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「おかしい……」
私の小さな呟きに、レオが顔を上げて問いかけた。
「何が?」
「何がって、ノクス様のことよ」
「閣下がどうかしたか?」
意味がわからないといった様子のレオが首を傾げる。
「なんか変。なんか変じゃない?」
そう言いながら、私は手元の書類に目を落とした。そこにはノクス様の最近の執務状況が記されている。これまでの数ヶ月間で、彼の仕事量を調整し、無理のない範囲で休息を取らせるようにしていた。それなのにこの違和感は拭えない。
最初は気のせいかと思っていた。でも、ここ最近、確信に変わりつつあった。
「閣下の仕事が多いことなんて今までもそうだったし、何も変わらないだろう?」
レオはあくまで平然としている。
「まあ、休みに設定している日にも姫さんの目を盗んで仕事をしているのは最近見かけるが、ちょうど今忙しい時期でもあるんだし、特段問題はないんじゃないか? 閣下はあれで仕事も嫌いじゃなさそうだし」
その言葉に、私は少し唇を噛んだ。
(それは、そうだけれど)
確かに、ノクス様は仕事を嫌ってはいない。以前、彼に仕事のことを尋ねたときも、「自分の働きが領地や国のためになるのはやりがいを感じる」と語っていた。あれは無理をしているようでも、嘘をついているようにも見えなかった。以前彼が言っていた、仕事をこなすこと=自分の価値という考え。あれを抜きにしても、自分が携わる仕事に対して楽しさも持ち合わせているのはきっと本心なのだろうと私は思っていた。
私の目を盗んで仕事をする姿も、ここ最近から始まったことで、私に見つかればその後はおとなしく休んでいるし、そもそもあれはなんだか…私に見つけてほしいというような感じの雰囲気だった。本人はきっと無意識だろうけど。
(どことなく、声をかけてほしいと言う感じ?私たちの関係性もまたちょっと気安くなった気がして、最初は嬉しかったんだけど……)
でも、それならばなぜ、最近の彼はどこか無理をしているように見えるのか。
(やつれてる、のよねぇ。どことなく)
周囲は特に気にしていないようだった。彼の表情は普段からほとんど変わらないし、体調が悪くても気丈に振る舞う。だから、誰も気づかない。
でも、私を周りと一緒にしてもらっては困る。
今までも「意外とこの人、感情が出るじゃない」と思っていたが、そう感じていたのは私だけだったようで、周りに後で「ノクス様はこうだった」と言っても、「えぇ?」と驚かれ、無表情で何考えているか分かりませんでしたけどと言われるだけだった。
そんな私は気づいてしまった。
雨の日、特に酷いと言うことを。
顔色が悪く、動作がわずかに鈍くなる。食事はしっかりと摂っているし、睡眠もなるべく取らせるようにしている。それなのに、彼はどことなく出会った頃のように疲れ切った様子を見せることがある。
「雨の日……?」
私は思わず呟いた。
そう、彼の不調が現れるのは、決まって雨の日だった。
(なぜ?)
その理由を探らなければならない。
「……レオ、ノクス様の昔のこと、特に雨の日に関する話を何か知らない?」
「雨の日? いや、特に聞いたことはないが……」
レオが考え込むのを見ながら、私は静かに決意した。
このままではいけない。
雨の日に、彼の体調が悪くなる理由を、私は突き止めてみせる。
◇ ◇ ◇
すでにノクス様には何度か聞いてみていた。雨の日が関係していると気づく前に。しかし、彼は決まって「大丈夫です」としか言わなかった。
それ以上踏み込むのはどうなのだろうか。
(きっと、あの人の気持ちを蔑ろにして、言いたくないことまで言わせてしまうことになるのではないかしら……)
そう思い、一旦聞くのをやめたのだった。
私の愛しの旦那様は、自分のことには無頓着というか、自分自身を蔑ろにすることが普通のような考えを持っている、ように思う。私の願いや言い分、やりたいことには素直に行動してくれるのに、自分にその優しさを向けることはない人なのだ。
だからこそ、無理に聞き出すことは違う気がした。彼が言いたいと思った時に、言いたいことを言えるように。ここ数ヶ月間、私が好き勝手に行動する中でも、それだけは心がけてきた。
そもそも、私はこの城の人事配置の変更や、別館の立て直しなど、かなり自由に振る舞ってきた。だが、それに対してノクス様は何も「否」と言わなかった。
(気になって、1回聞いたのよねぇ…。好き勝手してるけど、不満はないのかって)
そう、私は確認していた。「不満はないか?」「無理はしていないか?」「何でもいい、何かあるなら言ってほしいのだ」と。
その時、彼は「特に不満も無理もしていません」と答えた。続けて、「無理は……多分、していないと思います」とも。
それは、今まで自分の気持ちに向き合えなかったノクス様なりの本心だったのかもしれない、と思っている。自分のことを考えるという行為に慣れていない彼が、それでも一度考え、結論を出し、私に伝えてくれたのだと。
(私がノエルにやるのと同じように、ノクス様にもあなたはどう思ったか、どう感じたのかって聞くようにしていたから、最近は自分の気持ちをちゃんと考えるという行動をとるようになったのよねぇ)
そう思うと、彼なりの成長の現れなのかもしれないと感じていた。
だからこそ、彼が話したくなるまで、私は彼が自ら言わないことを無理に聞き出さないとその時に決めていた。
(けれど、やはり雨の日、あの人の様子はどこかおかしい……)
この前も、廊下ですれ違ったとき、すでにそこにいたノクス様は窓の外を眺めているようだった。
外はザーザーと雨が降っている。
「ノクス様?」
私が声をかけると、少し遅れて彼がこちらを振り向いた。どうやら雨に気を取られていたらしい。
私は彼の隣に歩み寄り、同じように窓の外を見つめる。
「雨ですねぇ」
「……そうですね」
返ってきた声は、どこか沈んでいた。
そのとき、外で雷が鳴った。
(今日は一段と酷い天気になりそう……)
そう思いながら、ふと窓越しに映ったノクス様の顔を見て驚いた。
彼の表情がこ一瞬わばって見えたからだ。
「……どうかしましたか?」
心配になり問いかけると、ノクス様は一瞬視線を泳がせ、
「なんでもありません」
そう言って踵を返した。
「仕事があるので、失礼します」
足早に立ち去る彼の背中を見送りながら、私はますます確信した。
雨の日、私の旦那様には何かがある。
そう気づいた私は、とりあえず彼を知る人たちに試しに聞いてみることにした。




