番外編 木かげ町の未来
春の風が、木かげ町をそっとなでていく。
欅の枝の先には、やわらかな新芽が顔を出していた。
あの芽を、いつか小さな手で包んだことがある。
あれから、いくつ季節が巡っただろう。
さやは、ランドセルではなく、今はブレザーの制服を着ている。
背も少し伸びて、靴の音も大人びた。
けれど、心のどこかにまだ、幼い日の風の声が残っている。
あのとき、空で泣いていた雲の声。
春の精“みどり”が駆け回る音。
夏の夜、ほたるがつぶやいた「光は心の道しるべ」という言葉。
すべてが遠い夢のようでいて、消えずに残っていた。
◇
ある放課後のこと。
帰り道の途中にある小さな公園で、さやは一人の子どもに出会った。
まだ小学校低学年くらいの女の子で、黄色い帽子をかぶっている。
ベンチの下をのぞきこんで、なにかを探していた。
「どうしたの?」
と、さやが声をかけると、女の子は涙ぐんだ顔をあげて言った。
「声が、聞こえなくなっちゃったの」
意味がわからず首をかしげると、女の子は胸の前で手をぎゅっと握った。
「お花の声。いつも聞こえてたのに、今日はぜんぜん聞こえないの」
さやは、そっと笑った。
どこかで見た景色だと思った。
そうだ。あの日の自分も、同じように空を見上げていた。
彼女はしゃがんで、花壇の前に並んだチューリップを見つめた。
夕暮れの光が花びらを透かして、やさしく揺れている。
耳を澄ますと、ほんのかすかに風の音が混じっていた。
「たぶんね、今日はお花たちが“眠ってる日”なんだよ」
さやはやわらかく言った。
「でも、ちゃんと起きるよ。お話したいことが、きっとまだあるから」
女の子は目をまるくした。
「ほんと?」
「うん。だって、ここは木かげ町だもん」
風がそっと吹いて、二人の髪をくすぐった。
◇
その日、さやは女の子といっしょに公園の隅を散歩した。
桜の木の根元に落ちていた花びらを拾いながら、
「春の精みどり」の話をした。
「みどりってね、春になると町じゅうの色を塗るんだよ。でも、時々筆を落としちゃって大変なんだ」
女の子は声を立てて笑った。
「絵の具がこぼれちゃうの?」
「そう。だから、空がピンクになったり、木がオレンジになったりするの」
さやの言葉に、子どもの目がきらきらと輝いた。
その瞬間、花壇のすみに風がくるりと渦を巻いた。
花びらがふわっと舞い上がり、まるで誰かが“聞いているよ”と合図を送っているようだった。
◇
次の日も、その次の日も、放課後になると女の子は公園に来た。
「今日はどんなお話?」と、楽しそうに聞く。
さやは、季節ごとに見た光景を少しずつ語った。
夏のせみたちのオーケストラ。
もくもくともふもふと交わした“晴れと雨の約束”。
ほたる坂の光。
もみじ通りの絵描きさん。
雪の精ユキノ。
それらはみんな、もう少し幼かった頃のさやが出会った“本当のこと”。
けれど、今はおとぎ話として語っている。
語りながらも、彼女の心の奥には、確かな温もりがあった。
あの頃、自分を包んでくれた四季の声たち。
彼らがくれた優しさが、今、自分の言葉になって届いている。
◇
ある夕方、女の子が小さな花びらを差し出した。
「これ、今日の風が落としていったの。さやおねえちゃんに、渡してって言ってた気がする」
受け取ると、その花びらの端がほんのり光っていた。
手のひらに乗せると、風のような声がかすかに響いた。
『ありがとう。季節はちゃんと、つながっているよ』
さやは目を閉じて、静かにうなずいた。
胸の奥に、春の日のあたたかさが広がっていった。
◇
夜。
家に帰ると、母が机の上に一冊のノートを置いていた。
古びた表紙に、金色の文字で書かれている。
『四季ノート』
「これね、さやの小さいころからの記録なのよ」
母は少し照れくさそうに笑った。
「そろそろ、次のノートを作ってもいい頃かもね」
ページをめくると、あの頃の写真がたくさんあった。
どんぐりを抱えて空を見上げる幼い自分。
せみの声に耳をすます姿。
雪の日の手袋。
そして、最後のページに、母の字でこう書かれていた。
『春の光の下で、今日も笑顔が咲いています。』
ページを閉じて、さやはゆっくり息をついた。
窓の外では、また風が吹いている。
◇
次の朝。
公園に行くと、あの女の子が花壇の前で手を振っていた。
「ねえ、今日もお話して!」
「うん。今日はね“風のポスト”の話にしようか」
さやはポケットから、母のノートに似た小さな手帳を取り出した。
その表紙には、金色の文字でこう書かれている。
『木かげ町の四季ノート』
ページを開くと、風がふわりと通り抜けた。
桜の花びらが一枚、そこに落ちる。
「これからもね、木かげ町にはいろんな声が届くんだよ」
「どんな声?」
「春の声、夏の声、秋の声、冬の声。でも、いちばん大事なのは、人の声。だれかを想う声は、いちばん強い風になるの」
女の子はうれしそうにうなずいた。
遠くで時計塔のベルが鳴った。
夕暮れの光が町を染める。
さやはそっと空を見上げた。
雲が二つ、寄り添うように流れていく。
まるで“もくもくともふもふ”が笑っているみたいだった。
「ねえ、あの雲……笑ってるね」
女の子が言うと、さやは小さく笑った。
「うん、きっとお話を聞いてくれてるんだよ」
◇
その日、木かげ町の風は少しあたたかかった。
季節たちは遠くにいても、町を包むように息づいている。
春がまためぐり、夏が歌い、秋が色を灯し、冬が眠る。
そのすべてを、次の誰かが感じていく。
ノートの最後のページに、さやは書き加えた。
『木かげ町は、今日もやさしい風の中にあります。』
風がページをめくり、桜の花びらが一枚だけ残った。
それは、新しい季節のはじまりの印。
木かげ町の未来は、今日も静かに息づいていた。




