ほたる坂のひみつ
夏の夜。
木かげ町の東のはずれには、小さな坂道がある。
田んぼと川のあいだをぬうように続くその道は、町の人たちから「ほたる坂」と呼ばれていた。
毎年、梅雨が明けるころになると、そこにはたくさんのほたるが舞う。
坂の下の小川に映る光が、まるで星空が地面に降りてきたみたいにゆらめくのだ。
その夜、さやは母親と一緒に夜の散歩に出かけていた。
「ほたる、見えるかな?」
「きっとたくさんいるよ」
母の手を握りながら歩く道は、夜の匂いで満ちていた。
濡れた草、土、そしてどこか甘い風。
ひぐらしの声が遠くで鳴り、道の脇では蛙がぴょんと跳ねる。
やがて、ほたる坂の入り口に着くと、川面がふわりと光りはじめた。
小さな光が、いくつも、いくつも、闇の中で揺れている。
ゆらゆらと漂うたびに、光は溶けたり生まれたりして、空気そのものが息をしているみたいだった。
「わぁ……」
さやの目が大きく開いた。
光の粒たちが、まるで話しかけるように彼女のまわりをくるくると飛び回る。
その中のひとつが、ふいにふらりと落ちた。
「あっ!」
小さなほたるが、草の上にぽとりと落ちていた。
でも、よく見ると、その子だけ光っていない。
背中の灯りが消えて、羽も重たそうにしている。
さやは母に言った。
「お母さん、この子、光が消えちゃってる」
「どうしたのかしらね……さや、落ちた子を木のそばに置いてあげましょう」
けれど、さやはしゃがみこんだまま動かなかった。
ほたるは、かすかに羽を震わせて、何かを伝えようとしているように見えた。
「……どうしたの?」
その瞬間、ほたるが光のかけらのような声でつぶやいた。
『光はね、心の奥に戻る道しるべなんだよ』
さやは目をまるくした。
「しゃ、しゃべった……!」
でも、声はすぐに消えて、夜風に溶けていった。
母が不思議そうに見ているあいだに、さやはそっと両手でほたるを包み込んだ。
「大丈夫。いっしょに探そう。光の道しるべを」
◇
母と別れてから、さやはひとり、ほたる坂の奥へと歩いていった。
月の光が木の葉のすき間からこぼれて、足もとにまだらな影をつくっている。
あたりはしんとしていて、聞こえるのは小川のせせらぎと、遠くで鳴く虫の声だけ。
ほたるは、さやの手のひらで小さく震えていた。
『ぼく……迷っちゃったんだ。光が消えたら、帰り道がわからなくなっちゃって』
「帰り道って、どこへ?」
『川の上にある“ひかりの木”だよ。夜になると、みんなそこに集まって歌うんだ。ぼくも、そこに帰りたい』
さやはうなずいた。
「うん。じゃあ、いっしょに行こう」
彼女はそっと坂を下りていった。
ぬれた草の匂いが濃くなる。足もとで小さな蛙が跳ねるたび、水の輪が広がった。
手のひらの中で、ほたるがかすかに光を取り戻しかけているように見えた。
『ねぇ、さや。光ってね、怖くなると消えるんだよ』
「こわくなると?」
『うん。ぼくね、風に流されちゃって、ひとりぼっちになって……みんなの声も聞こえなくなって、真っ暗で……そのとき、心の中のあかりまで消えちゃったの』
さやは小さくうなずいた。
「だいじょうぶ。光はきっと戻るよ。だって、今、少し見えてるもん」
『ほんと?』
「うん。だってね、光って、心のなかにあるんだよ」
ふと、頭の上の枝のすき間から、一筋の風が通り抜けた。
風が草をなで、木々を揺らす。
その音がまるで歌のようにやさしく響いた。
◇
坂を下りきると、目の前に小さな川が広がっていた。
川面には、数えきれないほどのほたるの光が浮かんでいる。
それぞれの光が波に合わせて揺れ、まるで星空が地上に降りてきたみたい。
「ここだね……きっと“ひかりの木”は」
川の向こう岸に、一本の大きな柳が立っていた。
枝の先には、ほたるたちが集まって小さな光の花を咲かせている。
それは、まるで夜空の花束だった。
『あそこだ……! でも、ぼく、まだ光れない……』
「ううん、大丈夫。あなたの光は、きっともうそこにある」
さやは両手を胸の前にかざした。
そっと息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。
その息が、まるで小さな風のようにほたるを包んだ。
『……あたたかい……』
ほたるの背中が、かすかに輝きはじめた。
最初は豆粒みたいに小さな光だったけれど、だんだんと大きくなっていく。
やがて、ほたるの羽がひときわ強く光り、手のひらの中がやさしい金色に染まった。
「できた……!」
ほたるがふわりと舞い上がる。
光のしずくが宙に散って、川の流れの上でまたたいた。
『ありがとう、さや。君が“光の道”を見せてくれたんだね』
「わたしじゃないよ。あなたが、自分で思い出したの」
ほたるは嬉しそうにくるくると回った。
そして、川の向こうの“ひかりの木”へ向かって飛び立っていった。
仲間たちの中に溶けていくと、その木全体がいっそう明るく光った。
その光が川面に映り、さやの頬を照らす。
彼女は目を細めて、その輝きを胸に焼きつけた。
◇
家に帰るころには、空にうっすらと月が出ていた。
ほたる坂の上から見下ろすと、川のほとりがまだやさしく光っている。
まるで誰かが、灯を消さずに待っていてくれるみたいに。
「ねぇ、お母さん。光って、心の奥にあるんだって」
「そうね。だからきっと、どんな暗い夜にも、ひとつは残ってるのよ」
母が笑いながらそう言った。
さやも笑ってうなずいた。
ふと、手のひらを見つめると、そこに小さな金色の粉が一粒、光っていた。
「……ありがとう、ほたる」
その夜、さやの夢の中には、光る川と“ひかりの木”があった。
葉の間で笑うたくさんのほたるたち。
その中に、小さく輝くあの子の姿も、ちゃんとあった。
光は、夜の闇をこわがる心の中に、そっと帰っていく。
それが、ほたる坂の、ひみつ。




