春を待つ町
冬が終わろうとしていた。
木かげ町の朝は、まだ少し冷たかったけれど、
空の色はどこか明るくて、遠くの山肌には雪解けの筋が細く流れていた。
屋根の上では氷がきらりと光り、日の光を受けて、まるで星のかけらみたいに瞬いている。
川のほとりを歩くと、水の音が前よりもやさしく聞こえた。
雪の下で眠っていた流れが、目を覚ましたみたいに小さく笑っていた。
「春の音だ……」
さやはつぶやいた。
白い息がふわりと舞い上がり、風に乗って遠くへ消えていく。
冬のあいだ、町は静かだった。
でも、その静けさの中に、たしかに“生まれようとする音”があった。
それを、さやは耳の奥で感じていた。
◇
その日、学校の帰り道。
空き地の脇を流れる小さな水の道を見つけた。
雪解けの水が土をぬらし、道の端に沿って細い線を描いている。
その水の先に欅の木が立っていた。
春のはじまりをいつも最初に知らせる木。
夏には木陰を作り、秋にはもみじ通りと風を分け合い、冬には静かに空を見上げていた。
「こんにちは」
さやは木の根元にしゃがみこんだ。
土の間から、小さな芽がひとつ、顔をのぞかせていた。
「また、会えたね」
小さな声で言うと、風がひとすじ、木の枝を揺らした。
芽はまだ頼りなく、細い茎の先にほんのわずか緑が見えるだけだった。
でも、その小さな色は、どんな花よりも力強く見えた。
◇
風が通り抜けていく。
どこか懐かしい香りが混じっていた。
ふわり。
春の匂い。
“花びらの手紙”で出会った桜の精の香り。
“みどり”が塗った若草の匂い。
“せみのオーケストラ”の、夏の音の残響。
“もみじ通りの絵描き”の絵の具の色。
“くりの森のパン屋”の甘い香ばしさ。
そして、“星の音がきこえる”あの夜の光。
すべての季節の記憶が、風に乗ってさやのまわりをめぐっていく。
「みんな、ここにいるんだね」
目を閉じると、遠くの空からもくもくともふもふの笑い声が聞こえた気がした。
「春が来たよ~!」
「ねえ、さや、見て見て!」
空には、白い雲がふたつ。
風の道を追いかけながら、ゆっくりと形を変えていく。
もくもくは大きく広がり、もふもふはそのうしろでころころと転がっていた。
「また、遊びに来てくれたんだね」
「うん! 冬の雲たちが眠りについたから、ぼくらの番!」
もふもふがうれしそうに答えた。
「ねえ、今日はなにして遊ぶ?」
「今日はね……お別れの準備をするの」
さやは少しだけ笑って、芽のそばに両手をそっと添えた。
「春になったら、この芽はきっと大きくなる。でもね、芽が育つってことは、冬が終わるってこと。だから今日は、ありがとうを言う日なんだ」
もくもくが少ししんみりして、もふもふがうなずいた。
「ありがとう……冬」
空から、ひとすじの光が木の根元に落ちた。
それは、雪の名残を溶かしながら、やさしく芽を照らした。
◇
そのとき、風がふっと強く吹いた。
木々の枝が音を立て、空気が少しだけ春めいた匂いをまとった。
『ーーさや』
どこからか、声が聞こえた。
『もうすぐ春が来るよ。だから、顔を上げて』
さやはゆっくり顔を上げた。
空の雲が、光に透けてきらめいている。
その形が、ほんの一瞬だけ、“手”のように見えた。
芽の上に差しのべられるような、やさしい手。
「……また、会えるよね」
そう言って、芽の上に手をかざす。
その瞬間、風がやわらかく吹いた。
土の匂い。遠くの山から運ばれてきた冷たい空気。
その中に混じって、どこか甘くてあたたかい香り。
春の香りが、町を包んでいった。
◇
その夜。
さやは布団の中で、静かに目を閉じた。
外では雪解けの水が小さく流れる音がする。
夢の中で、四季の精たちが笑っていた。
花びらを手紙にしてくれた春の精。
夏の音を奏でたせみたち。
紅葉の色を描いた秋の絵描き。
雪の手袋をくれたユキノ。
そして空の上で歌っている、もくもくともふもふ。
“さや、ありがとう”
“また、会おうね”
たくさんの声が、やわらかい風のように通り抜けていく。
それは夢か、それとも現実か。
けれどさやは、目を閉じたまま微笑んだ。
「うん。みんな、また会える」
◇
朝。
鳥の声が聞こえた。
空は澄みわたり、遠くの山の雪がまぶしく光っていた。
欅の木の根元では、小さな芽がもうひとつ、顔をのぞかせていた。
春の風がそっと吹いた。
風の中には、季節を渡るたくさんの“さよなら”と“またね”が混じっていた。
さやはそっと目を細めた。
「おはよう、木かげ町」
その声が町に届くと、どこかでカランと小さな鐘の音がした。
それは、長い冬を越えて、
木かげ町が“春を迎える音”だった。




