32
庭でのお昼寝の後、私たちは庭にある温室で過ごすことにした。
温室の扉を開けると、ふわりと優しい花の香りが広がった。庭にも色とりどりの花々が咲き誇っていたけれど、温室にはまた違った魅力がある。そこはまるで異世界のようで、陽の光がガラスを透かして降り注ぎ、まばゆい緑と花々が輝いていた。
中でも目を引いたのは、温室の奥に広がる薔薇のアーチ。真紅、淡いピンク、深い紫、そして雪のように白いものまで、さまざまな薔薇が咲き乱れている。私は思わずしゃがみ込み、その一輪をそっと指でなぞった。
「綺麗……」
そう呟いた私のすぐ近くに、いつの間にかノクス様が立っていた。顔を上げると、金の瞳が真っ直ぐに私を見つめている。少し驚きながらも、彼の顔をまじまじと観察した。
半日しっかり休んだからだろうか。ほんの数日前までは目の下に薄く影が落ちていたけれど、今はそれも幾分和らぎ、肌の血色も良くなっている。
(このままいけば、私の決意した——“かんっぺきな黒髪イケメン旦那様に戻そう大作戦” も成功しそうね)
そう考えていると、ノクス様が口を開いた。
「薔薇が好きなのですか?」
「そうですね……」
少し考えながら答える。私は花全般が好きだった。アイリスという自分の名前が花にちなんでいるのもあるけれど、それ以上に、花はどんなものでも美しく、人の手によって進化し続けるものだ。
「薔薇はたくさん品種改良されて、同じ薔薇なのに全然違う姿をしているでしょう?それが面白くて、好きなんです」
私の言葉に、ノクス様は小さく「そう、ですか……」と呟き、何かを考えるように視線を落とした。その横顔は、やはり美しかった。けれど、何を思っているのかは分からない。
その時——
「アイリス様!」
小さな足音が温室に響き、振り向くと、ノエルがパタパタと駆け寄ってくるところだった。その手には、何か黄色い小さな花が握られている。
「どうしたの?」
「これ、きれい!」
小さな手のひらに乗せたまま、私に見せてくるノエル。その後ろから、ライナーとアンドレアが落ち着いた足取りでついてきていた。
「お茶の準備が整いました」
そう告げるアンドレアに、私は笑顔で頷いた。
温室の中央、陽だまりのような温かな場所に置かれたテーブルへと向かう。太陽の光が差し込む穏やかな空間で、私たちは3人並んで腰を下ろし、ゆったりとした午後のひとときを楽しんだ。
◇ ◇ ◇
お茶を飲み終えた後は、そのまま温室で読書をすることにした。温室の中は、外の風が吹かないぶん、穏やかに時間が流れているように感じる。陽の光が透き通るガラス越しに柔らかく降り注ぎ、風に揺れる葉のささやきと遠くの鳥の鳴き声が心地よいBGMのようだった。
「そうだ、読書をしませんか?」
そう提案した私に、ノエルは当然のように頷き、そしてふと隣を見やる。そこに座るノクス様もまた、ごく自然に「わかりました」と返した。意外にも素直な返事だった。それに、その後いくつか持ってこさせた本の中からノクス様が選び取る仕草も、どこか慣れたようなものだった。
「ノクス様も読書がお好きなのですか?」
何気なく聞いた私に、彼は短く「嫌いではないですね」と答え、持っていた本を開く。
(……好き、なのね)
どうやら私たちは皆、読書好きな家族の様だ。ともあれ、三人で静かに本を開くことになった。
私が手に取ったのは、最近評判の良い新人作家の作品だ。少年と少女の友情と成長を描いた物語で、王都の書店で大々的に売り出されていた。私は本のページをめくりながら、ふと視線を感じた。
小さな金色の瞳が、じっとこちらを覗いている。
「ノエル、どうかした?」
問いかけると、ノエルはちょこんと首を傾げながら「アイリス様は、何を読んでるの?」と聞いてきた。
「そうね……少年と少女が、色々な冒険を通して成長していくお話よ」
できるだけ分かりやすく説明すると、ノエルは満足したように「ふーん」と頷く。だが、彼の視線はそこで終わらなかった。ちらりと、今度はノクス様へと向けられる。
(……なるほど、気になるのね)
そう思った私は、ノエルの耳元でそっと囁いた。
「ねえ、聞いてみたら?」
ノエルは一瞬、戸惑ったように私を見た。だが、しばらく考えた後、小さく「……うん」と頷く。そして、少し緊張した面持ちで旦那様へ向き直り、恐る恐る口を開いた。
「な、何を読んでいるのですか、お父様?」
──お父様。
それまで「閣下」と呼ばれていた人が、初めてそう呼ばれた瞬間だった。ノクス様は、ほんの一瞬、きょとんとしたように目を瞬かせた。そして、何かを考えるように視線を落とし……少しだけ、表情を和らげる。
「花の品種改良に関する本だ」
「ひんしゅ……?」
「色や形を変えたり、新しい種類の花を作る技術のことだ」
ノエルは「ふーん」とまた興味深げに頷くと、そのまま自分の本へと視線を戻した。短い交流ではあったが、初めての「お父様」呼びに驚いたノクス様の反応も、彼なりにきちんと答えようとした様子も、私には微笑ましく思えた。
私はそっと息子の髪を撫でながら、ちらりとノクス様を横目で見る。彼は再び本に視線を落としていたが、よく見ると、口元がわずかに綻んでいる。
(……可愛らしい。可愛らしすぎて愛しいわ。この旦那様)
そんなことを思いながら、私もまた、本のページをめくるのだった。
◇ ◇ ◇
温室での読書を終えた私たちは、暗くなる前に部屋へと戻り、たわいもない会話をしながらくつろいだ。夕食も三人で共にとり、穏やかなひとときを過ごした。
食後、それぞれ眠る準備を整えた私たちは、自然と私の部屋へと集まっていた。いつも通り、柔らかな灯りのもとでのんびりと過ごしていたが──。
「……すぅ……」
小さな寝息が聞こえてくる。
ノエルは、今日一日、いつもよりもたくさん動き回ったせいか、眠気には抗えない様子だった。私の隣でコクリコクリと船を漕ぎ、今にも意識が途切れそうになっている。私はその様子を微笑ましく見つめた後、ノクス様へと視線を向けた。すると、彼もちょうど私を見ていたらしく、無言で目が合う。
「ノエル、もう寝ましょうか?」
ノエルの髪をそっと撫でながら声をかけると、彼は掠れた声で「……うん」と小さく返事をした。私はそっと彼を抱き上げ、寝室へと向かう。小さな体はすでに力が抜けきっていて、ぐったりと私の腕に収まっている。
寝台へと向かう途中、私はふと足を止めた。
(……どうしようかしら)
目の前には、いつもノエルと二人で寝ている私の寝台。その隣に並んでいる奥の扉を見やる。そこを開けば、本来夫婦で共に使う寝室があるはずだった。
(ここで眠るのもいいけれど……どうせなら、あっちを使うのもいいのかもしれない)
「……?」
私が立ち止まったことに気づいたのか、自然と後ろをついてきていたノクス様が不思議そうに私を見ていた。
「ノクス様、今日は一緒に寝ましょうか?」
ノクス様の金の瞳がわずかに揺れる。驚いているのが、無表情な彼でもはっきりとわかった。
「……私と、ですか?」
「ええ。ここの隣の寝室で」
指さした奥の扉。そこは、私とノクス様が本来ともに使うはずの寝室だ。今まで、私はノエルと共に私の寝室で寝ていて、ノクス様は自室で眠っていた。けれど、これを機に、少しずつ「夫婦」としての関係を築いていくのも悪くないと思ったのだ。何よりノエルがいるのだ、「夫婦」というよりは「家族」として、今日縮まった様に感じるこの距離を、大切にしたいと思った。
ノクス様は一瞬、何か言いたげに口を開きかけたが、結局言葉は出てこなかったらしい。何を答えたらいいのかわからない様子で、ただ黙って私を見つめている。
「……嫌ですか?」
少し首を傾げながら問うと、彼はわずかに肩を震わせ、短く答えた。
「……嫌ではない、です」
「ふふ、それなら決まりですね」
私は微笑み、腕の中のノエルを抱え直しながら、ノクス様に言った。
「ノクス様、扉を開けてもらえますか?」
ノクス様は無言で頷くと、ゆっくりとその扉を押し開いた。
開かれた寝室は、想像以上に整えられていた。暖かな光が灯り、使われていないにもかかわらず、きちんと手入れがされていることがわかる。深みのある色合いの家具が配置され、柔らかな絨毯が足元を包み込んだ。
そして部屋の中央には、私たちがともに使うはずだった、大きな寝台が置かれていた。
私はその中央に、ノエルをそっと下ろす。少し身じろぎした後、ふかふかの寝台の感触に安心したのか、彼は無意識のうちに小さく甘えたような声を漏らした。
「私の可愛いノエル、おやすみなさい。良い夢を」
そう囁きながら、私はいつものように彼の額に軽くキスを落とす。ほんの少し、唇に触れた彼の肌は温かく、そして優しい寝息が返ってきた。すぐに深い眠りへと落ちていくノエルを見つめながら、私は小さく微笑む。
「ノエル、可愛いでしょう?」
隣にいるノクス様を見上げて問いかけると、彼はふと私と目が合い、少しの間を置いた後、静かに頷いた。
「……はい」
その返事は、とても素直だった。私は思わず口元を綻ばせる。
(少しずつ、少しずつだけれど。ノエルと同じ様にノクス様も成長していて、ちゃんと「父親」になろうとしている。素敵だわ)
「まだ、大人が寝る時間には少し早いですね」
ふと思いつき、私はノクス様に提案する。
「あちらの部屋でワインでもいかがですか?」
少しの沈黙のあと、ノクス様は静かに頷いた。
「……そうしましょう」
こうして、二人はそっと寝室を後にした。
◇ ◇ ◇
寝室を出た私たちは、私の自室へと向かい、ワインを開けることにした。
この時間は、というか二人でいる時は大体、私が主に話して、ノクス様はそれに頷いたり、ぽつりぽつりと短い言葉を返す。割合で言えば、私が八割、ノクス様が二割といったところだろうか。
それでも、こうして二人で過ごす時間が増えてきたことが、私は嬉しかった。ワイングラスの縁を指でなぞりながら、ふと私は思い出す。
「そうだ、ノクス様」
「……なんでしょう?」
「今日、ノエルがノクス様のことを『お父様』と呼びましたよね。どう思いました?」
グラスを口元に運ぼうとしていたノクス様の動きが止まり、少し思い出すように目を伏せる。
「……不思議な気持ちに、なりました」
ぽつりと、彼らしい短い答えが返ってきた。
「不思議?」
「……今まで、誰かにそう呼ばれたことはなかったので」
そう言いながら、ノクス様はグラスの中の赤い液体をじっと見つめる。
(それは、そうでしょうね。ノクス様の子供はノエルしかいないのだし)
「でも……」
少しだけ息を吐き出し、静かに続けた。
「これが……嬉しいという気持ちなのかもしれない、と、思いました」
私はその言葉を聞いた瞬間、自然と満面の笑みがこぼれた。
「ふふっ!そうですか。それは良かったですね、ノクス様」
思わず嬉しくなって微笑みかけると、ノクス様は少しだけ目を見開き、すぐに照れくさそうに視線を逸らす。その仕草が可愛らしくて、私はまた小さく笑った。
しかし──ここでふと気づく。
「そういえば、ノクス様って、いつも私のことを『姫殿下』と呼びますよね?」
「……?」
ノクス様が怪訝そうに私を見る。
「家族なんですから、私のことも名前で呼んでくださいな」
私がそう言うと──
「……えっ!?」
珍しく、ノクス様がはっきりと驚きの声を上げた。その姿があまりにも面白くて、つい吹き出してしまう。
「ふふっ……そんなに驚かなくても」
笑いを抑えつつ、私は手のひらを向け、促すように微笑んだ。
「さあ、どうぞ?」
ノクス様は困ったように視線をさまよわせ、何度か口を開いては閉じる。どうしよう、とでも言いたげな顔だった。それでも、やがて観念したように息を吐き、ほんの少しだけ顔を伏せながら、おずおずと私の名前を呼んだ。
「……アイリス、様」
小さな声だったけれど、ちゃんと私の名前を呼んでくれた。
(ん〜、惜しい。私は旦那様になる人には呼び捨てで呼んでほしいタイプなのよ)
「『様』は要りませんわ。『アイリス』と呼んでみてください」
「しかし…それは…」
「さぁ、どうぞ!」
「ア……アイリス」
「はい、ノクス様」
私が「よくできました」と言ったように優しく返事をすると──
ノクス様は、どこか褒められた子供のような表情をした。
(可愛い……可愛いがすぎるわ。私の旦那様。これが私の旦那様なんで尊すぎる…!)
思わずまた笑ってしまいそうになったけれど、なんとか堪える。それでも、唇の端が自然と綻んでしまうのを止めることはできなかった。
「そろそろ寝ましょうか」
そう言って、私たちは寝室へ戻ることにした。寝室に戻ると、ノエルは寝台の真ん中ですやすやと眠っていた。寝息が小さく、穏やかで、見ているだけで安心する。
(もう、夜中に泣くことは無くなったわね……。良かった)
私たちはノエルを間に挟むようにして、両脇から布団の中に入った。そのまま目を閉じようとして、ふと、ある考えが浮かんだ。
「……そういえば」
思い出したように呟き、私はノクス様を呼ぶ。
「……?」
ノクス様は無言のまま、しかし「なんだろう?」というような表情でこちらを見つめていた。
私は、そんなノクス様の方にそっと体を傾け、彼の額に、いつもノエルにしているように優しくキスを落とした。
「……っ」
ノクス様は目を大きく見開いた。そして、きょとんとした顔のまま、ゆっくりと手を額に当てる。
(はぁぁ、可愛い。何しても可愛いなんて罪深い旦那様なんだから)
「おやすみなさい、ノクス様。良い夢を」
そう言って、私は目を閉じる。
しばらくの間、ノクス様は放心しているようだったけれど、やがてもぞもぞと布団に潜り込んだ気配がした。
そして、静かな夜が更け、家族三人で、同じ寝台の上で眠りについた。
今回は家族の中がグッと近づいた気がする回でした!




