「紙切れ女」と笑われたので、王太子の婚約破棄届を私が受理いたしました
「クラリス、お前のような紙切れ女に、王太子妃が務まるはずがないだろう」
王宮の薔薇園で、婚約者であるオーレリアン王太子は、私の前を素通りし、ヴィオレッタ侯爵令嬢の腰へ手を回しながら、嘲笑った。
「書類整理の腕しか取り柄のない、その薄い顔をした女が、私の隣に立つなど――想像するだけで気が滅入る」
私――クラリス・フォレ子爵令嬢、22歳。
王宮書記官庁・第二記録部に所属する、最年少の正規書記官である。
両手に抱えていたのは、本日午後の3省合同会議のために整えた、議事録の写しと、関係省庁の決裁台帳。
それらの紙の束を、王太子はあえて「紙切れ」と呼んだ。
「こちらヴィオレッタ嬢こそ、私の妃に相応しい。明日の朝には、貴族院に婚約破棄の届け出を提出する。お前は……自分の身の振り方くらい、自分で考えるがいい」
ヴィオレッタ嬢が、勝ち誇った笑みで私を見下ろした。
お腹のあたりで、宝石をあしらった扇が、ゆっくり開かれる。
私は、深く息を吸って、礼の姿勢を取った。
「承知いたしました、殿下。それでは明朝の手続きにつきましては、書記官庁にて、お待ちしております」
オーレリアン殿下は、私の言葉の意味に気づかなかった。
ヴィオレッタ嬢も、私が「書記官庁にて」と告げた重みを、想像することすらしなかった。
風が吹いて、私の腕の中の議事録が、微かに音を立てた。
***
王宮書記官庁、第二記録部・夜間執務室。
第二の鐘が鳴り終える頃まで、私はペンを走らせ続けていた。
机の上には、本日王太子が口頭で宣言した婚約破棄に関する、正式な書類一式。
婚約破棄届。
受理通知書。
家門間財産精算覚書。
貴族院通達文。
――そのすべてに、書記官庁の正式書式と、私自身の署名の準備が整っている。
書記官の仕事とは、貴族たちが「言葉」で済ませようとする出来事を、「書類」として残すことだ。
たとえ王太子の口約束であっても、書記官庁を通らなければ、貴族院の正式な記録には残らない。
そして――書記官の手を経た書類こそが、王国の歴史となる。
4年前、私は18歳で書記官庁の見習いとなった。
2年前、史上最年少の20歳で正規書記官に登用され、同時に「王太子妃選定議事録」の専属担当を拝命した。
王太子と接触するすべての妃候補者の発言、そして殿下ご自身のすべての発言を、一語一句正確に記録し、貴族院の判断材料として残す職務。
その任を担う者は、王宮内でただ1人――私だった。
「クラリス嬢」
執務室の扉が開いて、長身の青年が入ってきた。
アンリ・ド・モンフォール伯爵令息。
書記官庁長官モンフォール公爵閣下の甥で、5年前から閣下のもとで文官修養を積んでいる、分家筋の若き貴族子弟である。
「夜分にすみません。叔父である閣下からの伝言です。明朝の件、こちらをお使いください」
差し出されたのは、モンフォール公爵家の蝋封がついた、1通の証明書だった。
『王宮書記官クラリス・フォレ嬢は、過去5年間、王太子妃選定議事録の整備を担当し、その記録の正確性は王宮内随一である。当公爵家は、彼女の書記官としての職歴が、いかなる婚姻関係にも左右されず継続されることを、書記官庁長官の名において保証する』
公爵閣下の正式な署名と、書記官庁の印璽。
私は、息を呑んだ。
「閣下が……いつの間に、これを」
「5年前からです」
アンリ様は、静かに告げた。
「私が叔父のもとで文官修養を始めたのが、5年前。叔父は『議事録の研究は、王宮文官の基礎修養である』と仰り、私に書記官庁の議事録閲覧の許可を与えてくださいました」
灰色の瞳が、机上の蝋封を見つめた。
「以来、私は毎朝、書記官庁に通い、あなたの書く議事録を読んでまいりました。句読点の打ち方、行の揃え方、注釈の入れ方――どれもが、王宮内の他の誰より、正確で、丁寧でした」
「私の、議事録を……」
「殿下があなたを『紙切れ女』とお呼びになるのを、回廊で耳にしてしまった日――私は、叔父にお願いしました。彼女が王宮を去る決断をなさった日に備えて、彼女の身分を守る書状を、整えてくださいと」
アンリ様の灰色の瞳が、ペンの軌道を確かめるように、まっすぐ私を見た。
「あなたが、書記官庁にお留まりくださるなら――いえ、隣国へ赴かれるなら、私も同行いたします。叔父を介して、すでに先方の宮廷に話は通してございます」
私は、机の上の婚約破棄届を、そっと持ち上げた。
紙の縁が、指先に触れて、わずかに震えた。
「アンリ様」
「はい」
「殿下は、私が『自分の身の振り方くらい自分で考えろ』と仰いました。私、たった今、考え終わりました」
アンリ様が、ゆっくりと頷いた。
「では、明朝の受付には、私もお伺いいたします。書記官庁の担当者として、ではなく――公爵家の証人として」
***
翌朝、第二の鐘が王宮中庭に響き渡る頃。
王宮書記官庁、正面受付。
オーレリアン殿下とヴィオレッタ嬢は、付添の侍従を連れて、堂々と書記官庁の扉を開けた。
「婚約破棄届を提出する。本日中に貴族院へ通達せよ」
「承りました、殿下」
私は、受付の机に座り、両手を膝の上に揃えていた。
殿下は、私の姿を見て、わずかに眉をひそめた。
「お前……まだ、ここにいたのか」
「はい、殿下。書記官庁の慣例によりまして、婚約破棄手続きは両当事者の管轄書記官が立ち会う形で、執り行うことになっております。本日、殿下側の管轄書記官・ベルニエ書記官は、午前中の財務評議会に拘束されておりますため――当事者側の管轄書記官である私が、単独で受理いたします」
「……お前が、受理するのか」
「書記官庁規定第7条第3項に基づき、瑕疵なく」
私は、机の上に既に整えてあった書類一式を、手元に引き寄せた。
「婚約破棄届。確かに、本日付で受理いたします」
書記官庁の朱印を、書類の右上に押す。
ぱしん、と乾いた音が、受付に響いた。
「同時に、家門間財産精算覚書につきましては――フォレ子爵家からの返納物は、過去3年間に殿下より下賜された装飾品5点、計12万ギル相当。本日午後までに王宮宝物庫へ返却いたします」
私の声は、自分でも驚くほど淡々としていた。
「また、王太子妃選定議事録の写しは、書記官庁所蔵の正本1冊を貴族院に送付し、副本の管理権は本日付で私の手を離れます旨、ご通達申し上げます」
「待て」
殿下の声が、わずかに震えた。
「議事録の写しを……お前が、管理していただと?」
「殿下。書記官庁の規定により、王太子妃選定議事録は、専属書記官の責任管理下に置かれます。過去5年間の選定議事録――殿下と歴代妃候補者間の、すべての発言記録は、私が編纂・保管しておりました」
ヴィオレッタ嬢の顔から、笑みが消えた。
歴代妃候補者。
それは、ヴィオレッタ嬢を含む、過去5年間に殿下と接触したすべての女性を意味する。
「貴族院は、殿下の婚約破棄の正当性を審査するに当たり、当該議事録を必ず参照いたします。その際、議事録の正本に記された殿下ご自身の発言の数々が、どのように評価されますか――それは、貴族院のご判断となります」
私は、最後の書類――書記官庁長官モンフォール公爵閣下の証明書――を、机の中央に置いた。
蝋封が、朝の光に、鈍く輝いた。
「殿下。本日、私は王宮書記官庁を辞職し、隣国オーリアール王国の宮廷書記官として、転任いたします。モンフォール公爵閣下のご紹介によるものでございます」
「な――」
「殿下が私を『紙切れ女』とお呼びになった日々を、私は議事録に、正確に記録いたしました。その紙切れの一枚一枚が、本日、殿下の前にございます」
私は立ち上がり、最後の一礼をした。
「殿下。お幸せに」
受付の奥から、アンリ様が静かに歩み出て、私の背後に立った。
殿下は、私たち2人を交互に見て、口を開きかけて――そして、閉じた。
ヴィオレッタ嬢の扇が、かたん、と床に落ちた。
***
書記官庁の裏門で、馬車が待っていた。
アンリ様が、馬車の扉を開けて、手を差し出してくださった。
「ご決断、ありがとうございます」
「アンリ様」
「はい」
「あなたは、私の議事録のどこを、最初に好きになってくださったのですか」
アンリ様は、少し考えてから、笑った。
「5年前の春、私が初めて閲覧を許された日のことです。あなたはまだ見習い書記官として、先輩書記官の脇で副本の整理を任されておられた。先輩が書き留めた王太子殿下の発言の末尾に、あなたは『(声、低し)』と、たった5文字の注釈を書き添えていた」
「あれは……先輩の議事録への、私の補注で……」
「あの一行を読んだとき、思いました。『この方は、人の声まで紙に残せる方だ』と」
アンリ様が、私の手を取ってくださった。
「以来、あなたが見習いから正規書記官へ昇格し、選定議事録の専属となるまでの5年間。私は毎朝、あなたの書く一行一行を、読み続けてまいりました」
馬車の中で、私はペンを取り出した。
旅の最初の議事録に、私はこう記した。
『朝7時の鐘、王宮書記官庁を辞す。同伴者1名、姓名アンリ・ド・モンフォール伯爵令息(声、温かし)』
紙切れと呼ばれた女は、紙の上で、自分の名前を、ようやく記すことができた。
***
数か月後。
王太子オーレリアン殿下の婚約解消は、貴族院での選定議事録参照の結果、殿下側の不誠実な発言が複数確認されたとして、貴族院から「妃選定における判断不適格」の通達が下された。
ヴィオレッタ侯爵令嬢との再婚約は、貴族院により凍結されたという。
その頃、私は隣国オーリアール王国の宮廷で、新たな議事録の最初の頁を開いていた。
机の隣では、アンリ様が、私のペンを静かに削っていた。
『(声、優し)』
私は、新しい注釈を、紙の余白に、そっと書き添えた。
これが、私の――紙切れと呼ばれた書記官の、本当の物語の、始まりだった。
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