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くりの森のパン屋さん

 木かげ町の北のはずれには、栗の木がたくさん生えている小さな森がある。

 秋になると、風が吹くたびに、ぽとん、ぽとんと栗の実が落ちてくる。

 森じゅうがほんのり甘い香りに包まれ、地面はまるで金色のじゅうたんを敷いたようになる。

 そんな森の入り口に、一軒のパン屋さんがあった。

 小さな煙突から白い湯気のような煙がのぼり、木の扉の上には「くりの木ベーカリー」と書かれた看板がゆらゆら揺れている。

 パン屋のおばあさんがひとりで営んでいて、焼きたてのパンの香りは、森を抜けて町の通りまで届くほどだ。

 特に人気なのが、秋限定の“くりぱん”。

 ほくほくの栗あんを包んだ、やさしい味のパンで、子どもからお年寄りまでみんなが大好きだった。

 でも、その“くりぱん”には、ひとつだけ、不思議なうわさがあった。

「焼きあがるたびに、ひとつだけ消えるパンがあるんだって」

 そんな話を、さやは学校の帰り道で聞いたのだ。

 風に揺れるランドセルのひもを直しながら、友だちのしおりが言った。

「食べた人はね、なくした思い出を一口だけ思い出せるんだって」

「ほんとに?」

「うん。お母さんが小さいころからある話なんだって。秋になると、必ず“くりの森”で起きるって」

 さやは目を丸くした。

 記憶を思い出すパン。まるで夢みたいだ。

 けれど、その話を聞いた日の夕方、さやが町の広場でひとりのおじいさんと出会ったことで、その物語が現実のように動き始めた。


     ◇


 おじいさんは、木かげ神社の前のベンチに座っていた。

 白い髪に、深いしわ。

 手のひらの上で小さな木の笛を見つめながら、静かにため息をついていた。

「どうしたの?」

 さやが声をかけると、おじいさんは顔を上げて、少し照れくさそうに笑った。

「いやあ、ちょっとな。昔、妻と森で拾った笛なんじゃが……どうして拾ったのか、そのときのことをどうしても思い出せんのじゃ」

「思い出せない?」

「あぁ。最近は記憶が抜け落ちることが増えてのう。この笛だけが手元に残っとるが、吹こうにも、なんの曲だったのかさえ分からん」

 おじいさんの目は、どこか遠くを見ていた。

 その横顔が、少しだけ寂しそうに見えて、さやの胸の奥がきゅっとした。

「……ねぇ、“くりぱん”って知ってる?」

「くりぱん? あの森のパン屋のか?」

「うん。なくした思い出を思い出せるパンなんだって。だから、もしかしたら……」

 さやが言い終えるより早く、おじいさんの目が少しだけ輝いた。

「……そんなパンがあるなら、ぜひ食べてみたいのう」

 さやはうなずいた。

「じゃあ、わたし、探してくるね」

 そう言って、さやはくりの森へと走りだした。


     ◇


 森の中はしっとりと静かで、落ち葉の絨毯がふかふかしていた。

 遠くでパンの焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。

 小鳥の声、木の実の落ちる音。どれも秋の音だ。

 パン屋の小さな扉を開けると、ベルがちりんと鳴った。

「いらっしゃい」

 カウンターの奥から、白いエプロン姿のおばあさんが顔を出した。

 笑うと、目じりに深いしわが寄る。

「お嬢ちゃんが買いにきたのはくりぱんですか?」

「はい。あの……“消えるくりぱん”っていうの、ありますか?」

 おばあさんは手を止めた。

 少し驚いたように、そしてどこか懐かしむように目を細めた。

「……あなた、どうしてそのパンのことを?」

「町のおじいさんがね、思い出を探してるの。だから、そのパンを食べさせてあげたいの」

 おばあさんは静かにうなずいた。

「そう。あのパンはね、作ろうとして作れるものじゃないのよ」

 おばあさんはオーブンの前に立ち、そっと栗あんをこねながら話し始めた。

「“消えるくりぱん”はね、だれかが強く“思い出したい”と願ったときにだけ、焼き上がるの。でも、それは一つだけ。焼けたとたんに姿を消して、その人のところへ届くのよ」

 さやは目を丸くした。

「じゃあ、わたしが“おじいさんに届けたい”って思ったら……」

「ええ。もしかしたら、焼けるかもしれないね」

 おばあさんはにっこり笑って、オーブンの扉を閉めた。


     ◇


 パンの焼ける香りが、店の中いっぱいに広がる。

 栗の甘みと小麦の香ばしさがまじって、やさしい空気が流れた。

 さやは心の中で祈るようにつぶやいた。

(おじいさんの大切な思い出、ちゃんと届きますように)

 オーブンの奥から、パンの丸い影がひとつ、ふくらみはじめる。

 その表面が黄金色に変わった瞬間、ふわりと、光がひとつ消えた。

 おばあさんは静かに目を閉じた。

「……できたみたいね」

 トレーには十一個のパンが残っていた。

 けれど、本来焼いたのは十二個。ひとつだけ、どこにもなかった。

 その代わり、窓の外の風がやさしく揺れていた。

 まるで、パンの香りが森を抜けて、どこかへ運ばれていくように。


     ◇


 その頃、町のベンチでは。

 おじいさんが、うとうとしながら笛を握っていた。

 ふと、何か甘い香りが鼻をくすぐった。

 目を開けると、手の上に、あたたかい“くりぱん”がひとつ、のっていた。

 おじいさんは驚きながらも、そっとちぎって一口かじった。

 栗のやさしい甘さが舌に広がった瞬間、胸の奥から、何かがふっとよみがえった。


 夕暮れの森。

 若いころの自分と、笑う妻の姿。

 ふたりで拾った笛を手に、栗の木の下で話していた。

「これからも、毎年いっしょに秋を吹こうね」

「ええ、あなた」

 その声と笑顔が、鮮やかに戻ってきた。


 おじいさんの目から、静かに涙がこぼれた。

 そして笛を唇に当てると、指が自然に動いた。

 優しい音色が木かげ神社の境内に流れる。

 まるで秋の風が、いっしょに歌っているようだった。


     ◇


 夜、さやが森のパン屋を訪ねると、おばあさんが扉の前で待っていた。

「パン、届いたみたいね」

「うん……おじいさん、笛を吹いてた。すっごくうれしそうに」

「それはよかったわ」

 おばあさんはにっこり笑って、ひとつの包みをさやに渡した。

「これはね、あなたの分。ちゃんと焼き上がった“普通のくりぱん”」

 包みを開けると、ふわふわの丸いパンが入っていた。

 湯気が立ちのぼって、栗の香りが広がる。

 さやがひと口かじると、胸の奥がじんわりと温かくなった。

 去年の秋、友だちと笑いながら落ち葉を集めた日を思い出す。

 あの日の空気、風、笑い声。ぜんぶ、甘い香りといっしょに蘇るようだった。

「思い出ってね、消えるようで、どこかにちゃんと残ってるのよ」

 おばあさんの声は、焼きたてのパンみたいに柔らかかった。

「誰かが覚えているかぎり、その人の時間は、ずっと続いていくの」

 さやはパンを抱えながら、静かにうなずいた。

 外の空には、金色の月。

 栗の木々が風にゆれ、森じゅうが甘い香りで満たされていた。


     ◇


 その夜、木かげ町の空に笛の音が響いた。

 やさしい旋律が、風にのって町を包む。

 その音を聞きながら、さやは胸の奥で小さくつぶやいた。

(おじいさん、思い出せてよかったね)

 そして、パン屋の煙突からは、ゆっくりと白い煙が立ちのぼっていった。

 それはまるで、森の夢が空へと帰っていくようだった。

 木かげ町の秋は、まだもう少し、やさしい香りの中にある。

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