プロローグ:小栗栖の雨、慈眼の黎明
天正十年(1582年)六月十三日。
叩きつけるような豪雨が、山城国小栗栖の竹林を濡らしていた。
山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた明智十兵衛光秀は、数騎の家臣とともに闇夜を敗走していた。
ぬかるむ土を踏みしめる馬の足音が、激しい雨音にかき消される。
「……ここまで、か」
光秀は濡れた前髪の隙間から、天を仰いだ。本能寺で主君・織田信長を討ったあの日から、わずか十一日の天下。己が望んだ「泰平の世」は、この血生臭い泥の中で潰えようとしていた。
その時、竹林の闇を裂いて一本の竹槍が突き出された。
無念の最期を遂げようとする落ち武者を狙う、百姓たちの「落ち武者狩り」であった。
鋭い痛みが光秀の脇腹を貫く。どっと溢れ出る鮮血が、漆黒の陣羽織をさらに深く染め上げた。
「殿ッ!」
近臣の溝尾茂朝が叫び、槍を突き出した百姓を斬り伏せる。
しかし、光秀の命の灯火は今にも消えかけようとしていた。
光秀は泥の中に崩れ落ち、茂朝の手を強く握った。
「茂朝……我が首を、ここに埋めよ。光秀は、ここで死んだ。……皆に、そう伝えよ……」
「殿、何を仰いますか! まだ明智の命脈は――」
「国を……、日ノ本をこれ以上、戦火の泥沼に沈めてはならぬ。武士としての明智光秀は、今ここで果てる。だが、我が魂は……」
光秀の意識は、そこで深い闇へと沈んでいった。――それから三十数年の時が流れた。
慶長二十年(1615年)、大坂夏の陣。
豊臣家は滅亡し、戦国と呼ばれた時代が完全に幕を閉じた。駿府城の一室で、天下人・徳川家康は一人の老僧と対峙していた。
その僧の名は、南光坊天海。
家康の側近として、幕府の呪術的・政治的基盤を支える「黒衣の宰相」である。
家康は白髪の混じった髭を撫でながら、静かに微笑んだ。
「天海よ。ついに、織田も、豊臣も逝った。これからは徳川が、お主と約束した『戦なき世』を創り上げてゆく」天海は深く一礼した。その深い皺に刻まれた顔の中で、瞳だけが全盛期の武将のような鋭い光を放っていた。
「まことに……長き旅路にございました、大御所様。あの日、小栗栖の泥の中で一度死んだ私が、僧籍に身を隠し、今日という日を拝めるとは」
天海は静かに懐から、一枚の古びた数珠を取り出した。
それはかつて、明智十兵衛光秀が肌身離さず持っていたものであった。
「光秀としての復讐は、秀吉が死に、豊臣が滅びたことで終わりました。これからは天海として、この国に永遠の平穏を呪術と法で縛り付けましょうぞ」
かつて日ノ本を震撼させた謀反人は、徳川の世のグランドデザイナーとして生まれ変わっていた。
これは、歴史の表舞台から消し去られた男が、影から天下を操り、泰平を築くまでの「二度目の生」の物語である。




