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私がノクス様とこの城へ帰ってきてから、数日が経った。夜食を持って行って彼と話をしたあの日から、私はなるべく、ノクス様と過ごす時間を増やすようにしていた。食事の時にはノエルも合わせて家族3人で一緒に食べるようにして、ノエルの昼寝の時間や就寝後には、定期的にノクス様の執務室に突撃する。そして、いつまでも執務机から動かず書類に埋もれている彼を引き剥がして休憩させたり仕事を手伝ったりする毎日。そうすると自然と会話も増えて、彼のことが少しずつだけれどわかってきたような気がしてきている。
(…と言っても、子供の頃からずっと仕事漬けの毎日だったみたいだから、好きなものも苦手なものもないっていうし、基本無表情で何考えているのかわからないように見えるから全てを把握するのは難しいのだけれど)
まず、今までのノクス様の生活サイクルについてはライナーやノクス様本人から聞いて、少しでも食事をしてしっかり休ませるように改めさせる日々を過ごしていた。先ほども言ったような、彼の執務室へ突撃するというちょっと強引な方法で。私がお願いすれば素直にいうことを聞くようなので、今のところ効果的だ。しかし、いかんせん彼の業務は多岐に渡り、今は家臣の数も少ないため当主自ら行わずとも良いところまで抱え込んでいる有様。普通の人であればすでに過労死していそうだが、どうにか回っているのは彼が優秀だからという事に尽きるだろう。
(私がどんなに休ませようとしたところで、もともとある業務の量が多すぎて結局休めない有様…。そろそろ元家臣というジェフリーたちを本格的に呼び寄せられるように動くとしましょうか)
家政婦長をノーラに引き受けてもらった時に、彼女から執事長にと推薦を受けたジェフリー・カーライルとその他の領地内に残っているという元家臣たち。ノクス様自ら城から出した人物たちなので、流石に出会って初日からいきなりそれについて切り込むのもね…と思って後回しにしていたのだ。
(ノーラにジェフリーと話をしたいと伝えて動いてもらいましょう…ライナーにも根回しが必要ね)
あとはノクス様がどんな人物なのかということについてだが、まず、彼は褒められることに慣れていない。
「ノクス様の字、とても綺麗ですね」
何気なく私の目の前のすでに処理済みの書類を見て、そう言ったときのことだった。
彼は手元の書類に視線を落としたまま、短く「……そうですか」とだけ返した。
それが、少し間を置いたぎこちない返事だと気づいたのは、私の言葉の直後、彼の手がわずかに止まったから。
もともとぎこちない返事をすることがあった彼だけれど、それだけではない。
「仕事が丁寧ですね」
「お茶も淹れられるんですね」
「気遣いができる方ですね」
そんな些細な言葉をかけるたびに、彼は一瞬、ほんの一瞬だけ動きを止める。
まるで、褒められるという行為自体が理解できないかのように。
普通なら軽く受け流すか、照れるか、謙遜するものだろう。
けれど、彼は違う。
「…ノクス様?」
「……いや」
わずかに眉をひそめ、書類に目を戻す。
その金色の瞳が、かすかに泳いでいることに気づかなければ、私はそれ以上何も思わなかったかもしれない。それは、当然のこととして受け止めるのではなく、どう反応していいのかわからない人の仕草だった。
(私のこの可愛らしい旦那様は、誰かに褒められることに慣れていないわけね)
私はより一層、彼を褒めてあげようと心に誓った。
次に、彼は視野が広く細かいところまで見ていて、かつ無自覚なお人よしだ。
それがはっきりとわかったのは、私がうっかり執務室で眠ってしまったときのこと。
彼の執務机に、前にしたように椅子を持ってきて座り、書類を読んでいたら、ついうとうとしてしまった。
目を覚ましたとき、肩にふわりとした重みを感じる。
それは暖かそうなブランケットだった。
目をこすりながら顔を上げると、彼はいつものように静かに書類に目を通していた。
まるで、「自分は何もしていません」と言わんばかりの態度。
でも、この執務室には私と彼しかいないし、私以外で執務室にやってくることのあるライナーはこの時間は別の仕事をしている頃のはず。
(……起こさないように、そっと掛けてくれたのね)
なんでもないような顔をしているけれど、そういうところが彼らしい。
この人は、誰かのことを気にかけるのが当たり前になっている。
けれど、それを自分に向けることは決してしない。
「ノクス様」と呼びかけても、彼は目を上げない。
「……何でしょう」
「いえ。ありがとうございます」
すると、何も言わない彼の書類を見る横顔が少し和らいだような気がした。
そして、彼の口癖。
私が夜の執務室を訪れるたびに、彼の机には食べられずに冷めたままの夜食が置かれていた。おそらくライナーが、以前私が持って行った時に食べたからとその後も用意するようにしていたのだろう。彼はそれを受け取りはするようなのだが、仕事に追われて忘れてしまうのか、手をつけていないことが多い。
「ノクス様、お腹空いてないんですか?」と冷えた夜食を指さしていう私。
その問いに「私は大丈夫です」と言って、当たり前のように書類に目線を落とし仕事をする彼。
「ノクス様、本当に大丈夫なんですか?」と少し意地悪に聞いてみる。
そんな私に彼は書類をめくる手を止め、一瞬だけ私を見た。
そして、わずかに眉をひそめて「……大丈夫です」と返す。
(ほら、やっぱり。お腹空いてるんでしょう、この人)
「まあ、無理強いはしたくはないのですけれど」と言いつつ、私は夜食の皿を手に取り、彼の前に置く。
「せめて、これだけでも食べてくださいな。見ている私の方が大丈夫ではなくなりますから」
それに対して、彼は短く息を吐くと、「……わかりました」と言いながら、やっと夜食を口に入れた。
それだけではない。疲れた様子を少し見せながらも、決して「疲れた」とは言わない。眠くないのかと尋ねても、寒くないかと尋ねても、決まって返ってくるのは「私は大丈夫です」の言葉だ。
最初はそんなに気にしていなかったけれど、何度も何度も繰り返されるその言葉に、ふと違和感を覚えた。思い返してみれば、彼はどんな状況でも「大丈夫だ」と言う。まるで、それが当然で当たり前でなければいけないかのように。
(もしかしたら、本当に「大丈夫」なのかどうか、彼自身すらわからなくなっているのかも…)
「大丈夫」という言葉は便利だ。心配する相手に伝えれば相手は安心するし、相手から聞かれたりする「大丈夫」や自分自身に使う「大丈夫」という言葉で勇気や元気がもらえることもあるだろう。
でも、本当に「大丈夫」なのかわからなくなるほど、どれほど辛くても「大丈夫だ」と自分自身に言い聞かせて耐え続けた場合どうだろう。それは、自分を守る鎧にもなるが、「大丈夫じゃない」という自分自身の叫びも一緒に覆い隠してしまうのではないだろうか。
もしかしたら彼は昔から、自分の痛みや悲しみ、苦しみをも認めることすら、許されなかったのかもしれない。ふと、そう考えてしまって、胸が締めつけられるようだった。
◇ ◇ ◇
そうやってノクス様との交流を増やしていた中だが、ノエルのことも忘れたわけではない。ノエルが起きている間は、ほぼノエルと一緒に過ごすことは変わらないのだ。
そんなある時、昼食の席で私はふと気づいた。私とノクス様、私とノエル、この2つの組み合わせでの交流はたくさんある。しかし、ノクス様とノエル、この2人の触れ合いは驚くほど少ないのだ。
食事のときも、その他の時間も、3人でいるときは必ず私が間にいる。視線は交わるが、直接の会話はほとんどない。どちらも、ノエルは私とはよく話すし、ノクス様はポツポツとにはなるが話をしてくれるのに、2人だけになると沈黙が流れる。何とも言えない距離感がそこにはあった。
(まぁ、滅多に2人きりになることってないのだけれどね)
このままでいいのだろうか、と私はしばし考え、ひとつの試みを決めた。昼食が終わり、いつものようにノクス様が静かに席を立つ。私はさっと立ち上がり、彼の裾を軽く引いた。
「ノクス様」
彼が立ち止まる。
私は微笑みながら、ノエルを抱き上げると、そのままノクス様の目の前に差し出した。
「ノエルを抱っこしてみてください」
突然のことに、ノクス様は僅かに身を引いた。その金色の瞳が揺れ、困惑を露わにする。
「……抱く、とは……?」
戸惑いに満ちた声がこぼれる。いつもは冷静な彼の表情が明らかに崩れ、動揺しているのがよく分かった。私はくすっと笑う。
(すごい動揺してる…)
「こうやるんですよ」
言いながら、私はノエルを支える腕を調整し、ノクス様の腕にそっと預ける。ぎこちなく腕を伸ばしたノクス様は、どこを支えればいいのか分からないといった様子で、まるで壊れ物を扱うような慎重さで自分の息子を抱いた。
ノエルもまた、目をぱちくりさせている。普段抱っこされ慣れている私と違い、旦那様の腕はどこかぎこちない。お互いにどことなく緊張しているように見えた。
「さぁ!こっち向いてくださいな」
お互いを見て沈黙している2人にそう声をかけると、同時にその黒髪を揺らし私をみる。あまりにも美しい二人の容姿とその黒髪のマッチ具合に私はときめきが止まらない。
(なんって可愛らしいのかしら…!)
「なんって可愛らしいのかしら…!ノクス様とノエル、本当にそっくり!そして二人とも素敵な黒髪!はぁぁ!なんって綺麗なのかしら!美しいですわぁ!ノクス様はかっこいいし、ノエルは可愛らしいし、本当に愛しいですわぁ二人とも!」
心の中でつぶやいていたはずの言葉が自然と口について出てしまった。いきなり弾丸トークで二人を褒め称える私の言葉に、同じ顔できょとんとするノクス様とノエル。
そしてしばらくまたお互いを見て沈黙した後、ノエルが小さな手を伸ばし、ノクス様の黒髪にそっと触れようとした。その仕草にノクス様は一瞬身を強張らせるが、何も言わずにただじっとノエルを見つめていた。ノエルは自分と同じ黒髪であるノクス様の髪が気になったのだろう。
私は、二人の交流に嬉しくなって、ふふっと微笑む。
「やっぱり親子ですね」
その言葉に2人ともあまりにもそっくりな気まずい表情で、私を見てくる。
(それにしても、なんてそっくりなのかしら…!)
私は堪えきれず吹き出してしまった。
まだまだ、この親子の距離が縮まるには時間がかかりそうだ。でも——こうやって、一歩ずつでもいい。少しずつ、少しずつ。私はその様子を微笑ましく見つめながら、次はどんな方法でこの二人を近づけようかと考え始めるのだった。
旦那様について徐々に知っていくアイリスさんと、ノエルとノクスの親子のぎこちない交流。
これからどんな家族になるのか楽しみです。




