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「お待たせしました」
軽やかな足取りでノクス様の元へと向かう。仕事をせずにここで待つようにと言った私はささっと着替えを済ませて彼の元へと向かっていたのだった。
向かうとそこには、言われた通り何もせず、ソファーに座って待っているノクス様の姿が目に入った。まるで主の帰りを大人しく待つ大型犬のようで、思わず微笑んでしまう。
(素直……可愛いわ)
「…それ、つけてくれているんですね」
私の顔を見上げたノクス様が、小さく呟いた。視線は私の頭――正確には、髪に挿した金の薔薇の髪飾りへと向けられている。
「あぁ、これですか? とっても綺麗ですので、大切にしまっていたんですけれど、普段もつけることにしました」
胸を張って言うと、ノクス様は少し驚いたように目を瞬かせた後、わずかに表情を緩めた。
「ノクス様の瞳の色と似ていて、とても素敵ですから気に入っています」
そう付け加えると、ノクス様はまた少し目を瞬かせた後、微かに視線を逸らした。
「…そうですか」
ほんの少し照れたような声音が耳に届き、それが嬉しくて、ついお茶目な一言を添える。
「そういえば、以前お話ししましたよね? 金薔薇をいただいたので、次もあるなら黒薔薇がいいなって」
私が楽しげに言うと、ノクス様はふっと微笑んだ――が、その表情はどこか微かに揺れているようにも見えた。
「……覚えていますよ。でも、黒薔薇は……」
言葉がそこで途切れた。
「作れないですか?」
「……作れます」
短くそう答えた彼の声には、微かな迷いが滲んでいた。
「でも……」
彼が躊躇する理由は、何となく分かる気がした。
金の薔薇を作るとき、彼は特段自分の持つ色という認識を持たず、光系統魔法の付与を目的として作成したのだろう。私に言われて自分の瞳の色と同じものを贈ったのだと気づいたくらいだし。
でも黒薔薇は――彼自身の色だ。
当然身につけることも忌避され、蔑まれ、否定され続けたその色を、彼は私に贈ってもよいのかと迷っているのだろう。
「私、黒が好きなんですって言ってますよね?」
あえて明るい声で言ってみる。
「それに、黒は私の愛するノクス様とノエルの色ですもの。だから、その色をした薔薇も、きっととても素敵ですわ!それはもう最高に!」
彼はゆっくりと私を見つめた。
「……でも、黒は禁忌の色です」
「そんなの関係ありません。黒が禁忌だなんて、特段何も証拠はないのですし。この金色の薔薇と合わせて使ったらノクス様とノエルの色そのものじゃないですか!はぁ、素敵すぎますね!」
私が自信満々にうっとりと言うと、ノクス様は小さく肩をすくめた。
「……検討しておきます」
その答えにまだ迷いはある。けれど、それでも。
彼の瞳の奥に、一瞬だけ揺らめいた感情が、どこか嬉しく思えた。
今日は朝から、ノクス様の笑顔をよく見る。
それだけで、私の心も温かくなるのだった。
「朝食の時間ですね」
そんな一言と共に、私は自然に方手を差し伸べる。ささやかに差し伸べられた手を自然と取ってくれるノエル様。昨日とは違って、軟らかな体温が伝わってくる。
「さぁ、行きましょう!ノエルが待ってますわ」
にこりと笑み、その手を引いて歩き出す。
歩くに連れて外へ目をやると、今日もしとしとと雨が降っているのが窓越しに見える。外は相変わらずの雨様だったが、この時間になって少し小ぶりになっているようだ。「今日はどうやって過ごそうかしら」と思いながらそれを眺める。
その瞬間、つないでいたノクス様の方手からかすかな力が入ったのを感じた。
「……どうかしましたか?」
あれと思い、向き直ると、ノクス様は天気を気にしているのではなく、私とつないだ手に目をやりながら、その手に少し力を入れてにぎにぎとしている。まるで繋いだ手の感覚を確かめるかのように。
「‥‥‥なんでもありません」
と答えたが、その様子から、どうやら意識的にしているわけではなく、自分でも意図を解っていないでやっているようなソワソワした顔をしていた。
「今日は休んでくれれば、何をしてもいいですけれど、なにかしたいことはありますか?」
微笑を残しながら問いかけると、ノクス様はすこし考えるように目を流した。
そして何か言おうとしたところで、つないでいる私の手をもう一度見る。
つまるように、だが言うべきことを考えた後に、少しためらうようにして口を開いた。
「………アイリスが、私と一緒にいてくれるのなら、何でも」
その言葉に私は思わず目をパチクリさせた。
基本一人でいることが多かった人だ。この休日もひとりを選ぶかと思っていたから、少し意外で。
(まさかそんなことを言うとは思わなかったわね……)
私が何も言わないため、不安そうな表情を見せるノクス様。
それに気付いて、にっこりと笑顔で「分かりました、一緒に過ごしましょうね」と言った。
その言葉に安堵したように「はい」と答えるノクス様。
愛しいなと思いつつ、もう一度彼の手を握り直し、二人で食堂へと向かった。