絵心
絵の上手い友達がいた。
彼女は何時も小さな手帳をポケットに忍ばせていて、事あるごとに風景や人を模写して行く。どうと言う事のない景色が彼女のフィルタを通せばたちまち美しさに包まれる。それが不思議で仕方なかった私は、オレンジに染まる帰り道を彼女と二人、ランドセルを並べながら歩いた。
歳ばかりを義務のように積み重ねた今でも、私は同じ道を同じように歩いた。彼女は相変わらず小さな手帳に絵を描いているし、私は私でそれを不思議そうに眺めている。変わった事と言えば、私が物語を書くようになった事とあの頃は大嫌いだったスカートをはくようになった事くらいだ。
彼女はなにも変わっていない。
「早くしないと、雨が降って来そうだ」
五度ほど同じ言葉をかけたが、彼女はしゃがんだまま動こうとしない。手だけは物凄い勢いで動いているのだけれど、返事もしなければ立とうともしない。視線は目の前の猫と例の手帳を世話しなく移動しているらしいかったが、首の動きが少ないので立っていた私にはよく分からなかった。
空を見上げると灰色の雲が頭のてっぺんを撫ぜるくらい沈み込んでいた。そう遠くはない場所では、土砂降りになってるだろう。
雨の境界がカーテンみたい迫って来るイメージが頭を過ぎる。実際に見た光景ではないはずなのに匂いや色が異様に鮮明だった。
絵かきの彼女はまだ猫にくぎったけの様子で、仕方なく私は傘を求めて少し先に見えるコンビニまで歩む事にした。
私が戻った時には、なぜか彼女は泣いていて、それに驚いたらしい猫が茶色いくせっ毛と黄色いリボンをなびかせながら私の前を走り去っていった。
「逃げちゃったの?」
尋ねてみたが、彼女は首を横に振って地面を指差した。地面に開かれた手帳には先程の猫が気持ちよさそうに眠っている。どうやら書き終わったらしい。
「どうしたの?」
一応聞いてあげるが、私にはもう何と無くだが理由が分かっていた。
「君が」
か細い声だ。優しい環境で大切に育った人独特の綺麗な音。
「君がいなくなったのかと思った」
無言で手帳を拾う。もうすぐ最後のページだ。なくなったら新しい手帳を買わないければならない。無意識に二、三ページめくっては、そこに書かれた文字の羅列を眺める。
『彼女は今日も、絵を描くのに夢中だ。不思議に思いながら彼女の無邪気な横顔を眺めていると不意に、愛おしいという感情が増殖していく。常に私の心の片隅にあったそれは、瞬く間に私の感情の全てを掌握した。』
手帳には永遠と彼女の事が書かれている。目を閉じるて呼吸を意識する。
『君がいなくなったのかと思った』だって? いなくなったのは君の方じゃないか。
呼吸を深く長く、沸き上がる感情を逃がしてやるように。
私を置いていったのは君じゃないか。残されたのは私じゃない。
悲しいはずなのに涙は出ない。
長い歳月は悲しみを癒してはくれなかったが、私に涙の止め方を教えてくれた。だけれど、それが余計に悲しい。
そっと、目を開けると、彼女の幻想は消えていた。
まだ手帳を握ったままの手。白い手首巻いたスカーフに滲む乾いた赤は、彼女に見放された証。
全身を悪寒が走った。自分に失望する時の、感情が冷める時の冷気が、瞬時に私を冷却する。
過去に固執する恐ろしさ、愚かさに中傷にも似た笑いが漏れる。
もう忘れよう。どうしょうもないのだから。と何度も思った決意をし、それでも手帳だけは捨てられずにポケットに滑らせる。踵を返し傘を開くと彼女と歩いた道を歩いた。もう隣には誰もいない。




