第一話 海と風
海の匂いがする。
波のさざめきが聞こえる。
砂浜に、二人の子供が座っている。
「本当に分からないの?」
赤毛の子供は頷く。
「おうちも?」
頷く。
「家族も?」
頷く。
「…自分の名前も?」
頷く。
「えー、変なの!」
白髪の子供は目を大きく見開いた。
「名前も苗字も無いなら、なんて呼べばいいのかな……」
白髪の子供は腕を組んでウンウンと唸った。
「……そうだ!ぼくが名前つけてあげる」
「そうだなぁ…赤い髪の毛で、ぼくが見つけた時、浜に打ち上げられてたでしょ?だからえぇっと……―――【ワユマ・ベカモナ】!」
今度は赤毛の子供が目を丸くした。
「ふふん、ぼくね、最近魚人語を勉強してるの。『ワユ マ ベカ モナ』は魚人語で海の赤毛の子って意味。すごいでしょ?」
白髪の子供は誇らしげに鼻を鳴らした。
────そして、片手を差し出した。
日焼けをしていない真っ白な手。魚人なのに、指に水かきはなかった。
「君は今日からワユマ・ベカモナだよ。よろしくね!ワユマ」
風が吹く。
草木が揺れる。
絹のように柔らかい白髪がなびく。
―――ろ。―――きろ。
風に乗って、陸の方から声が聞こえた。赤毛の子供は、声につられて視線を外してしまった。
ふと、背後から波の音が聞こえた。何かがするりと抜け落ちた気がした。
確かに握ったはずなのに、戻した視線の先には、自分の掌だけがあった。
「起きろ!!!この寝坊助!!!!!!!!」
「ふがッッッ!?!?!?」
急な強風に煽られ、体が宙に浮いてベッドに叩きつけられる。
「い、イルィフ?おはよー…?」
「はいおはよう、そして久しぶり」
ジンジンと痛む額を押さえてワユマが顔を上げると、そこには艶やかな黒髪を横に流した小人種の男――【イルィフ・ミサクァラ】が、眉間に皺を寄せてワユマを見下ろしていた。
「で、ワユマ。今日が何の日か覚えてるか?」
「……あ」
ヘルヴェータ王国北端、魚人居住区トゥルバ。誰もが漁に出ているのか、街中は閑散としている。ワユマたちの足音だけが通りに響いた。
「こっち来るたびに私言ったよな?今日は出発式だから10時に王宮のお前の部屋集合って!今何時か言ってみろ!」
「えと、えと、10時!」
「10時半過ぎだ馬鹿!仮にも18歳、大人なんだから予定の管理くらいしっかりやれ!」
「ごめんって~!」
息切れと叱責でワユマは涙目になった。荷袋と相棒の三叉槍だけを担いで、坂を駆け上がるイルィフの背中を必死について行く。
「おっちゃん!待たせてすまん、全速力で頼む!」
「なんだか大変そうですねぇ神血者さん」
「まったくな。世話の焼ける弟を持ったもんさ!」
しかし、これだけ怒っていても結局は「すぐに用意できないものは後で買ってやる」と言うのだから、ワユマにとってイルィフという男は、初めて出会った時から優しい兄のままである。
「ワユマ、もうちょい詰められるか?」
「これ以上は無理!」
「はは、すまんね魚人さん。今日は小人向けの客車しか空いてなかったもんで、我慢しとくれ。じゃ、出発しますよ」
御者が手綱をクイッと引くと、繋がれた二頭の犬がのっそり起き上がり、頭をブルルンと回した。
「大きいね~この犬!」
「ヘルヴェータオオイヌはどの子も大きいが、中でもでかい方だな。私より背高いんじゃないか?」
「こやつらには良いもの食わせてるのでね。自慢の二頭ですよ。そら!」
御者の声に合わせて景色がゆっくりと動き出した。
次第に犬車は速度を上げ、後輪が土煙を上げる。火照った身体を冷えた風が吹き抜けて行った。
「前回の会議のおさらいな。お前は初めて私の仕事に着いてくるわけだが、今回はちょっと異例だ。国の外に出る。何をしに行くか覚えてるか?」
「え~っと、他の国とのユーコウ…ボーエキ関係のコーチク……みたいなこと王様が言ってたよね」
ワュマは数か月前の会議で説明された内容を、覚えている分だけ暗唱した。
「だいたい正解。『我が国と仲良くしませんか?』って内容の手紙をいくつかの国に渡しに行くんだ」
「でもなんで僕たちなの?そういうのって役人たちの仕事じゃない?」
「もちろん外交は大臣たちの仕事さ。今回の私たちの仕事はきっかけを作ること。
ヘルヴェータでは私たち神血者は王の所有物で権威の象徴――王がこの国の王である証拠って扱いなんだ。私がよく領主達と顔を合わせてるのはレクェロ王が『貴方を信頼していますよ、敵意はありませんよ』ってアピールするため。で、今回もその延長。
王の誠意を分かりやすく示せる、マトモな国なら拒否しても神血者に危害を加えるなんて罰当たりなことはしない、たとえ襲われても神血がある私達の方が強い…ってことで最初の一歩としては一番損が少ないんだ」
神血者――偶発的に生まれる世界秩序の特異点、自然を自在に操る者、神に愛された者。
様々な言葉で言い表されるが、ワユマは物心ついた時からその力が当たり前であり、その力を持っているイルィフに育てられた。
ワユマが少し念じれば海はその通りに形を変え、イルィフが指を振るえば強風が木々を揺らす。2人にとっての当たり前を、誰もが風の神血者だ、海の神血者だ、と騒ぎ立てた。
―――みんなできる訳じゃないのは知ってるけど……そんなに凄いものなのかなぁ。
ワユマはつまらなさそうに、創り出した海水を空中でクルクルと回し、イルィフに射出する。
海水はイルィフの眼前で霧散し、外に流されていった。
「ふ~ん…でもさ、お仕事の話って前に王様と会った時ので全部じゃなかった?今日の出発式って要るの?」
「そこなんだよ。前回の謁見で話は済んでるから、いつも通り荷物貰ってすぐ出発でいいんだが……レクェロ王のことだ。また突拍子もないこと言い出すだろうな」
風に飛ばされたイルィフのため息を追うように、ワユマは外の景色を眺めた。山道に入ったことでトゥルバの海はもう見えなくなっていた。
国の外に出るのはこれが初めてかな?イルィフは住んでたことあるみたいだけど、前に言ってたウマってどんな動物なんだろう?
国の外にはどんな町があるのかな?
ふかふかの布団で寝れたらいいな。
国の外にはどんなご飯があるのかな?
美味しかったらいいな。
国の外にはどんな人がいるのかな?
……君がいたらいいな。
まだ見ぬ世界に想いを馳せていると、心地よい風がワユマの頭を撫で、眠気を誘ってきた。
疲れた身体は睡魔に抗えず、瞼を閉じて壁に身を預ける。
小人向けに作られた客車は、その重さにギシリと悲鳴を上げた。




