいます」

 教壇に立つ教師の言葉に、教室内は小さな歓声に包まれた。

 デート実習――それは高校からの新教科である『恋愛』授業の一環であり、机上で学んだ知識の集大成として、クラスメートの異性ひとりと模擬デートを行うというものである。もちろん遊びではないのだが、三年生の後期ともなると残された行事は卒業式のみであり、勉強の気晴らしとしてこの実習に期待するのも無理はなかった。クラスメートの一部は、早くもデート実習の相手に決まっている異性に話しかけたり、ためらいつつも様子を伺ったりしている。

 一方で俺、藤野海春フジノウミハルは、おそらく他の誰よりも真剣に、今日のデート実習について考えていた。『彼女』をどこに案内するか、どんな話をするか、そして――

「おーい、ウミハルっ」

 聞き馴染んだ女の子の声。振り向くと目の前に小さな手のひらが現れ、俺は慌てて体を遠ざけた。彼女の方は何事もなかったかのように、いつもの人好きのする笑顔を向けてくる。

「起きたかー? もう、こんな日にボーっとしてるなんて、マイペース過ぎるぜ兄貴〜」

 真っ直ぐに伸びた背筋に、真っ直ぐに垂らしたポニーテール。クラスメートの恩田佐弥オンダサヤは、異性ならではの距離感を感じさせない、俺にとって気安い女の子だった。

 だからこそ、ルールを踏み外してしまわないよう、お互いに気を付ける必要がある。

「お前なぁ、話しかけてくるのはいいけど、事故になりそうな真似はやめろよな。教室にだって『目』はあるんだぞ?」

 そう言いながら、俺は教室の天井をちらりと見た。そこには、目を細めなければ分からないほどの小さな、ドーム型カメラが設置されている。

「大丈夫だって。ウミハルが気付いたら、すぐに手を引っ込めるつもりだったし」

「そうだとしても、何が起こるか分からないだろ。特に今は、もうすぐ『運命のひと』が決まるっていう大事な時期なんだからさ。もっと自分を大事にしようぜ」

「……うん。そうだよね」

 俺の説教じみた言葉にも、恩田は素直に頷いた。少し照れくさそうに笑う姿は、女の子としても十分に魅力的だと思う。恩田の『運命のひと』に選ばれた人間は、きっと幸せな人生を送ることになるだろう。

「でさ……ウミハル」

「うん?」

「さっきから、言おうと思ってたんだけど」

 恩田は少し躊躇いながらも、俺の背後を指差した。

「ウミハルの相手、待ってるよ」

「えっ」

 瞬間、ひとりの女の子の顔が浮かぶ。

 振り返ったその先には、やはり『彼女』が立っていた。

「佐倉……」

 雪原のように真白い肌に、藍色に見える少し青みがかった髪。その美しいコントラストに加え、少し垂れがちな瞳と、髪を二つに束ねる桜色のシュシュが可愛らしさを醸し出している。

 彼女の名前は佐倉吹雪サクラフブキ

 俺が昨日、この教室に呼び出した女の子。

 決して許されない想いを告白した、誰よりも大切な女の子。

「あっ、えっと……昨日はその」

 突然の対面に緊張し、いきなりその話題から切り出そうとしてしまう。佐倉は何も言わなかった。もしかすると昨日のことを思い出し、俺と同じ状態に陥ってしまったのかもしれない。

 なんでもいい、話の続きを――そう思ったとき、佐倉の方が口を開いた。

「ふ、ふじのくんっ」

 それはか細い声だったが、俺の意識を引き付けるのに十分だった。いったい何を言われるのかと、先刻までとは違う緊張を感じながら、鳶色の虹彩が美しい瞳をじっと見つめる。

 もしかして、デート実習には参加できないと言うつもりじゃ――

 昨日のことを考えれば、有り得ない話ではなかった。

 祈るような気持ちで視線を送り続ける俺に対し、佐倉はその場で勢いよく、頭を下げた。

「今日は……よ、よろしく、お願い、します」

「……えっ?」

 ネガティブな言葉を予想していたせいで、つい間抜けな反応を返してしまう。怪訝な顔をする佐倉を見て、俺は慌てて首を左右に振ると、嬉しさに自然と笑みがこぼれた。

「ありがとう。俺の方こそ、よろしくな」

 すると佐倉はようやく、少しぎこちないながらも、はにかむような笑顔を見せてくれたのだった。



   ◇



 デート実習のプログラムは、実は細かく決められていない。

 むしろ、たった一つの『課題』を除いては、どこに行って何をしようとも自由だ。

 そこで俺は、デートの定番である映画鑑賞を実行するため、その上映場所へと佐倉を連れてきていた――

「さ、入って」

「……お、おじゃましマス」

 扉を開けた俺の横を、佐倉が恐る恐るといった足取りで通り抜ける。言葉はカタコト、動きはカクカク。だが、彼女がそんな風に緊張してしまうのも、無理はなかった。

 なぜならここは、映画館などではなく、俺の家なのだから。

「階段上がって、突き当たりが俺の部屋なんだ。先に行っててくれる?」

「りょ、了解デス! ……って、部屋?」

「あぁ。お茶、淹れていきたいからさ。飲むだろ?」

「へや……藤野くんの、部屋……」

「佐倉?」

「……」

「おーい」

「……」

 今度はフラフラとした動きになった佐倉は、しかし俺の言った通り階段を登っていった。心ここにあらずという感じだったのは、緊張が限界を突破したせいだろうか。

「……なんか、不安だな」

 俺は廊下にカバンを放り投げると、急いでキッチンへと向かった。


   *


 ティーカップを載せたトレーを持って部屋に入ると、壁際に立つ佐倉の姿があった。

 視線の先にあるのは、背の高い棚に並べられた無数の映像ディスク。最新のホログラフィック疑似体験に対応した作品もあれば、昔ながらの平らな画面で観るだけの作品もある。

 佐倉は、その中の一枚を手に取り、パッケージを眺めているようだった。

「藤野くん」

「……なに?」

 背を向けたまま声を掛けられ、少し驚いてしまう。その声を聞く限り、さっきまでの緊張は解けたようだが、どうにも様子がおかしい。

「藤野くんって、ほんとうに映画が好きなんですね。この棚なんて、天井近くまで高さがあるのに、映像ディスクがびっしり」

「そ、そうだな。映画は好きだよ」

「趣味があるのは、すごくいいことです。わたしも、高校で料理部に入って、毎日がすごく楽しかったから。趣味は持つべきです」

「あ、あぁ」

 声優も目指せるんじゃないかというくらい可愛いはずの声が、どんどん低くなっていく。単に趣味の話をしているわけではないことは明らかだった。

「でも、ですね、その……」

 佐倉の小さな体がぷるぷると震え出す。その様子は、まるで力を溜めこんでいるかのようで――

 まずい、と思った時には、もう遅かった。

「こんなものは観ちゃ駄目ですっ!」

 佐倉は、手にしていた映像ディスクを、俺の眼前に勢いよく突き出した。

 パッケージに書かれたタイトルは『狙われた団地妻』。いわゆるアダルトビデオというやつだった。

 昔は年齢制限をした上で視聴が許可されていたというが、現在は完全に視聴禁止となっている。

「どうしてこんなものを持っているんですか。もし学校にバレたら、進路に影響するのは間違いないんですよ? いいことなんか何もありません。それなのにどうしてこんなものを持っているんですか」

 普段の大人しい姿からは想像もつかないほど饒舌になるのを見て、俺は確信した。

 佐倉が『委員長モード』を発動させたということを。

 他人のことを心配するあまり、説教じみた言葉をマシンガンのように放ち続けるスイッチが入ってしまったことを。

 ただ――その様子は、いつもとは少し違っていた。

「もし学校にバレたら、進路に影響するのは間違いないんですよ? いいことなんか何もありません。それなのにどうしてこんなものを」

 顔が真っ赤なうえ、同じ話を何度もループさせている。しかも、本人はそのことに気づいていないらしい。

 黙って聞いているだけでは、いつまでも終わりそうになかった。

「あのな、佐倉」

「どうしてこんなものを持って――なんですか」

「そのビデオだけど、友達に貰ったんだよ。プレゼントされたんだ」

「……プレゼント、ですか?」

「あぁ。奴は悪戯半分のつもりで、俺の反応を見て喜んでたけどな。せっかく友達がくれたものを、簡単に捨てるわけにはいかないだろ? それがたとえ、こういうビデオだったとしてもさ」

「……それは、まぁ」

 真面目な佐倉らしく、『友達』というキーワードを無視できなかったのだろう。だがそれは、俺にとって狙い通りだった。

「佐倉の言う通り、こんなものは持っていない方がいいと思う。でも、少しだけ待ってくれないか? 断りもせずに捨てたら、奴が悲しむかもしれないし」

「……しょ、しょうがないですね。今回だけ、特別ですよ?」

「わかってる。ありがとう、佐倉」

 俺は精一杯の笑顔を浮かべる。照れくさそうに顔を背ける佐倉は可愛かったが、そのぶん心が痛んだ。いくら緊急時とはいえ、『奴』などという架空の人物を作り上げてしまった自分が嫌になる。

 そのうえ、俺はこれから、更なるお願いをしなければならない――

 佐倉をソファへ座るよう促し、二人並んでコーヒーを口にしてから、俺は映像ディスクの収められた棚の前へ移動した。

「あのさ。映画、観ないか?」

「……はい。そのために、来ましたから」

 佐倉は、もうずいぶん落ち着いたようだった。過度な緊張もなく、『委員長モード』のときの静かに興奮したような様子もない。いつもの、朝の教室で顔を合わせる時の佐倉だ。

「それじゃ、流すよ」

 ここに来る途中、佐倉には『お勧めの作品を観てほしい』と言ってある。彼女は、特別な映画好きではないが、気になった作品はダウンロードするなりして観ているという。そのため、道中は映画談議で意外なほど盛り上がった。

 だが――冒頭の画が浮かび上がったところで、彼女は前を見たまま言った。

「藤野くん」

「……なんでしょうか」

「さては、全然反省していませんね?」

 どうやら、とぼけても無駄なようだった。俺はリモコンで一時停止の操作をする。

「わたしが観た限り、『映審』のカットが入ってませんでした」

「そうだな」

「つまり、これも視聴禁止作品ってことですよね?」

「……うん」

 それは、昔であれば誰もが観ることができた、素朴な恋愛映画だった。自由恋愛が全面禁止となった今では、『不健全な描写がある』として視聴禁止となっている。

 てっきり怒られるかと思いきや、佐倉はジトっとした目を向けてくるだけだった。滅多に見せない表情だが、これはこれで魅力的だ。

「さっきの……ビデオは、仕方ないと思います。でも、これだけたくさんの作品があるのに、どうしてわざわざ――」

「夢だったんだ」

「……えっ?」

 聞き入れてもらうには、正直に言うしかないだろう。俺は、隣に座る佐倉の顔を見ることができないまま、絞り出すように言った。

「夢だったんだ。この作品を、その、……な女の子と観るのが」

 肝心なところは、気恥ずかしさで小さくなってしまった。我ながら、本当に情けない男だと思う。

 でも――聞こえていたかどうかは、佐倉の反応で分かった。

「……ずるいです」

 佐倉も俺と同じく、視線は斜め下を向いたままだった。

「そんな風に、言われたら……。そんな……しいこと、言われたら……断れません」

 どうせなら、聞こえなければよかったと思う。愛おしさがこみ上げてきて、そのまま抱きしめてしまいたい衝動に駆られる。

 でも、それはできない。だって俺たちは、お互いに『運命のひと』ではないのだから。

「……ありがとう」

 俺はそれだけ口にすると、再びリモコンの再生ボタンを押した。



   ◇



 黄金色に輝く水面が、秋の冷たい風に吹かれて静かに揺れている。

 俺たちは、町で一番大きな公園の中にある、町で一番大きな池のほとりを歩いていた。

 周囲には静けさが漂い、木々の梢や葉の揺れる音、ときおり聞こえてくるカラスの鳴き声が、耳に心地よく響いてくる。

 その中で、佐倉は静かに泣いていた。今日何度目か分からない涙が溢れ出し、彼女の滑らかな頬や形のいい鼻、さくらんぼのように艶やかな唇をしっとりと濡らしていく。

「これ、いるか?」

 差し出したハンカチを、佐倉は恐る恐る、でも確かに受け取った。

「……すみません。いい加減、しつこいですよね」

 あの映画を観終えてから、佐倉の涙は止まらなくなっていた。直後は嗚咽のせいで何も喋れず、ウチを出てしばらくすると落ち着いたのだが、少し経つと思い出したように瞳を潤ませ始め――

 かれこれ、もう五回以上はそれを繰り返していた。

「……これで、終わりにしますから」

 佐倉の濡れた声から、申し訳なさそうな気持ちが伝わってくる。だが、俺はそもそも、腹が立つとも、迷惑だとも思ってはいなかった。

「佐倉」

「は、はいっ」

「ありがとう。あの作品を、佐倉と一緒に観ることができて……本当によかった」

「……え」

 あまりにもきょとんとした顔に、俺はつい吹き出してしまった。生真面目が性分の佐倉は、そんな俺の態度が気に食わなかったらしい。

「ど、どうして笑うんですかっ!」

「だってお前……ヘンな顔するから……」

「顔はもともとですっ! ていうか、女性に失礼なこと言わないでくださいっ!」

「あはははは」

「笑うの禁止っ!」

 それでもしばらく笑い続けた後(佐倉は今後一年分くらいの不満そうな顔をした後)、俺は改めて素直な気持ちを口にした。

「本当に……よかったよ。佐倉が、俺の大好きな作品を一緒に観てくれて。心の底から感動してくれて。本当に……嬉しいよ」

 佐倉があんなにも涙を流したのは、作中で描かれる物語と、自分の境遇とを重ね合せたから――

 自惚れかもしれないと思う。それでも俺は、佐倉が自分と同じ想いを抱いたのではないかと、そう信じずにはいられなかった。

「藤野くん……」

 直接訊いて、確かめてみたい。

 でも、佐倉の穏やかに笑う姿を見ていると、その必要もないかもしれないと思ってしまうのだった。


   *


「でもさ……今日のことを抜きにしても、佐倉って涙もろいよな」

 不意を突かれたように、佐倉は再びきょとんとした顔をする。

「……そうでしょうか?」

「あぁ。だってほら、文化祭のときもさ」

「あれは……その」

 佐倉が恥ずかしそうに口ごもる。

 今年の文化祭――俺たちはクラス委員として、簡単に言えば仕切り役を任されていた。クラスとして何をやるのか、どうやって人員を割り振るのか。とはいえ、難しいことは何もなかった。例年、ほとんどのクラスが模擬店を企画し、男子が荷物運搬や買い出し、女子が調理や接客というように、明確に役割分担することができるからだ。

 ただ今年の、俺たちのクラスに限っては、『いつもと違うことがやりたい』と声を上げる人間がいた。

「あの時さ、いきなり何を言い出すんだって思わなかった?」

「そんなこと……。ただ、同じクラス委員なんだから、事前に相談してくれても良かったんじゃないかな、とは思いました」

「ふーん。そうか、だから怒ってたのか」

「? べつに、怒ってませんよ」

「そうかなぁ。だってあのとき、黒板の前でチョークを何本も折ってただろ?」

「そんなことしてません。からかうのも禁止っ」

 頬をふくらませる佐倉を見て、俺は仕方なくイジるのをやめた。普段はどちらかというと臆病なのに、俺に対しては少しだけ怒りんぼうになる姿が、たまらなく可愛いと思う。

 とまぁ、それはさておき。

 俺が提案したのは、クラス全員での『ステージ発表』への参加だった。ステージ発表と言えば、有志によるダンスやバンド演奏などのパフォーマンスを披露する場であり、文化祭の華と言ってもいいプログラムである。昔は三学年全てのクラスが参加し、それによって文化祭自体も大いに盛り上がっていたそうだが、ある時期を境にそれはなくなった。

 なぜなら……自由恋愛が禁止されて以降、男子と女子が手を取り合って協力するということが、難しくなってしまったからである。

「満場一致で反対、っていうのは驚いたよな。さすがにちょっと傷ついた」

「そうですね……。ただ、わたしとしては、藤野くんがいきなり意見を言い出したことの方に驚きましたけどね。事前に話してくれなかったことに、ちょっと傷つきましたし」

「……あれ、やっぱり怒ってる?」

 俺が声を落として訊ねると、佐倉は珍しく、少し悪戯っぽい表情で笑った。

「ふふ、冗談です。笑われたのと、からかわれたのに対する仕返しっ」

 目の前で、小さくシャドーパンチを打つ佐倉。そういう何気ない仕草が、眩暈がするほど可愛いと思う。

 とまぁ、それもさておき。

 クラス全員でのステージ発表は、ほとんど不可能な状況だった。いくらクラス委員が仕切ると言っても、みんなのやる気がなければどうすることもできない。言い出した俺自身、ダンスをやるということ以外、全くビジョンが見えていなかった。

 それでも、たったひとりだけ――諦めずにいてくれた人間がいた。

 クラス全員の説得に始まり、ステージ発表出場の申請、曲や振り付けの決定、練習場所の確保、衣装の調達。これら全てを、『最終的に不参加』というリスクも考えずにこなしてくれた女の子が、いま、俺の目の前にいる。

「……本当に、感謝してるんだ」

 あの時の、言葉にならない気持ちは、今でもはっきりと思い出せる。

「佐倉が頑張ってくれたから、俺は夢を諦めずに……いや、諦めるわけにはいかないって、思えた。だからこそ、絶対にステージ発表を成功させるんだって、必死で取り組むことができたんだ」

「……わたしなんて、何もしていません。一番難しい男子と女子の橋渡しを、藤野くんが頑張って成功させた。ステージ発表に関しては、それが全てです」

 あっさりと言い切る佐倉に、俺は思わず言葉を失ってしまった。

「謙虚も過ぎれば傲慢って言葉、知ってるか?」

「そんなつもりじゃありませんっ」

 軽やかに笑う佐倉からは、その言葉通り、傲慢さなど微塵も感じない。

 それでも、ステージ発表を頑張ったという事実は、彼女の中にも確かにあったんだと思う。

 なぜなら、文化祭当日――ステージ発表が見事に成功した後の打ち上げで、彼女がこっそり泣いているのを見つけてしまったから。

「なぁ、佐倉」

「はい?」

「……いや、なんでもない」

 でも、このことに触れるのは、もうやめておこうと思う。

 佐倉自身は嫌がるだろうし、それに――あのときの涙の理由を、もっと都合よく解釈していたいと思う自分がいるから。

「……あのさ、佐倉」

 彼女が再びこちらを向く。その顔には『またイタズラですか?』とはっきり書かれていた。

 俺は苦笑しながら、長い睫毛に彩られた鳶色の瞳を真っ直ぐに見据える。

「ありがとう」

 いきなりの言葉に、佐倉は少し面食らったようだった。それでも、勢いを失いたくない俺は構わずに続ける。

「佐倉は、俺の夢を叶えてくれた。ちっぽけだったかもしれないけど、俺にとって大切な――本当の意味での『クラス一致団結』を実現することができた。それに……それだけじゃない。お前がいてくれたからできたこと、きっと数えきれないほどあったと思う。心から……感謝してる」

 口を閉じた途端、顔が急速に熱くなるのを感じる。昨日の告白もそうだったが、これだけストレートに想いを伝えるというのは、やはりものすごく恥ずかしい。

 だが、それだけに、相手に伝わるものも大きいようで――

 佐倉の大きな瞳には、いつの間にか、涙の紗幕がかかっていた。

「……お礼を言いたいのは、わたしの方です」

 体の横で、小さなこぶしがぎゅっと握り締められる。

「藤野くんは、わたしがいたから夢を叶えられたと言いました。でも、それは逆……なんです」

「逆……?」

「あなたが夢を語ってくれたから、わたしは同じ目標に向かうことができた。あなたが手を引いてくれたから、わたしは迷わずに進むことができた。……ひとりでは何もできない、臆病なわたしにとって、あなたは……いつも、道しるべ、だったんです」

 佐倉から見た自分というのを、想像したことがないわけではない。だが、そのときは短所ばかりが思い浮かび、少しブルーになった記憶がある。

 だから、道しるべなんて言葉は、俺にはもったいなさぎるような気がして。

「あのさ……」

 そんな風に戸惑っているうち、気付くと目の前には、佐倉の姿があった。

「佐倉?」

「あなたがいてくれさえすれば、わたしは……他に何もいりません」

 それは、瞬く間の出来事だった。

 佐倉の両手が俺の右手を包み込み、そのまま優しく持ち上げる。クラスメートの恩田にはあれだけ過敏に反応したのに、手を振り払うことも、距離をとろうとすらしなかった。

 なぜなら――あまりにも驚きが大きすぎて、体が硬直してしまったから。

「やっと……さわれました」

 佐倉が、はにかんだような笑顔を見せる。それを見てようやく、自分の手が夢のような感触に包まれていることを実感した。

 同時に、俺たちがデート実習唯一の『課題』を達成したのだということも。

「……藤野くん?」

 本来であれば、『運命のひと』ではない異性への肉体的接触は許されていない。『国民皆婚法』による制度を維持するため、政府が必要だと判断したからだ。

 それを実現したのが、街中の至る所に設置された超小型監視カメラ――通称『政府の目』。

 異性間のスキンシップを機械的に検出し、相手が『運命のひと』でない場合には、その場で警告や処罰を下す。

 しかし、特例として一部の接触が許可される場合もある。そのひとつが、いま俺たちが取り組んでいるデート実習というわけだ。

「……あの、もしかして、怒りました?」

 佐倉が不安げな表情でこちらを覗き込んでくる。くるりとカールした長い睫毛の可愛らしさや、凹凸ひとつない肌の美しさに見惚れてしまう。

 彼女が持つ肉体的魅力に、いつも以上に気付いてしまう。

「……っ」

 デート実習中に許されているのは、お互いの手を接触させることだけ。それ以上を実行すれば、俺たちは間違いなく処分されるだろう。最悪、進路にも影響があるかもしれない。

 俺は歯を食いしばり、迫り来る誘惑に耐えようとした。佐倉に触れたい。誰よりも大切に想うこの女の子を、腕の中に収めてしまいたい。そんな欲望を、必死で体の外へ押し出そうともがいた。

 それなのに――繋がれた手を振り払うことだけは、どうしてもできなくて。

「……お願いですから、なにか言ってください。でないとわたし……」

 涙に濡れた声が耳朶を震わせる。体の触れ合った部分から、佐倉の温もりが伝わってくる。もう、我慢の限界だった。ほんの少しのきっかけで、ボロボロの理性が音を立てて崩壊してしまいそうな――

 もはや、この場から逃げ出すしかない。地面に縫い付けられたように動かない足を、俺は必死で引きはがそうとした。

 すると佐倉は、それを察知したかのように、とどめの文句を口にした。

「……でないとわたし……もっと、あなたに触れたくなってしまいます……っ」

 その瞬間、俺の目に映る世界には、佐倉しか存在しなくなった。

 俺の右手は、彼女の優しい拘束からするりと抜け出し、そのまま雪原のようにまっさらな左頬へと着地する。

「ふじの、くん……?」

 もう、何も考えられなかった。けたたましい警告音が鳴り始めたのも、どこか遠くで起こっている出来事のように感じた。

 左手も使って両頬を挟みこみ、その驚くほど小さな顔を近くに引き寄せる。

「だ、だめ……」

 言葉とは裏腹に、佐倉は抵抗しなかった。淡い桃色の唇から、例えようもない強烈な引力を感じる。

「好きだ」

 頭に浮かんだ言葉を、そのまま囁くように口にした。

「世界中の誰よりも、佐倉のことが好きだ」

 二度目の告白。はやる気持ちを映し出したかのように、少しだけ早口だったと思う。

 それでも佐倉は、嫌そうに顔を引きつらせることもなく――

 これ以上ないというほど目尻を下げた、とびきりの笑顔で応えてくれた。

「……わたしも、です」

 胸にこみ上げてきた愛おしさをぶつけるように、俺は佐倉の唇を奪った。

 彼女の柔らかさ、そして温もりが、手を繋いだとき以上に伝わってくる。夢のような感触に、息をするのも忘れてしまいそうになる。

 このまま、佐倉と溶け合って消えてしまいたい――

 その切なる願いは、しかし果たして、実現することはなかった。

「な、なんだ……?」

 俺を現実世界へと引き戻したのは、ひとりの女性の悲鳴だった。

 まるで堰を切ったように、正常な思考が頭の中を満たしていく。それからすぐ、自分が取り返しのつかない過ちを犯してしまったことに気付いた。

「……あ……あぁ……」

 耳をつんざく警報音は、またしてもすぐに聞こえなくなる。体中の穴から冷たい脂汗が吹き出るような感覚だった。もはやどうにもならない現実に、ただ絶望するしかない。

 俺は――自分に科したはずの誓いを、守ることができなかったのだ。

「……さくら……すま、ない……」

 視線の先で震える佐倉の姿を見ながら、俺はただひたすらに、謝罪の言葉を繰り返し続けていた。



   ◇



 佐倉に恋をしていることに気付いたのは、文化祭が終わったあとの、夏休みが始まったばかりの頃だった。

 今の時代であっても、誰かを好きになること自体は珍しくはない。実際、クラスの男子連中とは『どの女子が一番タイプか?』というお題で盛り上がった記憶がある。

 だが、その恋心を胸にしまっておくのではなく、行動に移そうとする人間は、決して多くはないだろう。少なくとも、俺の一七年という短い人生の中では、俺以外にそんな奴はいなかった。

 俺は悩んだ。告白すれば、佐倉の心を大いに動揺させることになる。三年の後期という、受験に向けて一番大事なこの時期に波風を立てることになれば、佐倉の人生に影響を与えてしまうかもしれない。だいたい、あと半年もせずに『運命のひと』が決まるのだ。佐倉のことは忘れ、敷かれたレールに乗ったままでいる方が、お互いに幸せになれるのではないか。

 それにもし、佐倉が俺を受け容れてくれたとしても……俺は彼女に指一本触れることができないのだ。

 だったらいっそ、離れていた方がいい。お互いに想い合っているのに、キスはおろか手を繋ぐこともできないなんて、針のむしろにもほどがある。そんな生き地獄を、俺はともかく佐倉にまで味わわせるわけにはいかない。

 だが――結局は、夏休みという会えない時間が、彼女を想う気持ちを大きく育ててしまったのかもしれない。

 後期の登校初日、俺は自分の覚悟を記した手紙を鞄の中に入れていた。

 それはのちに、佐倉を教室へと呼び出すことになるラブレターの下地となるものだった。


   ***


 佐倉へ


 突然の手紙でごめん。でも、驚かないで聞いてほしい。

 俺は佐倉のことが好きだ。この世界で誰よりも、君をひとりの女の子として大切に想っている。

 この気持ちを伝えるかどうか、ものすごく悩んだ。佐倉の迷惑になるくらいだったら、今までの関係でい続けた方がいいんじゃないかって、何度もそっちに傾きそうになった。

 でも、最終的には……他のことがどうでもよくなるくらいに佐倉のことが好きだって、気付いた。

 だから俺は、ここに約束する。

 『運命のひと』には決して会わないこと。そして、佐倉のそばにい続けるために、佐倉には指一本触れないこと。

 それさえ守ることができれば、俺はずっと、佐倉の隣を歩いていくことができると思うから。


   ***


 そう――俺は、約束したのだ。

 例えどれだけ愛おしいと感じても、それ以外に何も考えられないほど強く囚われたとしても。

 決して佐倉の体に触れることはしない、と。

 それなのに、俺はそれを守ることができなかった。誘惑に負け、更なる温もりを求めようと佐倉の唇を奪った。

 そんな弱い人間が、どうして佐倉の隣を歩くことができるというのだろう。どうやって、『運命のひと』ではない彼女を幸せにすることができるというのだろう。

 俺は、自分への深い失望に苛まれながら、暗い思考の海を彷徨い続けた。



   ◇



 翌日は、雨が降っていた。

 今にも雷鳴が轟きそうな空模様の下、色とりどりの傘をさした生徒たちが続々と帰宅していく。

 その様子を、俺は生活指導室の窓越しにぼんやりと眺めていた。

「……おい藤野、聞いてんのか!」

 声を荒げるのは、テーブルを挟んで向かいに座る中年の男性教師。頭はすっかり禿げ上がり、腹は醜いほどに膨らんだ、お世辞にも身なりに気を遣っているとは思えない人物である。

 そしてこの教師は、恋愛にまつわる一切の話題を毛嫌いしていることでも有名だった。

「今回は、校長が頑張ってくれたおかげで、警察沙汰になることだけは避けられた。だがな、お前がそういう態度で人の話を聞くっていうなら、俺はそのことを校長に報告するまでだ。わかったか?」

「……はい、すみません」

 警察の世話にならない代わりに、俺は学校からひとつの処分を言い渡されている。

 それは、今後一切、学校内で佐倉吹雪と接触を持たないこと。二人で談笑することはもちろん、朝のあいさつや、日常の何気ない会話に至るまでの全てが禁止されるという。おそらく学校内の『目』を利用して俺たちの動向を監視するつもりなのだろうが、俺はそこに盲点を見出さずにはいられなかった。

 学校の外であれば、佐倉に会うことができる、と――

「それにしても、俺としては残念でならないな。あと数カ月で『運命のひと』が決まるというのに、一体何を焦る必要があった? 逸らずとも、女を抱くことができるのは決まっているのに。まったく、馬鹿馬鹿しいことをしたものだな」

「……っ!」

 教師の言葉に、視界が一瞬にして真っ赤に染まる。この男は、女を快楽の対象としてしか考えていない。それがすぐに分かってしまうほど、脂肪で弛み切った顔には下卑た笑いが浮かんでいた。

 だが、俺の睨むような視線に気付いたのか、その顔が今度は不満そうに歪んでいく。

「なんだ、その目は。言いたいことがあるならはっきり言え」

「……べつに、ありません」

「嘘を言うな。俺の方を睨み付けていただろう」

「元々、こういう目つきなんです。不快でしたら謝りますが」

「……ふん、まぁいい」

 教師は吐き捨てるように言うと、不機嫌そうに窓の外を睨み付けた。それから、何かを思い出したかのように、再び口元に笑みを貼り付ける。

「ひとつ、話をしてやろう。お前たちと同じ、道を踏み外した生徒たちのことだ」

 巨体が乗り出すように近づいてきて、俺はわずかに体を引いた。

「そいつらは毎度、判で押したように同じ主張を繰り返す。本気で好きなんです、とか、国から与えられる結婚相手なんて間違っている、とかな。まぁ、俺は教師だから、たとえ食傷気味でも一通りの話は聞いてやるわけだ。だがな、そいつらは結局……どうなったと思う?」

 俺は何も答えず、ただ教師の濁りきった目を真っ直ぐ見据えた。そんな反応すらも楽しむように、教師の顔は更に気色悪く変貌していく。

「全員だ……そいつら全員が『運命のひと』を選んだ。俺に本物の恋がどうだとか散々抜かした奴も、最後にはシステムに選んでもらった女と幸せそうに結婚した。俺は式に呼ばれたんだが、笑いを堪えるので必死だったよ。そして言ってやりたかった、お前の高校時代のアレは何だったんだ、ってな」

 狭い室内に、教師の汚らしい笑い声がこだまする。俺はテーブルの下で、爪が手のひらに食い込むほどに強くこぶしを握りしめた。

「いいか、藤野。この国に住む限り、誰もが与えられた運命に逆らえやしない。だがな……それは決して悪いことじゃないんだ。黙ってレールに乗っかってれば、分相応の幸せを与えてやる――今の社会はそういう風にできてる。だったら、ここで一番賢い選択は何だと思う?」

 一応は教師と言うべきか、生徒に質問するのが好きらしい。だが、俺は何も答える気はなかった。この男が求めている回答は、俺にとって一番あり得ない選択肢に違いないから。

 教師は、俺の反応がないことに舌打ちしながらも、再び醜悪な笑みを浮かべて言った。

「それはな……さっさと『恋愛ごっこ』をやめることだ」

 それを聞いた瞬間、頭の中で何かが弾けたような気がした。

 俺については何を言われようとも構わない。だが、この恋を『ごっこ』呼ばわりされるのは、佐倉の想いまでもが踏みにじられるような気がして――

「な、なんだよ」

 無意識に立ち上がっていた俺は、そのまま怯んだ様子の教師を睨みつけた。それからテーブルを激しく叩いて教師の体を数ミリほど浮き上がらせると、廊下に通じるドアの前まで移動する。

「……そろそろ用事があるので、これで失礼します」

 一昨日までの俺なら、きっと宣言していただろう。

 昔の人たちのことなんか知らない、俺は絶対に佐倉の傍から離れない――と。

 だが、今はもう知ってしまった。佐倉吹雪という女の子の柔らかさ、それに温かさを。ひとたび触れてしまえば、抗いがたい欲望に体の芯まで支配されてしまうことを。

 そして――皮肉なことに、彼女への想いが本物であるほど、その欲望は強くなってしまうことを。

「おいっ、まだ話は終わってないぞ!」

 俺はいったい、どうすればいいのだろう。

 答えが見つからない苛立ちをぶつけるように、俺は生活指導室のドアを乱暴に閉めた。



   ◇



 放課後の校舎内は、まるで人払いをしたかのように静まり返っていた。

 鞄を取りに戻った教室にも、生徒玄関に向かうため歩いた廊下にも、今日に限って誰もいない。俺がその場所を訪れるたび、自動照明だけが無機質な明かりを灯していく。いつもなら、意味もなく残っているクラスメートに会ったり、下手くそな吹奏楽部の演奏を半強制的に聞かされるはずなのに。まるで学校全体が自分の存在を否定しているような気がして、足取りは自然と重くなっていった。

 生徒玄関にも、人の気配は全くなかった。

 俺は手早く靴を履き替えると、自分のとは少し離れた位置にある靴箱を見つめた。扉の表面に埋め込まれた液晶には『佐倉吹雪』という名前が表示されている。その隣には『登校/帰宅』の項目があり、『登校』の方にランプが灯っていた。今日の面談はそれぞれ別室で行うと聞かされていたが、どうやら長引いているらしい。

 俺は少し迷いながらも、液晶の表面に触れた。メニュー画面が表示され、その中から『メッセージ』の項目を選択する。現れた仮想キーボードを使って文章を作成するのに時間はかからなかった。

 ――近くの公園で待ってる

 たったそれだけのメッセージだったから。

 だが、投函ボタンをクリックしようとしたところで、俺の指は止まった。

 佐倉に会いたいという気持ちに嘘はない。たとえ周囲が俺たちのことを引き離そうとしても、可能な限り彼女の傍に居続けてたいと心から思っている。

 それなのに――今はこうも考えてしまうのだ。俺のように欲に向かって突き進むだけの人間では、佐倉に辛い思いをさせるばかりなのではないかと。俺よりも『運命のひと』の方がよっぽど彼女のことを幸せにできるのではないかと。

「くっ……」

 情けない発想をしてしまう自分が嫌になる。その苛立ちをぶつけるように、握り締めたこぶしを靴箱に向けて振りかぶったときだった。

「あー、フッキーの靴に悪戯してるー!」

 玄関中に響き渡るのではないかというほどの大声。驚いて動きを止めた俺に対し、現れた人物――クラスメートの恩田佐弥は、こちらに向かってビシッと指を差してきた。

「こらっ、ウミハル。勝手に乙女の靴の匂いを嗅いじゃだめだぞ?」

 まるで小さな子供に「めっ」と言わんばかりの表情に、俺の口からは自然とため息が漏れる。

「お前なぁ……俺がそんなことをしているように見えるか? 人を変態呼ばわりするのはやめてくれ」

「あっ、しらばっくれる気? この前は机の中にあった縦笛をベロベロなめてたくせに」

「だから話を作るなっての。だいたい、高校でリコーダーなんて使わないだろうが」

「あはは……ばれた?」

「バレバレだ」

 容赦なく切り捨てたにもかかわらず、恩田はどこか嬉しそうに笑う。考えてみると、こんな馬鹿らしいやり取りをするのも久しぶりかもしれない。

 あるいは――俺が佐倉への想いを隠し切れないようになって以来、かもしれなかった。

「……今日も部活、あったんだな」

 肩に掛けられたスポーツバッグに目が留まる。パンパンに膨らんだそれは、その大きさも相まってかなりの重さであることが想像できた。

「もちろん、あったよー。地獄の室内練がね」

「地獄の?」

「腹筋と背筋を一〇〇回ずつに、廊下ダッシュを三〇本。それが終わったら、階段ダッシュを一〇往復。今度、ウミハルもやってみる?」

「……遠慮しておく」

 恩田は三年生だが、今でも引退したソフトボール部で練習を続けている。なぜなら彼女は、国内プロチームへの入団がすでに決まっているからだ。

「今日はもうヘトヘトだよ。やっぱり引退してから体力落ちたなぁ」

「そうなのか? そのわりに、元気そうに見えるけどな」

「うん。だって、ウミハルに会えたから」

「え」

 一瞬、どきりとしてしまう。だがその気持ちは、恩田のニヤニヤ笑いにたちまちかき消される。

「冗談なんだけど……その顔、本気にしちゃった?」

「うるせえ」

「あはは、怒った〜!」

 頬のあたりがかっと熱くなる。それを見られないよう顔を背けていると、恩田は軽やかな動作で靴を履きかえ始めた。やはり、とても疲れているようには見えない。

「帰るのか?」

「うん。もうだいぶ遅いし、雨はこれからもっと酷くなるみたいだしね」

「……そう、なのか」

 恩田の、女子にしては広いその背中が徐々に遠ざかっていく。

 俺はどうしようか迷いながら、気付けば扉に手を掛けようとする彼女を呼び止めていた。

「なぁ、恩田」

「ん?」

「……訊かないのか、面談のこと」

 知らないわけはなかった。俺と佐倉のことは、クラスはおろか学校中で話題になっているはずなのだから。

 それでも触れずにいてくれたのは、恩田なりの優しさだろうと思っていたが――

「ウミハルはさ、フッキーのことが好き……なんだよね?」

「……ああ」

「だったら、私が訊くべきことは何もないよ。面談で先生に何を言われたとしても、どんな処分が下ったとしても……ウミハルの気持ちはきっと変わらないと思うから」

 そう話す彼女の顔には、どこか寂しげな笑みが張り付いていた。俺は返事をするのも忘れ、黒目がちな瞳が揺れ動くのをじっと見つめる。

 その視線に耐えきれなくなったように、彼女はおもむろに顔を伏せた。

「……ほんとうはね」

 呟かれた声は、なぜだか少し震えていて。

「ほんとうは、ずっと一緒にいたかった。ウミハルとも、フッキーとも、今まで通りの変わらない関係で居続けたかった。そう思うくらいに毎日がすごく楽しくて、卒業したあともこれが続けばいいのにって……そう、思ってたんだ」

 静かな口調に合わせるように、幾筋もの涙が緩やかに頬を伝っていく。

 俺の方は戸惑いを隠せないまま、震える唇が再び開かれようとするのをただ呆然と見つめる。

「でもね……それは私のエゴ。二人が好き合っていることも、傍から見てお似合いのカップルだっていうことも、ずっと前から気付いてた。だからさ……応援するね。二人が遠いところに行っちゃうとしても……黙って、見送ることにするね……っ」

 その言葉を最後に、恩田はまるで子供のように泣きじゃくり始めた。頬を濡らした涙が顎の下で滴となり、それがぽたりぽたりと床面に落下していく。

 どうにか慰めてやりたい。だが、反射的に取り出していたはずのハンカチは、手の中で強く握りしめられたままだった。

 なぜなら――俺にとって涙を拭うべき相手は、たったひとりであることに気づいたから。

「恩田」

 呼びかけに、目元を擦るようにしていた手が止まる。俯いたまま動こうとしない小さな頭を、ギリギリの距離を保ちながら優しく撫でていく。

「ありがとう。それから……ごめん」

 それは、いつかしてやりたいと思っていたこと。子犬のように懐いてくる恩田は可愛らしく、女の子としても十分に魅力的だった。

 でも、彼女の隣を歩くことになるかもしれないという可能性は、ここに置いていく。

「俺、先に帰るよ」

 靴箱の液晶に表示されたメッセージ投函ボタンに触れる。とてつもなく大きな大きな決断をしたはずなのに、心は不思議と静かだった。

 ――二人が遠いところに行っちゃうとしても……黙って、見送ることにするね……っ。

 ありがとう。

 もう一度だけ心の中で呟いてから、雨の降りしきる扉の向こうへと飛び出した。



   ◇



 学校からほど近い位置にある、周囲を住宅に囲まれた小さな公園。

 遊具らしい遊具もないその場所で、俺は佐倉を待っていた。昔ながらの簡素なベンチに座ったまま、滝のように降り続ける雨に全身を打たれている。

 傘を忘れたことに気付いたのは、校舎を飛び出してすぐだった。

 当然ながら戻るなんてことはできず、すぐ傍にあるコンビニもすれ違いになってしまうのが怖くて行けず。結局濡れながらでも待つことを選択したわけだが、体は不思議なほど寒くはなかった。

 佐倉が来てくれることを盲信しているわけではない。ただ単純に、彼女への想いが俺の心身を満たしてくれているのだと思う。

 ――他のことがどうでもよくなるくらいに佐倉のことが好きだって、気付いた。

 そう手紙にしたためたときの気持ちを、切なさで胸が千切れてしまいそうな感覚をもって思い出すことができていたから。

 もう、迷いはない。たとえ周囲に何を言われようとも、俺は佐倉のことを好きで居続ける。

その思いにたどり着いたとき、気付けば雨の向こうに彼女がいた。

「……佐倉」

 自然と声が漏れる。彼女の方もこちらに気づいたらしく、歩み続けていた足がぴたりと止まる。

 それから間もなくして、彼女はゆっくりと駆け出した。

 薄桃色の傘を持った手を振り乱しながら、スカートが翻っていることにも気づかず。その勢いはいつしか全力疾走に近くなり、あっという間に俺との距離を詰めていく。

 対面を果たすまでに時間はかからなかった。彼女は息を乱したまま、手に持った傘を差し出してくる。

「はぁ……はぁ……これ、使ってくださいっ」

 びしょ濡れの俺を心配しているのだろう。その気遣いは素直にうれしかったが、この状態では今さら無駄だというのも本音であり。

 受け取った傘をそのまま佐倉の頭上へかざしてやると、やはりというか、きょとんとした表情が返ってきた。

「あの……藤野くん?」

「俺はいいよ。もうこんなに濡れちゃったし」

「え、でも」

「いいんだって。それより、無事だった佐倉が濡れちゃう方がマズイだろ?」

 そう言って微笑みかける。佐倉は納得いかない様子で、頭上の傘と俺とを交互に見つめていたが――

 おもむろに傘の軸を掴むと、それをこちらに向かって押し返してきた。

「えっ?」

 予想外の行動。スリッピーな地面に足を取られ、転びそうになるのを寸でのところで堪える。

 なんとかバランスを持ち直すと、胸元のすぐ傍に佐倉の顔があった。

「さ、佐倉?」

 警告が出てもおかしくない距離。それなのに、俺の足は棒立ちになったまま動かなくて。

「これなら……ふたりとも、濡れずに済みますから」

 潤んだ瞳が見上げてくる。熱っぽく染まった頬に艶やかな藍色の髪、それにしっとりと濡れた唇が俺の心を捕えて離さない。

 やばいと心の中で何度も呟きながら、迫りくる誘惑に抗いきれずにいたとき――

 一瞬、視界が真っ白になり、続いて凄まじい轟音が耳をつんざいた。

 どうやら近くで雷が鳴ったらしい。だがそれよりも、俺の意識を捕えて離さないものがあった。

「ひにゃあっ!?」

 直後に聞こえていたはずの悲鳴。『はず』というのは、雷鳴に隠れてはっきりとは聞き取れなかったからで。

「あの……佐倉?」

 丸まった背中に問いかける。だが返事はなく、頭のてっぺんに載せられた手が小刻みに震えている。

 そのあまりの怯えっぷりが、何だか無性に可笑しく思えてきて。

「……ぷっ」

 一度吹き出してしまうと、もう堪えることはできなかった。

「……あの、藤野くん?」

「ふふっ」

「ど、どうして笑うんですか!」

「あはははは」

「ちょっと、聞いてます!?」

 凛々しい眉が不満そうに吊り上がる。それでも笑い続ける俺に対し、今度は胸元できゅっとこぶしが握られる。

 見ていて飽きなかった。佐倉のことだったら何時間でも見続けられると本気で思った。

 心臓はうるさいほど鼓動しているのに、心は不思議と静かなままで――

「あのさ、佐倉」

「なんですか」

「好きだよ」

「……っ」

 色白い肌がうっすらと赤く染まる。顔を背けられてしまっても、俺の視線は佐倉から動かないままだった。

 お互いに何も言わず、二人の息遣いだけが傘の内側に流れていく。

 その状態がしばらく続いたころ、先に口を開いたのは佐倉だった。

「藤野くんは、やっぱりずるいです」

「……ずるい?」

「はい。わたしの取り扱いを心得ていて、それを上手く利用しているというか……。そういうところ、ちょっと嫌いです」

 反論しようとして言葉に詰まる。確かに、佐倉の心理を理解したうえで行動したことは多くあったから。

 すると彼女はしてやったり的な表情を浮かべ(どうやら仕返しのつもりだったらしい)、それから「でも」と続けた。

「――笑われたりとか、からかわれたりとか……そういうのも、決してイヤではなかったんです。相手が藤野くんだったから……むしろ嬉しさを感じることもあったというか、その」

「え……」

「あっもちろん、そういうのが好きってわけじゃありませんよ? ただ単純に、三年生になってからの毎日がほんとうに楽しくて。藤野くんと同じクラスになれてよかったって……心の底から、そう思っているんです」

 恥ずかしげな上目遣い。俺は言葉にならない愛おしさを感じながら、その潤んだ瞳を真っ直ぐに見つめる。

「俺も……佐倉と知り合えてよかった。こうして仲良くなることができてよかったって思ってる」

「……はい。ありがとう、ございます……っ」

 その声が静かに濡れ始める。俺は反射的に取り出していたハンカチを、今度こそ渡すべき相手に差し出した。

 だがそれを――佐倉は一瞥しただけで、受け取ろうとはしなかった。

「佐倉……?」

 白い肌に幾筋もの涙が流れる。それなのに彼女は目元を拭わないままに話し出す。

「……ほんとうは、友達のままでいようと思っていました。このまま卒業まで、クラスメートとして楽しく過ごせればいいって。でもやっぱり……気持ちをごまかすことはできなくて。藤野くんに好きって言ってもらえて……わたし……っ」

 嗚咽が言葉を途切れさせる。俺は何と声を掛けていいかわからず、かといってその体を優しく抱きしめるなんてこともできず。

 せめて佐倉が濡れないようにと傘を持ち直していると、彼女は制服の袖で目元を乱暴に拭った。

 そうして赤くなった顔を俯けたまま、雨の降り続ける傘の外側へと飛び出す。

「あ、おいっ」

 佐倉は下を向いたままだった。慌てて駆け寄っていこうとすると、「やめてっ」と鋭い声が飛んでくる。

「……ただ一緒にいたいだけならよかった。でもわたしは……あなたに抱きしめてほしいって、そう思ってしまうんです」

 ふいに、にっこりとした笑顔が浮かぶ。そして――

「今まで、ありがとうございました。そして……さよならっ」

 次の瞬間、佐倉は脱兎のごとくその場を駆け出していた。

 俺は突然の出来事に呆然としたまま、とにかく追いかけなければと遅れて地面を蹴り始める。

 幸い、その背中はすぐに見えてきた。俺はどう彼女を捕まえるべきか悩みながら、とりあえず前方に回り込もうと速度を上げようとする。

 だが――そのときだった。

 再びの雷鳴に意識が向いた直後、周囲は掴み取れそうなほどの暗闇に満ちていた。

「なっ……停電?」

 俺は慌てて周囲を見回す。だが佐倉の姿はどこにも見当たらず、目隠しをされているような感覚に足が止まってしまう。

 耳を澄ませてみるも、絶えることのない雨音のせいで他には何も聞こえなかった。

 せめて、さっきのような悲鳴を上げてくれれば探しようもあるのだが――

 そう思い至ったとき、気付けば声を張り上げていた。

「佐倉っ! どこにいる!」

 三六〇度、方向を変えつつ叫び続ける。

 だが一つとして反応はなく、不安な気持ちが胸のうちに充満していく。

 転んでどこかを痛めてしまったのか、それとももう帰ってしまったのか――

 どちらも嫌な想像だった。それを掻き消そうと必死で叫び続けていたとき、胸元に何かがコツンと触れた。

「え……?」

 視線を下に向ける。そこには、小さな頭を寄りかからせる佐倉の姿があった。

 俺は慌てて体を硬直させるも、なぜか警告音は聞こえてこなくて。

「……馬鹿」

 そう呟きながら、彼女はゆっくりと顔を上げる。そこに浮かべられていたのは、泣き笑いのように歪められた表情だった。

「そんな必死に……わたしの名前、呼ばないでくださいよ……っ」

 胸元に温かな雨が降り始める。佐倉の想いが溶け込んでくるかのような感覚に、俺の両腕は知らず彼女の背中へと回されていた。

 濡れた制服の冷たさを肌で感じながら、それでも華奢な体が折れんばかりに強く、強く抱きしめる。

 言葉は何もいらなかった。お互いを想い合っているということが、肌を通して伝わってきた。

 今はただ、この感触をずっと味わい続けていたい――

「佐倉……好きだ」

「……わたしも、です」

 そうして俺たちはキスをした。ずっと募らせ続けてきた想いを爆発させるかのように。このまま二人がひとつとなって雨に溶け込んでしまうかのように。

 警告音が鳴らない理由も考えず、二人の関係に見通しも立たないまま。

 雨のカーテンが引かれた公園の真ん中で、俺たちはひたすらにその気持ちを確かめ合っていた。



   ◇



 教室の窓越しに外の風景を眺めると、まだ雪がちらついていた。

 アスファルトの路面には白い絨毯が敷き詰められ、その上にはいくつもの足跡が斑に刻まれている。まるで祭りの後のような寂しさを感じるのは、俺が教室に一人きりでいるせいだろうか。

 窓辺を離れ、つい先程まで自分の席だった場所へと移動する。

 椅子に座ってみると、自然とこの一年のことを思い出した。四月のクラス替えに始まり、七月の文化祭と体育祭、そして一〇月のデート実習――

 俺は横向きの姿勢で座り直し、後ろの座席に視線を向けた。

 ――おはようございます、藤野くん。

 その声、その笑顔が、鮮明な記憶として脳裏に思い浮かぶ。

 最初は何とも思っていなかった。少し可愛くて少し臆病な、どうして立候補したのか分からないクラス委員。そういう認識のまま、俺は長いこと彼女に接していたと思う。

 でも、いつからか――。

 ふいに目頭が熱くなる。そんなとき、教室の扉がガラリと開いた。

「よいしょっと……あれ?」

 現れたのはクラスメートの……いや、元クラスメートの恩田佐弥。

 きょとんとした表情を浮かべたまま、手にはどっさりと花束が抱えられている。

「よっ、恩田」

「あ、うん。まだ帰ってなかったんだね」

「ちょっと忘れ物に気づいてな、それを探してた」

「……ふーん、そうなんだ」

 そう返事をしながら、恩田は花束を手近な机の上に置いた。それなりの重さがあったようで、ほっそりとした腰に手を当てる仕草を見せる。

「それ、どうしたんだ?」

「ああこれ? 部のコーハイがお祝いにって、みんな用意してくれてたみたい」

「へえ……人望、あるんだな」

「あはは、そんなことないよぅ。むしろ好き勝手ばかりやって、迷惑かけてたと思うし」

 恩田は少し照れくさそうに笑う。本人がこれだけ無自覚だからこそ、後輩が揃って彼女を慕うのだろうと思う。

 そしてそれは、元クラスメートにとっても同じであり――。

「なぁ、恩田」

「うん?」

「俺、お前と同じクラスになれてよかった。お前がいてくれたから毎日が楽しかったし、その……佐倉に対しても、後悔しない選択ができたんだと思う」

 少しつっかえながらも話すと、恩田は寂しそうに表情を曇らせた。

「フッキーには、会わないの?」

「あぁ」

「……そっか」

 恩田が視線を俯ける。

 決断したのは、あの大雨の日から一週間後の公園。

 木枯らしの吹く寒空の下、俺は悩みぬいた末の結論を佐倉に話した。

 今後はもう、学校でも外でも会わないこと。

 お互いに『運命のひと』を受け入れ、前向きに日々を生きていくこと。

 そして――

 それでも気持ちが変わらなかったときは、残りの人生をかけて一緒にいられる方法を見つけよう、と。

 佐倉は顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら、それでも俺の言ったことを受け入れてくれた。

 だから……たとえ今日が特別な日であったとしても、佐倉に会う訳にはいかない。

「……ほんと、すごいよね」

「え?」

「ううん、なんでもない」

 恩田は小さく首を振ると、ひとつの花束を差し出してきた。

「これあげる」

「なに言ってんだよ、それはお前のために――」

「違うってば。このお花は、私が買ったの」

 恩田はニコリと笑ってみせる。どうやらウソは言っていないらしい。

「卒業の記念ってことで……はいっ」

 何だかイマイチ納得できないが、受け取らないわけにもいかないだろう。

 そう思い、手を伸ばしかけた――そのとき。

「ひとつ、提案があります」

 直前で花束が引っ込められ、俺の両手は空を切った。

「その……ウミハルの第二ボタンと交換ってことで、どう?」

「え」

「い、いやなら別にいいんだけどさっ。なんていうか、私も卒業の記念がほしいなーって」

 色白い頬が赤く染まる。恩田にしては珍しい仕草だが、そのギャップが可愛らしかった。

 どうしようか迷っていると、潤んだ瞳がじっと見上げてくる。

「だめ……かな?」

 一瞬、佐倉の顔が頭に浮かんだ。それでも第二ボタンを引きちぎって差し出すと、恩田は驚いたように目を丸くする。

 それから、手に持った花に負けない笑顔を咲き誇らせて――

「えへへ……ありがとっ」

 佐倉には悪いことをしたかもしれない。

 だが、彼女ならきっと理解してくれるだろう。恩田がいたから今の俺たちがある――そう思っているのは俺だけではないはずだから。


   *


「あー、まだ降ってるね」

 恩田と並んで校舎を出ると、頬に冷たい感触が舞い降りた。

「もうすぐ春だってのに、雪解けは遠そうだな」

「確かに……あーあ、早くグラウンドで練習がしたいのになぁ」

「立派な室内練習場があるんだろ? リーグ戦始まったら観に行くから、それまで頑張れって」

「……うん、絶対だよ?」

 お互いに指切りの仕草をする。そうして再び前を向いたとき、俺の足は止まっていた。

「ウミハル?」

 校門の近く――正確にはその向こう側に、見間違いようのない人物が立っていた。

 恩田もすぐに気づいたらしく、こちらに向かって微笑みかけてくる。

「行きなよ」

 背中をぽんっと押されたような感覚に、俺はそのまま走り出していた。

 すぐにその顔が見えてくる。薄桃色のダッフルコートに白のハイカットスニーカー、その装いはいかにも彼女らしい。藍色の髪を桃色のシュシュで束ねたツインテールも、相変わらずよく似合っていた。

「……佐倉、久しぶり」

 待ち望んだ対面に声が震える。クラスでは毎日欠かさず顔を合わせていたのに、こうして声を掛けるのは本当に久しぶりだった。緊張のせいか頬が強張り、まともに視線を合わせることができない。

 一方で佐倉は、いつもより落ち着いた様子だった。

「……藤野くん、卒業おめでとうございます」

 ぺこりと頭を下げられる。俺はどう反応すればいいか分からず、「あぁ、うん」と照れ臭そうに頭をかくことしかできなかった。

 お互いに沈黙する中、雪だけがしんしんと降り積もっていく。

 緊張でどうにかなりそうだった俺は、「あのさ」と唐突に声を張り上げた。

「こんなところで立ち話もなんだし……どっか、行くか?」

 行く当てがあるわけではない。今はとにかく、この耐えがたい雰囲気から脱出したかった。

 だが願いもむなしく、佐倉は申し訳なさそうに首を振る。

「今日は、ここで」

「……そっか」

「すみません、わたし――」

「気にするなって。佐倉にだって用事があるだろうしさ」

 適当な言葉でお茶を濁す。だが、佐倉はそれをきっぱりと否定すると、驚くほど真っ直ぐな視線を向けてきた。

「藤野くん」

「な、なんだ?」

「わたし……待っていますから」

 佐倉はそう言うと、自らの胸元に手を当てた。


「わたしの心は、ここに置いておきます。あなたが迎えに来てくれるまで」


 同時に向けられる、天使のような微笑み。

 その美しさに――あるいは、彼女の発した言葉の重みに。

 視界に映るものすべてが、あっという間にぼやけていった。

「さく、らっ……」

 夢中で手を伸ばす。それでも彼女に届くことはなく、その目前で虚しく空を切る。

 泣かないと決めたはずだった。辛い想いを佐倉に背負わせる以上、佐倉の前で泣いてはいけないと。

 それなのに――俺はまた、自分に課した約束を守ることができなくて。

「ごめんっ……さくら、ごめん……っ」

「謝らないでください。これは、わたしの意志……なんですから」

「……うんっ……うん……」

 ありがとう。

 君に出会うことができて、君を好きになることができて――本当によかった。

 だから今度こそ、この涙に誓ってみせる。

 

 君を一生、愛し続けるということを。

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