52
しばらくお互いを抱きしめ合っていた私たち。
雨はいつの間にか小ぶりになっていて、雨音はかすかに聞こえるだけになっていた。
抱きしめていたノクス様の体がどことなく熱いような気がして、少し距離を取る。
片手を彼の額に当てると、すぐにわかった。
「熱い……絶対に熱がありますよね?」
精神的な不調が体調にも影響したのか、熱はだいぶ高そうだった。
先ほどとは違って、私の手の方が少し冷たいせいか、ノクス様は気持ちよさそうに目を細める。
「これくらいの熱は問題ありません。大丈夫です」
まるで当たり前のようにそう言う彼に、私は心の中でため息をついた。
(明らかに微熱とは言えない熱さだし、普通なら辛いはずなのに……)
それなのに、彼はどこか平然とした顔をしている。
思えば、この人はいつもこうだった。彼の口癖が「大丈夫」であったことを思い出す。
きっと子供の頃から「大丈夫」と言い聞かせて、どんなに辛くても耐えてきたのだろう。大切にされてこなかったことや他者に尽くせという両親からの刷り込みが、彼の中に深く根付いている。
私はそっと彼の黒髪に指を滑らせながら、柔らかい口調で言った。
「大丈夫なわけないでしょう?今日から私がいいって言うまで、『大丈夫』は禁止です」
少し戸惑うような素振りを見せるノクス様。その金色の瞳がわずかに揺れる。
「……それは、どういう……?」
私は微笑みながら、もう一度彼の髪を撫でた。
その艶やかな黒髪は私のお気に入りだ。指に絡まる感触が心地よい。
「あなたの『大丈夫』は、きっとずっと前から無理をするための言葉だったのよね。でも、無理しなくていいの。だから言ってみて、大丈夫じゃないって」
ノクス様は困惑したように私を見つめた。そんな言葉を口にしたことがないのだろう。
静かな沈黙が流れる。外ではまだ雨が降っているが、その音さえも遠くに感じた。
「……大丈夫じゃ、ありません」
掠れた声だった。そして、それと同時に彼の目元から、一雫の涙がこぼれ落ちる。
自分の流した涙に、彼自身が驚いたようだった。瞳を大きく見開き、止めようとするように瞬きを繰り返すが、こぼれる涙は次々と頬を伝う。
「……どうして」
自分でも分からないというように、戸惑いながら呟くノクス様。その姿に胸が締め付けられる。
私はそっと彼の背に手を回し、ゆっくりと擦る。
「涙が出るのは、あなたが今までずっと抑え込んできた気持ちが溢れてきた証拠なのではないかしら」
彼の頬を両手で包み込み、流れる涙を親指で拭う。すると、今度は私の目にも熱いものが込み上げてくるのを感じた。
「今はまだ、自分を大切にするのが難しいかもしれない。でも、あなたを愛する私にとっては、あなたが自分を大切にしてくれないことの方がずっと悲しいの」
そっと額を彼の額に重ねる。
「だから、あなたが自分自身を大切にできるようになるまで、私があなたの分まであなたを大切にするわ。だから、大丈夫じゃない時は、ちゃんとそう言って。苦しい時、悲しい時、辛い時、寂しい時は、誰にも言えないなら、私にだけでもこっそり教えて」
ノクス様の瞳が揺れる。泣きながら、彼はそっと私の名を呼んだ。
「……わかり、ました。ありがとうございます」
弱々しくも、確かにそれは彼の本心だった。
雨音はいつの間にかほとんど聞こえなくなっていた。
◇ ◇ ◇
その後、私はノクス様を休ませるために彼の寝室へと連れて行った。
「まだ仕事が……」
寝室の前で立ち止まり、渋るノクス様に私は問いかける。
「今日やらなければ、死んでしまうようなものなのですか?」
そこまでとは言わないが、と言葉を濁す彼に、私はにっこりと微笑んだ。
「じゃあ、今日やらなくてもいいですね?」
そう言って、迷いを断ち切るように彼の手を引く。
ノクス様は抵抗することなく、私に連行されるように寝室へと足を進めた。
寝台のそばまで来ると、私は彼をそっと座らせ、そのまま寝かせる。布団をかけると、ノクス様は私をじっと見つめた。その金色の瞳には、どこか不安の色が滲んでいる。
(ふふっ、こんな表情もノエルとそっくりね……可愛い人)
私は微笑みながら、彼の寝台に腰掛けた。
そして、そっと彼の黒髪に手を伸ばし、ゆっくりと撫でる。
「寝るまでここにいますから、安心してください」
私の言葉に、ノクス様の表情がわずかに和らいだ。
目を閉じ、撫でられる感触を確かめるように僅かに身を寄せる。
彼の髪は絹のように滑らかで、触れるたびに指にしっとりと絡まる。
その心地よさに、私は無意識に手の動きをゆっくりとさせた。
やがて、彼の呼吸が静かに落ち着き始める。そっと顔を寄せ、私は彼の額に軽く唇を押し当てた。
「おやすみなさい、ノクス様。どうか良い夢を見れますように」
私の呟きが届いたのかはわからない。けれど、ノクス様のまつげがわずかに震えた気がした。
そして、彼はゆっくりと眠りに落ちていった。