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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

【BL注意】駄犬とDQN

駄犬とDQN

作者: 水下たる

【ボーイズラブ小説です】

苦手な方はご注意ください

「ケーイチ。ロクローがお前のこと探してたぜ」


 着替えているところを邪魔をされ、ケーイチは迷惑そうに眉を寄せて、ちらと右隣に目を向けた。

 数ミリ単位で整えられた顎ヒゲ、短髪釣り目の男がロッカーに寄りかかり、ニヤニヤと底意地の悪い笑い方をしてこちらを見ていた。

 モリグチさんだ。同じ大学に通う三回生で、大学でもバイト先でもケーイチの二年先輩である。

 赤のシャツに黒のスラックス――バイトの制服姿に着替え終えていても、バックヤードを出ずダラダラ話をするのは、モリグチさんの日常的な行動だ。それしか楽しみが無いのだろう、とケーイチは思っている。

 単に話をするだけなら、まだ相手をしてやってもいいところなのだが、モリグチさんがニヤニヤしながら明るく誰かを呼ぶのは、決まってその人物のことをからかうネタを仕入れたときなのだ。つまり今。まさにその状況にあたる。

 無視に限る。

 ケーイチはモリグチさんを見なかったことにして、シャツのボタンをとめる作業に戻った。


「ちょおい、スルーかよ。見たよね? ケーイチ君、今俺のこと見たよね!?」

「わかりました? 邪魔しないでください、モリグチさん。オレ今着替えてるんす。見たらわかるでしょ」

「って、本当にスルーしてたんか。ケーイチ君、サイテー! 女の子にフラれちゃえばいいのにー」

「うわ、超ウゼェ。女みたいな言い方しないでくださいよ。こないだオレがフラれたの知ってて言ってますね、それ。サイテーなのアンタのほうじゃないすか」

「へっへっへ。俺の耳の早さを舐めるんじゃないよ」

「舐めないっす、気持ち悪いんで」

「気持ち悪くねーわ、むしろ気持ちいいわ! じゃなくて。物理的に舐められたら俺が気持ち悪いわ! じゃなくて。そんな話じゃなくて」

「はいはい」


 ケーイチは適当に相槌を打ちながら、自分に割り当てられたロッカーを閉め、ルームの出入り口付近にある姿見の前で服装をチェックする。

 ピアスと指輪は外してロッカーに仕舞ったし、首から下げている安物のシルバーアクセは制服の中に隠している。

 ライトブラウンの髪はサイドを肩に掛からない程度に伸ばし、顔が見えるように愛用の赤いコームで整えた。

 付け爪やマニキュアはしない主義なので、爪が伸びていなければ準備完了だ。


「ケーイチ、もういい?」

「はいはい。いーっすよ。なんすかぁー」


 華麗なスルーに心を折られたのか、鏡に映ったモリグチさんが捨てられた子犬のような目をしていた。打たれ弱いくせに見逃してくれない先輩に不満を覚えつつ、ケーイチはトップの髪をいじりながら振り返った。


「ロクローの話だよ。ロクローがお前のこと探してたって話よ」

「はあ。なんすかねぇー? それって今日の話すか」

「そそそそそ。俺、今日、講義でロクローと一緒だったんさ」

「あそっか水曜3限の、社会福祉論。オレ取ってねーんすわ」

「そそそ。そん時に聞いたのさ。なんかー、スゲー深刻そーな顔してたんだが」


 モリグチさんは、そう言葉を切って、ケーイチを観察するような目つきでじっと見つめた。


「ロクローとお前、付き合ってるんでしょ」

「はあ?」


 髪の毛をいじっていたケーイチの手がぴたりと止まった。


「あれ、違った? まさかおれの情報が間違ってるなんてことは」

「あったっすね。おめでとうございます、間違いっす。つか、それどこ情報すか? 情報源ボコりたいんすけど。まあ、大体、話の流れから想像はついてますけど」


 こめかみを引きつらせ、ケーイチが右手をゆっくりと握りしめる。パキパキパキッと関節が鳴った。

 モリグチさんの喉奥からヒッと悲鳴が漏れた。


「……ロクロー」

「ども。アイツ一旦シメときますわ」


 ケーイチは乱暴な手つきでタイムカードを打ち、スタッフルームを出た。

 モリグチさんを急かし、横歩きをするようにして倉庫の狭い通路を抜ける。


「ちっす。お疲れさんす」


 レジにいたヨシカワさんと、商品棚の間にいるチャコちゃんに声を掛ける。


「お疲れさまぁ、ケーイチくん、モリグチさん。じゃ、ヨシカワさんだけバトンタッチね」

「おいす。お疲れ様でーす。お先失礼します」


 連絡事項の伝達を行い、ヨシカワさんが上がっていく。


「チャコちゃん、今日長いの?」


 在庫チェックを再開するチャコちゃんの後ろにつき、ケーイチは袋菓子を段ボールから並べていく。


「うん。延長したの。カレシ迎えにくるまで働くんだあ」

「夜アブネーじゃん……って言おうとしたらカレシ宣言をされたでござる。うっぜ、マジリア充うっぜ」


 チャコちゃんはケーイチと同い年で、都内のファッションデザイン専門学校に通っている専門学生だ。

 オレンジのチークを頬に塗り、パールの入ったリップを刷いたぷっくりとした唇をつんと突き出した童顔は、小さな体格と相まってシマリスに似ている。

 冗談めかしながらも僻みの入ったケーイチの台詞に、チャコちゃんはぷうっと頬を膨らませた。


「カノジョと別れたからって、幸せな人に向かってウゼーとか言うんだ?」

「げェ、チャコちゃんも知ってんの? モリグチさん、アンタでしょ。やめてくださいよそゆの広めんの」

「ちょっとした世間話だって。悪気はないさ」

「悪気なくても広まってんのがダメなんだっつーの」


 ケーイチが振り返って睨みつけると、レジ台でモリグチさんが肩をすくめる仕草をした。


「ねー、モリグチさん、モリグチさんもケーイチくんヒドいと思いません? 女の子に向かってウゼーとか言うんですよー。こーんな口悪い人、女の子に嫌われちゃいますよねー」


 チャコちゃんが、ぶたのマスコットのついたピンクのペンでケーイチをツンツンつついてきた。


「イテテ、いてぇ、いてぇってチャコちゃん、それマジでイテェ」

「なんでケーイチくんがモテるのよー! 世の中間違ってる! 顔だけじゃーん!」

「顔がすべてなんじゃね? イケメンでごめんね」

「うわあ、否定しないとこがまたムカつくっ! このっこのっ! 世の中の女の子に嫌われてしまえっ」


 マスコットの背は丸みを帯びていたが、硬い素材だったせいか、地味に攻撃力が高い。ツンツンツンツン絶え間ない攻撃に、しかしケーイチは反撃できない。女の子に手は出さない主義だからだ。男は容赦なく殴るが。


「ケーイチはー、別に女の子に嫌われてもいいんだもんなあー?」

「ちょ、モリグチさんッ」

「え!? それどういうこと!? モリグチさん詳しく!」

「俺も詳しいこと聞いてないんだよー、チャコちゃん。ケーイチに聞いて?」

「ケーイチくん、教えて!」


 チャコちゃんが興奮した様子で詰めよってきた。商品リストを挟んだ板を背に押しつけるようにして、ケーイチをレジに向かって歩かせようとしてくる。


「ね、ね、ね、なになに? チョー面白そう。ケーイチくん、くわしく!」

「はいはい、ケーイチ君、俺も知りたーい」


 チャコちゃんにぐいぐい背中を押され、モリグチさんにニヤニヤ笑われ、ちっとケーイチは舌打ちした。空になっていた段ボールがぐにゃりと手のなかで潰れる。


「モリグチさん、後で一発殴らせて下さいよ」


 モリグチさんを脅すことには成功したものの、女の子の好奇心はそんなことでは消えなかった。

 ぶたのマスコットに頬をつつかれ、ケーイチは深く深く、ため息をついた。





 ――一週間前のことだ。




「おれ、お前のことが好きなんだ」


 ケーイチは、そんなふうに告白された。

 一人称が『おれ』のイタイ女の子に、ではない。

 『男』にだ。

 染色体XY。完全な男。しかも大柄で、立派な筋肉で身体じゅうを覆っているような男に。

 好き。

 その台詞は何気ない口調で、なんの脈絡もなく突然告げられた。

 バイトの休憩中に狭苦しいスタッフルームで言うものだから、ケーイチははじめ、世間話の切り口かなにかかと思った。


「へえ、そっか」


 何気ない切り口にあわせるように、ケーイチはスマホを眺めながら適当に答えた。

 ケーイチはバイトの休憩時間を、5分でメシを食らい、残りの55分を女の子からのメッセージにひたすら返信に充てている。けして男と会話をするためのものではないのだ。


「そっかって。ケーイチ? ねえねえケーイチってば。ケーイチィ? ……なんかねえの? リアクション」


 会話の相手は焦れたらしくケーイチの興味を引こうとしてくる。大きな手が視界の隅にチラチラと映るのが邪魔くさい。


「何、リアクションって」

「え、ケーちゃん、今の話聞いてなかったん!? ヒデェ、適当に返事したんかよ」

「聞いてたけど、リアクション取る要素なかっただろっつってんの。まあ適当に返事はしたけど。それは認めるけど。つか、ケーちゃん言うな」

「やっぱ適当に返事してた!」


 突然立ち上がり野太い声で喚きだした男に、ケーイチはブチッと自分の堪忍袋が切れる音を聞いた。


「うっせえぞ、このカスッ!」

「ギャアッ!?」


 ケーイチは向こう脛を狙って足を蹴りあげた。

 小さなテーブルで向かいあっていた二人の足は、ほぼゼロ距離の位置にあった。回避不能である。ブンッと勢いのついたケーイチのつま先が、男の脛を直撃。椅子とともに大柄な身体が倒れ、盛大な音を立てた。


「アァ? 店に響くだろうが。何叫んでんだよ、カスが」

「カスって。カスって。二回言った! ケーちゃんが蹴ったのが悪いと思いますっ。理不尽だっ!」

「うぜえ。その前の話だ。叫んだろうが、返事がどうのこうの。何なんだっつーの、要点をバシッと言えよ。何言いてーのか知らんが、聞いてやってもいい。クソみたいな要件だったらぶっ飛ばすからそのつもりでな。あとケーちゃん言うんじゃねえ」


 メールをあらかた返し終えたので、仕方なくスマホから顔を上げる。

 バイトの規則にギリギリ引っかからない程度に脱色した金髪の大柄な男が、しゅんと萎びたように肩を落としていた。愛嬌のある大きな鼻がひくひくと動き、見開いた目がくりくりとケーイチの顔を映しこんでいる。

 その様子は、ケーイチが実家で飼っていた、イタズラ好きのゴールデンレトリーバーを思い起こさせた。叱っても叱っても同じ過ちを繰り返す物覚えの悪い駄犬だが、叱った時にはそれなりの反省の顔をするのだ。


「……で、何だよ。ロクロー」


 ケーイチは怯える犬をなだめるときのように、優しい声を意識して、会話の続きを急かした。

 駄犬と化した大柄な男――ロクローは喉にものがつかえたかのように、ぐっと一度喉を鳴らしてから、ゆっくりと立ち上がる。ぎゅっと握った大きな手が、何かに怯えているかのように小刻みに震えていた。

 筋肉に覆われた巨体が立ちあがると、狭い部屋のなかが、より狭く感じた。ケーイチにとって威圧される感じはしない。初対面なら体格の良さだけで威圧感を覚えるのかもしれないが、長い付き合いのケーイチには通用しない。ただ邪魔だなと思うだけだ。


「おれ、ケーイチが好きなんだ」

「ふうん」


 どうでもいいことを考えていたケーイチは、だから何だ、と再度の告白をもスルーした。


「えーっと、スキ、オレガ、オマエヲ、……エット、付き合いたいって意味で」

「は?」


 ロクローはたどたどしく言葉を追加してくる。が、ケーイチにはそれでも意味が分からなかった。

 脳が理解を拒否し、ロクローの言葉を閉めだしているようだった。音声として聞こえはするが、意味を伝達するまえに、そのまま通りすぎていってしまう。


「お前、こないだミカちゃんと別れて、フリーだろ。ダカラ、イッカナート、オモッテ、言ってみた」

「ちょ、ちょ、ちょい待て。な、なんだそれ。ツッコミどころいっぱいあんぞテメェ」

「ん? ごめん。どこ。何が分かんねぇ?」


 首を傾げて聞いてくるロクローの表情を見、ケーイチは一瞬言葉に詰まった。くりっとした目が嘘じゃないと言っている。

 ケーイチにも、段々と理解が追いついてきた。追いついたが、意味を飲み込みたくない内容だった。

 誰が、誰のことを好きか。

 分かったが、分かりたくない。


「何でちょいちょいカタコトだよ!」

「そこ? 一番ツッコミたかったとこ、そこ? そこじゃなくね?」

「や」

「ねえ」


 ロクローに詰めよられ、ケーイチは諦めたように嘆息した。


「……あー、今のは悪かった。茶化したわ、完全に」

「うん。おれがどんなにバカでも今のは分かるよ」

「ちげぇ、お前バカだしなーとか、誤魔化せないかなーって思ったとか、そんなんじゃねーんだ。あー、うん。ちょいビビった。今のはチキンだった」


 やっと動揺に視線を彷徨わせたケーイチに、ロクローはへにゃっと顔のパーツを潰したように笑った。


「オレ、オマエガ、スキ」

「とりあえずそれはやめろ」

「あははは」

「お前がボケはじめてどーすんだよ」

「ちょっと面白かった。我ながら。緊張しすぎた。あははは。ケーちゃん相手なのに、何やってんだろね。あはは」


 ロクローは心底おかしそうな顔をして、自分の手のひらを見つめる仕草をする。

 何気ないふうを装って、手の震えを隠そうとしているのがケーイチにも分かった。


 ロクローとケーイチは友人だ――友人『だった』。

 高校時代、ケーイチとロクローは同じバスケ部に所属していた。気のあった仲間何人かのグループで、高校周辺のファーストフードやファミレスなんかで、毎日夜遅くまでダラダラとどうでもいい話をしていたものだ。

 バスケ部仲間で同じ大学に進学したのはロクローだけだった。

 大学に進学してからも、バイトと通学する場所が変わった程度で、ダラダラと高校時代の延長で、特に用もないくせにつるんでいた。


 それが日常『だった』。

 そんな、ずっと続くだろうと思っていた日常の一部が崩れようとしている。いや、今まさに崩れている。

 崩したのは他でもないロクローだ。


 コンコンコンコン、ケーイチは指でテーブルを叩く。苛立ちが押さえきれなかった。

 基本放置で済む、気楽な付き合いだった。それがケーイチの男友達との付き合い方だ。

 そんな『男友達』のひとりを、突然、交際するかしないかという枠組みにあてはめられなければならなくなって、ケーイチは混乱した。『男』と交際する可能性があることすらケーイチの常識内には存在し得なかったからだ。

 突き付けられた命題は、ケーイチの脳には処理しきれない。

 苛立ちが募っていき、テーブルを叩くスピードが早くなる。


「あー、ロクロー?」

「んあ」

「ハッキリ言っていい?」

「いーよー」

「オレ、ホモじゃねーから、無理だわ」

「おっけー」


 やけに軽い調子で答えが返ってきて、拍子ぬけしたケーイチは、指を止め、顔を上げた。

 ロクローが三日月形に口角を上げて笑っていた。


「おれもホモじゃないから一緒だね! おれは男が好きなんじゃなくて、オマエガ、スキ、ナノ」

「一緒だね、じゃねー! 全然違うわッ! で、カタコトやめろっ」

「あははは」


 苛立ちでテーブルを叩いたケーイチの手の上に、そっとロクローの手のひらが重ねられる。

 体格差があるのと、ケーイチが椅子に座ったままでいるせいで、顔を近付けるには――ロクローが身体をほんのすこし乗りだすだけでよかった。


「好きだよ、ケーイチ。お前でボッキするくらい」

「……あ、むっ!?」


 かさついた薄い唇がケーイチのそれに触れるように重なり、すぐに離れて行く。


「わかった?」


 包み込むように握られたケーイチの手を、太く骨ばった指が撫でさすった。

 ケーイチの頭からさっと血の気が引いた。ぞわぞわと内臓から吐き気が襲って来る。

 それらの生理的な反応とは違い、ケーイチの脳は、抵抗すればいいのか、抗議をすればいいのか、正しい判断を下すことが出来ない。正しさの基準さえ分からない。

 この嫌悪感は、どこから来る嫌悪感なのだろうとケーイチは思った。

 自分の常識の範囲外のものが世の中には溢れかえっていることを、ケーイチは既に知っている。

 知ってはいても、それを即ち嫌悪感だけで、自分から切り離してしまうことがいいことなのかどうかはよくわからなかった。

 ケーイチはすぐにその手を振り払うことも出来た。そうすれば自分の常識にないものを切り離せる。この場合、ケーイチから切り離されるのは、ロクローという存在だ――。

 ケーイチはしばらく撫でられる自分の手首をぼんやりとただ見つめていた。

 どうするべきなのか、自分がどうしたいのか、その時のケーイチにはどうしても選ぶことができなかった。


「ケーちゃん」


 再びロクローのドアップが急に視界に映り、ケーイチはびくりとおののいた。

 思わず握られていないほうの手を握りしめ、目の前の顔にストレートで叩きこむ。


「死ねッ!!」

「ギャッ!? な、なんだよぉ、休憩時間終わりだよーって言いたかっただけなのに!」

「このクソ犬ッ、テメーは今後一週間オレに近付くんじゃねえ、ていうか死ね。死ぬがよい」

「え!? ば、バイト中も?」

「そこかよ。バイト中もだよ。死んでこい」

「仕事できな――」

「できるだろ。死ねよ」


 経ちあがったケーイチは、おまけのように、ロクローの太ももに回し蹴りをキめ、その日ずっと不機嫌なままで仕事をしたのだった。

 ロクローがどうしていたかはケーイチの記憶にはない。








「……で。その後、口きーてねー」


 接客で途切れながらも、モリグチさんとチャコちゃんにロクロー告白事件を話し終えたケーイチは、ため息をついて首の後ろを掻く。

 ロクローがモリグチさんに勝手に嘘を教えたことが発端とはいえ、この場にいない相手の性的嗜好を喋るのは居心地が悪かった。

 自分の無実を証明するために、ありもしない証拠をでっちあげているかのような気分だった。事実を喋っているにも関わらずだ。


「ボッキするくらい好きって、えっと……何て言ったらいいのかなあ。何か、すごいね。チョーアイサレテマスネー」

「チャコちゃん。棒読みじゃねーか。他人事だと思ってさぁ、適当すぎね? ただの感想じゃん」

「やだー、ケーイチくんったら、だって他人事じゃなーい。ねえ、モリグチさん」

「うんうん、ロクローとケーイチだから面白いってことさ」

「ゲェー、ひでーよ。オレだって他人事でいたかったっつーの。もちょっと自分に置き換えて考えてみねぇ?」


 ケーイチの言葉に、レジ台を拭きながら、チャコちゃんは首を傾げる仕草をする。

 体格に似合わない豊かな胸が、腕に挟まれる形になって強調された。モリグチさんは視線を彷徨わせたが、ケーイチは戸惑うこともなくチャコちゃんを見下ろした。

 チャコちゃんは小柄で胸も大きく、女の子の魅力に溢れている。女の子が可愛いのは当然で、それはたった一人のカレシの為に輝く努力をしているからだ。

 ケーイチは女の子に優しくしようとしているが、たった一人のカノジョに対してなにか特別な努力をしたかというと、そんな記憶はなかった。

 『好き』『付き合う』ということに関して、ちゃんと考えたことがあったかどうか。それすら、今となっては分からない。


「アタシだったらー。ヤダなー、そんなこと言う男、カレシにしたくなーい」

「だよねー。チャコちゃん分かってるう。ボッキだぜボッキ。マジねーよ。下ネタサイテーって感じー?」

「でもアタシは女の子だしなー。ケーイチくん男の子じゃない。ケーイチくんが……プッ、カレシ作る基準とかアタシ知らないしぃ」

「くっ、んなもんねーわ! 考えたこともねーわ」


 ニヤニヤと意地悪く笑うチャコちゃんに、ケーイチはがくりと首を折った。当事者でないときのコイバナなんて、世間話程度のものなのだ。

 なぜか答えを期待していた自分に、ケーイチは情けなくなった。


「で、ケーイチはこれからどーすんのさ」

「は、どうするってなんすか? 付き合わねーっすよ」

「ややややや。それは分かってっけど。ホモじゃねーのは分かった。ロクローの趣味がチャライケメンだってことも分かった」

「チャライケメンって、オレのことっすか」

「合ってると思うよ」

「え、そんな、チャコちゃんまで。……そんなチャラいかオレ」

「イケメンは否定しないのよねー」

「だってイケメンだから、オレ。チャラくはないけど」

「ややや。チャラいだろどー見ても」

「えー、そっかな」


 ケーイチは自分を指さして心外そうな顔をした。チャコちゃんもモリグチさんも顔を歪めてため息をついた。


「じゃなくて。チャラいかチャラくないかじゃなくて。オレがいーてーのはさ、ケーイチが今後ロクローにどう接してく気なのかってことよ」


 モリグチさんの言葉に、ケーイチは腕を組んで考え込んだ。それは、ケーイチにも答えを出せていないところだった。


「そんなん、フツーに……今まで通りに」

「ややや。それは無理だろ」

「な、なんで」

「ロクローはお前のことが好きなんだよ? それこそボッキするくらい。高校時代からの親友かなんか知らんけどさ、今まで通りとか無理でしょ。つかお前が平気なの? 性的な目で見られてるっての知ってんのに、フツーにできんの? ロクローに告白されたんだよお前。さっきの話じゃ、ちゃんと返事もしてねーみてーだし。そこちゃんとしなきゃいけねーとこなんじゃねーの? 自称・女にモテるケーイチとしてはさ」


 現実をつきつけられた気がして、ケーイチは言葉を失った。


「自称じゃねーっすけどね、事実ですけどね」

「はは。それ以外のことには言い返せないでやんの」


 ケーイチは図星をさされ、ぐっと唇をかみ、顔を下に背けた。

 モリグチさんは表情を和らげて気軽にケーイチの肩を叩く。


「ケーイチくんとロクローくんって、高校時代からだっけ?」

「ん。バスケ部で、気ぃ合って、一番仲良いダチだった。バカさも同じくらいだったし、大学の選択肢被んのトーゼンって感じで、バイトも同じとこ選んで……」

「そっか。じゃあ、親友だね?」


 視線を合わせようともしないケーイチに、チャコちゃんは静かに語りかけて来る。


「親友から告白されてさ、ケーイチくんはきっと混乱してるんだよね。親友だったのに、親友じゃなくなっちゃったんだもん」

「……ん」

「でもね、ケーイチくん。キミはロクローくんをフったつもりでいたんだよね。その気持ちには答えられませんってことだね。ちゃんと返事はしてないけど。ね?」

「うん」


 子どもに言い聞かせるような優しい口調で、順序立てて分かりやすいように説明されて、ケーイチは素直に頷いた。


「男の子から告白されたの初めてなのはわかってるし――アタシもそゆの詳しいわけじゃないから、ちょい違うかもしれないけど、アタシの考え聞いてくれる? ちゃんと聞いててね」


 相手が理解しているとみて、チャコちゃんはすっとケーイチの手を取った。小さくて柔らかい手のひらだった。ロクローの大きくて硬いそれとはつくりからして違う。

 男女の違いをまざまざと感じる。


「ケーイチくんは、告白してきた子をフったことがあるよね。それも、何回も」

「……うん」

「そうやってフった子と今までどーやって接してきたのかな」

「フった子とって、……気まずくてメールの頻度下げて、会わないように共通の知り合いとかにも根回しして、自然消滅はかったけど……あ」

「わかったあ?」


 ケーイチは弾かれたように顔を上げ、チャコちゃんを見た。


「オレ、今、自然消滅しかかってんのか。あの駄犬と」

「そうだよ。絶交中なんでしょー? 今。ふふふ」


 チャコちゃんは抑えきれない笑みをこぼし、ケーイチを眩しそうに見た。


「ケーイチくんはどーする?」

「ちょい早いけど休憩もらいます」


 話の行方を見守っていたモリグチさんと、まるでエスパーみたいに話をうまくまとめたチャコちゃん。ケーイチは二人に頭を下げてバックヤードに戻った。

 二人には感謝だ。ケーイチが自分のから答えを見つけ出す手伝いをしてくれた。

 ケーイチは、他人から与えられた答えでは動かない自信がある。自分で見つけた答えだからこそ、こうして行動に移したのだ。


「オレの休憩時間はアイツのためにあるんじゃねーっつーの」


 自分の名札の入ったロッカーを開け、ケーイチはi-phoneを取りだした。

 赤いシリコン製のカバーがかかっている。

 ロクローが去年の誕生日に合わせてプレゼントしてきたものだ。割れたプラスチックカバーをいつまでも使っていたから。

 赤色はケーイチの特に好きな色だ。鮮やかでシンプルな、混じりっ気のない赤がいい。

 前のカバーは少し紫がかっていて、赤というよりも紅に似ていた。ロクローのプレゼントしてきたものは、ケーイチが認めるほど『ちゃんと』赤だ。

 ケーイチのために、どこから見つけてきたのか。

 どんな顔をして、どんな気持ちで贈ったのか。


 いつからだったのだろう、とケーイチは思った。

 いつから『ケーイチのことが好き』などという珍妙な事態に陥っていたのだろうか。思い当たる節がまったくない。

 ロクローとの付き合いは四年ほどで、それほど長い訳でもない。が、四六時中一緒にいたのだから、長期単身赴任中の父よりは一緒にいた時間は長かったかもしれない。

 この四年間、ロクローの気持ちを考えたことがあったかどうか、ケーイチは覚えがない。

 ロクローはケーイチにとって、そばにいて当然のものだったのだ。


 ケーイチは、通話記録に残る唯一の男の名前を呼びだして通話ボタンを押す。


『……ケーイチィ』


 コール音が3つほどで途切れた後、ケーイチの耳に届いたのは情けない声だった。震えていて力がない。


「何泣きそうな声してんだ。ヘーキか、今」

『ぐず……ヘーキ。ケーイチは? 今バイトじゃないの』

「こっちから掛けてんだっつーの。ヘーキに決まってんだろ、ボケ。休憩中だわ」

『ひぃん、ごめんなざい』

「お前、モリグチさんに何喋ってんだァ? しかも嘘。あの人に情報渡したら広がる速度ハンパねーの知ってんだろ、あァ?」

『うひっ、ご、ごめん! だって、だって、ケーイチがむ、無視するしっ、おれの電話に出てくれないしっ、メールもッ』

「メールは男のはそもそも見ねーよ。お前、オレのダチなら知っとけよな」


 電話口でひゅっと息を飲み込む音がして、しばらく沈黙が流れた。ケーイチは辛抱強く待つ。

 ざわついた人ごみの雑音が、ケーイチの耳にも届いてきた。

 発車ベルが鳴り響いて、重量感のある金属製の車輪がゴトリと動き、車体を揺り動かして遠ざかっていく。

 ロクローがいるのは駅のホームだ。どこだ。新宿か、渋谷か。


『ダッ……ダチ』

「おう」

『ダチ、なの』


 湿っぽく濁音を交えた震える声で、ロクローはそう言った。

 ピコンとICカードがエラーを起こし、ガコンと改札機が閉じられた機械式の音がする。

 慌てたような相手の声で、ロクロー自身が改札機に閉めだされたのだろうとわかる。

 何焦ってんだこの駄犬、とケーイチは思った。


「ダチだろ。嫌なら死ねよ」

『……し、しなないっ、生きるっ』

「芸人のネタぱくんな死ね」

『ぱ、パクってないっ、そう思ったんだ、だから。おれ、おれ、ごめん、あの、こないだ、ごめん』

「そっちは謝ることじゃねーけど。謝るなら嘘喋ったことだろ」

『モウシワケナイ』

「カタコトうぜー。……あ、オレも謝っておかねーと。お前の男シュミがチャライケメンだって、バイトのメンツに流れる予定なんで、よろしく」

『ふえ?』


 謝るといいつつ、尊大な物言いのケーイチに、ロクローは空気の抜けるような声を出した。

 ロクローの背後の雑音がいきなり途切れ、代わりに小さく水音が聞こえて来る。トイレに入ったのだろう。


「モリグチさんとチャコちゃんに一部始終話した」

『っちゅ、チューしたのも?』

「チューって……小学生かよ。ま、そーだな。お前のサイテーなボッキ云々の告白も全部な」

『あ。やべ。チューつったケーちゃんの声かわいくてボッキした』

「変態かよ……。ケーちゃん言うな死ね。それとボッキを持ちネタにすんな。オレに報告も要らん。ダチでボッキした報告するダチ、いる? いねーよ?」

『ごめんなさい、申し訳ありませんでした』

「分かればいんだよ」


 気づけば、すっかりいつもの調子で言い合いをしている。

 ダチってことにしときゃ、こんなもんなんじゃん、とケーイチは思った。

 ロクロー自身がどう思っているかは知らないが、ケーイチ自身の違和感はまったくもってない。


「ロクロー? おい、どした? ロック! ……ウソつけよ。トイレで電波障害とかあるわけねーだろ」


 ケーイチは突然切断された通話画面を見て、ちっと舌うちする。

 掛け直すかどうするか迷ったが、ケーイチ自身の言いたいことは既に言い終わっていたから、いつも通り女の子からのメールを開くことに決める。ロクローだけに時間を使っていられないのだ。


 5通ほどに返した後、バックヤードに通じる裏口が開き、大きなものが跳ねる音と、ガチャンッと金属製のものが倒れる音と、バラバラバラッとなにかがバラ撒かれた音が響いてきた。

 嫌な予感がして、ケーイチはスタッフルームのドアに隠れるように、顔だけを廊下に出した。


「き、来ちゃった」

「……だあ、面倒くせえなお前は」


 先ほどまでケーイチが電話を掛けていた相手が、狭い廊下でその巨体を縮めている。

 廊下を走ってくる際に、荷物棚にぶつかったのだろう。キッチンタオルの入った段ボールとパイプイス数脚を片付けている。

 当たって欲しくない嫌な予感が的中して、ケーイチはこめかみを押さえ深くため息をついた。

 その様子を見たロクローは、あわてて立ちあがる。ぴんと背を伸ばし、気をつけの姿勢を取ってから、バッと直角に身体を折り曲げ頭を下げてくる。


「ケーちゃん、だ、ダチなのに、す、好きになって、ごめんなさい」

「あー、そうなんのね。めんどくせーことになったな」


 ケーイチは口をとがらせ、狭い廊下に出てロクローの前に立つ。


「おれ、おれ、がんばる、がんばるから、これからも、ダチ、で」

「ナニ頑張んのか考えたくもねーんだけど」

「好きだけど、好きじゃない、かんじで。ケーちゃんに迷惑かけたくないし……」

「うざっ。なんだよ悪くねーよ。ケーちゃん言うな。なー、お前がオレのことスキになったのはさー、オレが男にとってもチョー魅力的だったから……ってことでよくね? それで手を打とーぜ。も、いーよ。考えるのめんどくせーからさー。オレ飽きた、考えんの、ムリムリ、性に合ってないから」


 ずっと頭を下げ続けるロクローを見ていられず、ケーイチは視線を外し、がしがしと頭を掻いた。


「オレが魅力的なんだってことにしたら、いーじゃん。お前が悪いわけじゃねーもんな。スキんなるのって、アタマでじゃねーじゃん? ビビッとくるっつーかさ」


 頭を掻いたその手で、ケーイチは、ロクローのデカい手を取った。


「例えばこう、触って分かったり。話して分かったり。ピンとくるもんがあるかないか。……それこそ、ボッキ前提なのかもしれねー。オレは理解できねーけど。まあ、お前はそーなんだろうよ。認めるわ、それは。そゆのもあるわ」


 潰れたマメやら、ささくれやらでカサカサしたゴツい手は、やっぱりどう考えても男の手で、日に焼けて黒いし、腕毛が生えてて汚いしで、ケーイチの好きな、すらっとした色白美人のそれとはまるで正反対なのだった。


「お前は女の子と違うだろ。で、フツーのダチとも違うだろ。オレにボッキすんだから。おい。聞いてっか。……お前がどんだけアホでも、オレの言ってることくらい、分かんだろ?」

「……うん」


 ロクローの手はケーイチにされるがままで、この前のように握りこんだり触ったりはしてこなかった。

 ケーイチの手は女の子の柔らかい肌を傷つけないようにそれなりに気をつかってきたから、ささくれもマメもないし、体毛も薄い。

 どちらかと言えば女と比べられるべきはケーイチのほうなのかもしれなかった。

 ロクローの前では、ケーイチはただひょろ長くて貧弱な男だ。女の柔らかさはないにしても。ロクローの腕に包まれるには充分なほどの、圧倒的な体格差。


「お前、アレだろ、ボッキするってことは、ヤりたいってことだろ?」

「あう」


 ケーイチの直接的な質問に、ロクローはぎょっとしたように視線を彷徨わせた。

 外からやってきたくせに、ロクローの手はケーイチよりもずいぶんと温かい。発熱してるのかもしれない。


「そのボッキしたムスコを挿れてーんだろつってんの」

「……う、うん」

「ぜってーヤダ。ダメー、ムリー。ウゼー、キメー、マジ無理でーす」

「ご、ごめ」

「最後まで聞け」


 怯えたようにびくっと肩を震わせて、逃げようとするロクローの手を、ケーイチは思いっきり握りこんだ。

 ロクローは力任せに振り払うこともせず、ケーイチに捕まえられたままうなだれた。

 その気になれば、ロクローはケーイチを無力化することなど簡単にできるだろう。

 だが。ロクローはケーイチに勝てない。二人の関係は、ケーイチのほうが精神的に上位にあった。

 言葉だけではない。戦闘もだ。ケーイチの金的蹴りと鳩尾蹴りと頭突きの恐ろしさをロクローは知っている。体格差からなせる力技と、暴力行為は実際戦ってみないと分からないが、ロクローの性格上わざわざ痛めつけられにくるとは思えない。


「っつーわけで、オレお前フりてーんだけど。つーかフった気でいたんだけど。で、ダチでどーよって思った訳よ」

「フ、フった、って」

「だってオレホモじゃねーし」

「ううう。ご、ごめんなさい。き、気持ち悪い思いさせて、ごめんなさい」

「そんなこと言ってんじゃねーよ、謝んなカス」


 怯えるロクローの顔を睨みつけ、ケーイチはそこらへんに転がっていたパイプイスをガスッと蹴りあげる。


「お前、すぐ謝ってウゼーから、ダチじゃねーことにするわ」

「えええ!? や、やだっ」

「お? 何、ダチじゃねーの、嫌なん、お前」

「お、おれ、付き合うとか、もう、いいよ。これからも、す、好きって言っちゃうと思うけど、謝らないし。ダチでいいし」

「スキって言うのかあ。それもウゼーな」

「えええっ。そんなあ。ケーイチィ……」


 ケーイチの機嫌を取ろうとしてくるロクローに、ケーイチは満足気にニヤリと口の端を上げる。掴んでいた手をぱっと離し、ロクローの鼻先に人差し指をつきつける。

 ロクローは目を白黒させて、弱々しく眉尻を下げた。


「これからおまえ、一生オレの犬でいろよ。そしたら傍にいてもいい」


 身長差で勝っているはずの相手から、上から目線の宣告をされたロクローは、目を瞬かせた。ケーイチの言葉を理解できないと、ケーイチにとってフラれた女の子と同じくらいの価値しかなくなるのだ。いくら駄犬でも頭を必死に働かせてることだろう。

 勝ったな、とケーイチは思った。体格差だけで勝ちを譲るわけにはいかないのだ。


「わ、……わんっ」

「ははは、犬になった。アホだ。いいな、撫でてやろう。来い、ロック」

「わんっ」


 ロクローは嬉しそうに、手を広げたケーイチにじゃれつくように突進した。

 ロクローのタックルはそれなりの衝撃があったが、ケーイチはグラつくこともなく、ロクローの髪をわしゃわしゃと撫でた。


「よしよし。かわいいな。でけぇなー、筋肉暑苦しいなー、ウゼーなー、息くせぇー、早く離れてくれねーかなー」


 ケーイチの指が金に染め上げたロクローの髪の毛から、首や顎といった皮膚の薄い部分に移動してきた。

 くすぐるように指先で転がしたり、指の腹で撫であげたりする。ケーイチが実家の犬にやっていた仕草と同じだ。

 ロクローはがばっとケーイチを抱きしめて、ケーイチの脇汗のニオイや首周りの煙草のニオイなんかを嗅ぐように鼻先を押しつけてきた。

 実家の大型犬と同じくらいだなー、とケーイチはのん気に思った。すっかり犬の飼い主の気分だ。がふがふと鼻息が当たるところなんかそっくりである。


「うはっ……く、やめ、ロック……ッ」


 首やら脇腹やら、くすぐったくて息も絶え絶えにもがいたが、ロクローはやめる気配がない。

 いい加減に重いしウザいし蹴るか、とケーイチが思ったときだった。


「ん、あっ!」


 べろーん、と耳の裏から首筋まで、生温かくやわらかいざらついたものが這った。

 ケーイチはビクッと小さく身体を震わせ、瞬間、舐められたところを隠すように手で覆う。


「……あ゛? 今ナニしたテメェ」


 睨みつけると、ロクローはケーイチから距離をとってハンズアップした。あまりに首筋の感触が衝撃的すぎて、蹴るのを忘れたのに気づき、ケーイチはチッと舌うちをする。


「い、犬の愛情表現だよ」

「舐めるのがか」

「そーだよ! ケーちゃ……ご主人様が可愛いんだもん、舐めたくもなります!」

「テメッ、オレが趣味でご主人様プレイしてるみてーだろがッ!?」

「違うの?」

「違うわッ!! 死ね、クソ犬」


 諸手を上げて無実を訴える駄犬にケーイチは回し蹴りを放った。

 狭い通路で逃れる場所もなかったが、ケーイチの蹴りが当たる可能性も低いのだった。

 ケーイチの蹴りあげたものは、再び被害にあったキッチンタオルの入った段ボール箱であり、衝撃によって無残に凹んで、数メートル先でビニールのパッケージが床に散らばった。


「可愛いはスルーなんですね、わかります」


 ひょいっと、キッチンタオルのパッケージのひとつを拾い上げたのは、廊下の騒ぎを聞きつけてやってきたチャコちゃんとモリグチさんだった。レジから続く扉のところで、呆れたような顔をしている。

 ここがバイト先のコンビニで、今は休憩時間でしかないということをすっかり忘れていたのだ。

 ロクローは慌て散乱した備品を集めだす。

 ケーイチは目線を外して首のところを掻いた。変な感触がまだ残っているのだ。ロクローの作業の手伝いをする気はさらさらない。実行犯は自分だが、元凶はロクローだからだ。


「なんでオマエいんの、ロクロー? お前非番だろ。邪魔すんなら帰れって。ででで、ケーイチ。店内まで変態プレイ聞こえてきてっからさ。やんなら家に帰ってやれ。な。ホントに。頼むからさ」

「は? 何すかそれ」


 モリグチさんはロクローにちらっと目を向けた。ケーイチもつられてロクローを見る。

 大きな身体をちいさくしてせっせと働くその姿は、ご主人様に褒められたくてボールを拾う大型犬そのものに見えた。


「……いや、だって、なあ? 犬プレイだろ? ご主人様?」

「ご主人様、仲直りできてよかったねえ! アタシのお陰だよねー」

「そそそ。俺たちのお陰で仲直りして、プレイが出来るくらいになったわけでさ、感謝してくれてもいいんだよ。ご主人様」

「だぁ、うっぜ、うっぜえ! プレイじゃねーからっ! それ拾うのなしでしょ。ねえ。マジやめて、許して。ごめんなさい。マジ謝る」


 ケーイチは顔を引きつらせた。これが、休憩中に騒いで仕事場の備品を傷つけてた罰なのだろうか。


「結局どうなったの? 知りたいな、ご主人様。教えて!」

「そそそ、それそれ、それ大事よ、ご主人様」

「えっ、その呼び名固定? ってか、どーなったって、どうにもなりようないでしょ。今まで通りすよ」

「面白くねーなー、ご主人様。せっかく相談のった訳だから、進展してくれないと。ご主人様」

「そうだよ、ご主人様」

「うっわあ、それマジで今後のアダ名それになるんじゃないでしょうね? やめてくださいよ、モリグチさん」


 だが、呼び名は既に定着しつつある。モリグチさんに聞かれてしまったのが運の尽きだ。半永久的なアダ名が決定した瞬間である。


「つか、オレとアイツの仲は今後一生進まないすよ」

「ええっ!?」


 ケーイチの言葉に過剰に反応したのはロクロー一人だった。

 片付け途中だったパイプイスを取り落とし、慌てて走り寄ってくる。


「な、なんで!? おれケーイチの飼い犬になるんだよ、一緒に住もうってことじゃないの!? イチャイチャラブラブ、おーるおっけー(はあと)な感じじゃないの!?」

「はァ? 何その超ポジティブな捉え方。ポジティブにも程があるんだけど」

「だってそう聞こえたしっ」

「ねーわ。マジねーわ。顔近付けんな、きめえ」

「ひぃん」


 パーツ全部がデカい顔が近付いてきて、ケーイチは先ほどの悪夢を思い出した。右手でロクローの頬を押しのける。


「だ、だって、ケーちゃん、一生傍にいていいって言ったぁ……!」

「えーっ、そーなの。一生なんだ」

「そんなこと言ったの? ケーイチ。なんて残酷なんだお前は。それでも男か」


 ロクローが涙目になりながら訴えると、チャコちゃんとモリグチさんが非難の目でケーイチを見た。


「ん? 何とでも言っていいっすよ。一生飼い殺しっす」


 にっこり、笑顔でケーイチが爽やかに言い放つ。


「それキッパリフられてオサラバした方が幸せじゃねーか、ロクロー……」

「ううっ、ケーちゃんに会えないのもやだー!」

「ケーちゃん言うな、死ね」


 まとわりついてくるロクローを、ケーイチは迷惑そうな顔で睨みつけたが、本気で押しのけようとはしなかった。その姿はじゃれついてくる犬を自由に遊ばせている飼い主そのものである。


「あ、これはこれで幸せなのか」

「うーん、ロクローくんがいいならいんじゃないかなー?」

「なんだかなぁ」

「でも絆されそーだけどね、ケーイチくん」

「動物好きだもんなー、あいつ」


 チャコちゃんとモリグチさんは、じゃれつく男二人を生温かい目で見、店内に戻っていった。

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