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夕立のバケツ

 その日の木かげ町は、朝からむしむしと暑かった。

 アスファルトの上は、まるでお鍋のふたみたいに熱をためこんで、空気までゆらゆらして見える。

 蝉の声もどこかぐったりして、木陰の中で息をひそめていた。

「……あついねぇ」

 さやは、帽子を押さえながら小学校の帰り道を歩いていた。

 ランドセルの中で水筒がカタカタと鳴る。

 雲ひとつない空を見上げると、遠くの山の向こうに、ぽつんと白いかたまりが浮かんでいた。

「……あれ? もしかして……」

 その形は、どこかで見覚えがあった。

 大きくて、ふわふわで、少しだけ不器用そうな雲。

「あの時の……!」

 さやは思わず声を上げた。

 あの日、夕暮れの空でお友だちの雲と一緒に笑っていたあの雲だ。

 今はひとりで、ゆっくりと木かげ町の方へ流れてきていた。


     ◇


 夕方。

 太陽が少し傾いて、空の色が金色に変わりはじめたころ。

 さやが庭のすみでどんぐりを拾っていると、どこからかごろごろと小さな音がした。

 空を見上げると、雲ががすぐ頭の上に来ていた。

「わあ……近い!」

 雲は、まるでさやを見つけたように、ふわりと形を変えて、にこっと笑ったように見えた。

 そして、ごそごそと動きはじめる。

 その手に、銀色のバケツのようなものを持っている。

『ふんっ……よいしょっ……!』

「雲さん、何してるの?」

『雨を降らせようと思ってさ。苦労して集めてきたんだ。ちょっとくらい冷やしてあげないと、木かげ町がとけちゃうでしょ!』

「なるほど……でも、どれくらい降らせるの?」

『うーん、ちょっとだけ……かな。ほんのバケツ一杯ぶん!』

 さやは少し不安になった。

 なにせ、雲の持っていたバケツはちょっとではなくかなり大きかった。

「雲さん、それ、どんなバケツ?」

『えっとねぇ、雲の国でいちばん大きいやつ! “雨だまり特製バケツ300号”!』

「……それ、ぜったい降りすぎるよ!」

 けれど、もう遅かった。

 雲は勢いよくバケツをひっくり返した。

 ざあああああああああああっ!!

 一瞬で空が白くかすみ、雨がまるで滝のように降りそそいだ。

 木かげ町の通りを走る子どもたちが「わーっ!」と叫びながら屋根の下に逃げ込む。

 洗濯物はびしょぬれ、川はあふれ、カエルたちは大喜びでぴょんぴょん跳ねていた。

「雲さんっ! ちょっと! やりすぎーっ!!」

『ええっ!? そんなに!? あれぇ……止まらないよぉ!』

 雲は必死に自分の体を絞るようにして雨を止めようとした。

 でも、ふわふわの中から次から次へと水滴がこぼれてしまう。

 さやは、びしょぬれになりながら両手を口の前に当て、大声で叫んだ。

「雲さんっ! 深呼吸してーっ! ゆっくり、ゆっくり息をはいてーっ!」

『すーっ……はーっ……! すーっ……はーっ……!』

 雲が息を整えると、雨足が少しずつ弱まっていく。

 やがて、ぽつ、ぽつ、と静かな雨粒になった。

 あたりの木々がしっとりと光り、地面からはあたたかい土の匂いがたちのぼる。

 葉っぱの上には丸い水滴がたくさん並び、まるで宝石のようだった。

「……ふぅ、よかったぁ」

 さやが胸に手を当ててほっとすると、空の上から小さな声がした。

『ご、ごめんね……やっちゃったな……これじゃもふもふに合わす顔がないや』

「ううん、ちゃんと止められたよ。ありがとう、雲さん」

『でも……町のみんな、怒ってないかなぁ』

「だいじょうぶ。ほら、見て」

 さやが指をさすと、子どもたちが外に出て、水たまりの中で走り回っていた。

 びしょぬれになった犬がぶるぶる体をふるわせ、郵便屋さんが笑いながら帽子の水をはたいている。

「ほらね。みんな楽しそう。雨のおかげで涼しくなったよ」

『ほんとだ……』

 雲はうれしそうに体をふくらませた。

 その拍子に、ぽつんと最後の一粒がさやの鼻先に落ちた。

「わっ、つめたい!」

『あっ、ごめん! 最後の一滴!』

 ふたりは顔を見合わせて、声をたてて笑った。


     ◇


 そのあと、雨はすっかり上がり、町の屋根が夕陽に照らされてきらきらと光っていた。

 さやは雲の名前が「もくもく」だと知った。

 西の空には、もくもくの体の端がゆっくりとオレンジ色に染まっていく。

『……ねぇ、さや。俺さ、ちょうどいい雨の降らせ方を覚えたいんだ』

「うん。じゃあ、“晴れと雨の約束”をしよう」

『約束?』

「うん。お日さまの下で乾きすぎたら、もくもくが雨を少し降らせて。でも、みんながびしょぬれになりそうなときは、風と相談して。そうすれば、木かげ町はいつでも“ちょうどいい”天気になるよ」

『なるほど……“ちょうどいい約束”かぁ。いい言葉だね!』

 もくもくはうれしそうに体を丸めた。

 その背中から、ゆっくりと虹が生まれる。

 七色の光が、町じゅうの屋根をひとつにつなぐように架かっていった。

「きれい……!」

『さやとの約束の“印”だよ!』

 夕陽と虹がまじりあい、空全体が金色に光っていた。

 風がそよぎ、濡れた木の葉が光を弾く。

「また降らせるときは、先に教えてね」

『うん! 今度は“ジョウロ”でやる!』

「それなら安心だね」

 ふたりは顔を見合わせて、また笑った。

 笑い声が空を渡っていく。

 そのあとも、虹の端っこが町の屋根にやさしく揺れながら、少しずつ夜にとけていった。


     ◇


 その夜。

 さやが寝る前に窓を開けると、空に小さな光の粒が瞬いていた。

 雲の切れ間から、もくもくが手を振っているのが見える。

『おやすみ、さや。今日の約束、忘れないよ』

「おやすみ、もくもく。またね」

 風がカーテンをそっと揺らす。

 外はもう、すっかり静かな夜。

 しっとりと濡れた木かげ町が、夢を見るように月明かりを受け止めていた。

 そして、明日の朝。

 町じゅうの葉っぱには、虹色のしずくが残っていた。

 それは、空と地上の“ちょうどいい約束”の証だった。

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