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ノエルを寝かしつけた後、私はそっと寝室を後にした。子どもらしい丸みを帯びた頬が、穏やかな寝息とともにわずかに動く。その愛らしい姿を一瞥して、扉を静かに閉める。


(ノエルの寝顔はいつ見てもとっても愛らしいわ…!さて、このあとはどうしましょうか)


疲れていればノエルと共に寝てしまっても良いかと思ったが、今日の私は元気が有り余っているらしい。まだ寝る気分ではなかったのだ。


(どうしようかしら…?)


執務をしてもいいけれど、特段急ぎのものはないはずだ。ならば、とふと脳裏に浮かんだのは、私の旦那様のことだった。


「……夕食には姿を見せなかったわね」


仕事が立て込んでいると伝言があって、ノエルと二人でいつものように夕食を取ることにした。そして結局、ノクス様が食卓に現れることはなかった。昼過ぎに別れて以降、ほとんど部屋に籠もり、執務に没頭しているのだろう。


(夕食はちゃんと取ったのかしら?)


さすがに食事を抜いてはいないわよね…?、そう思ったが念のため様子を見に行くことにした。そうして自室を出ると、ほどなくして廊下の向こうから歩いてくるライナーと鉢合わせた。


「あらライナー」

「これは、姫殿下。こんな時間にいかがなさいました?」

「ノクス様の様子を見に行こうと思って。執務室にいらっしゃる?」


私の問いに、ライナーは小さくため息をついた。


「ええ、今もまだ仕事をされております。休まれてほしいのですが、なかなか……」


(やはりか…)


「ノクス様、ご夕食は?」

「……お召し上がりにはなられませんでした。お持ちしたのですが、『いらない』と」


(自分のことになるとおざなりなのね…)


少しは食べないと体に障るのに、私の可愛い旦那様はどうやら自分のことは大事にできないタイプのようだ。


「今から夜食って用意できるかしら?」


ライナーは目を丸くしたが、すぐに納得したように頷いた。


「姫殿下がお持ちすれば、もしかすると口にされるかもしれませんね」


そう言って彼は足早に夜食の準備をしに行ってくれた。その間、私はノクス様について思いを巡らせる。ライナーの話では、彼は自分の家臣たちには夜更かしをさせないくせに、自分はいつ寝たのかわからないほど働き続けるらしい。そんなに詰め込んでどうするつもりなのかしら。


(これはもう、強制的に休ませるしかないわよね。私の”かんっぺきな黒髪イケメン旦那様に戻そう大作戦”遂行のためにも…!)


ほどなくして用意された夜食を手に、私はノクス様の執務室へと向かった。簡単につまめるものを中心に、温かいスープまで添えられている。これなら多少は食欲も湧くだろう。

扉の前でノックをすると、中から低い声が響いた。


「どうぞ」


静かに扉を押し開けると、書類に埋もれるノクス様の姿が目に入る。私の姿を認めるや否や、彼は目を丸くした。どうやら、ライナーだと思っていたらしい。


「ごきげんよう?ノクス様。夜食を持ってきましたよ」


そう告げると、ノクス様は少し驚いたように瞬きをした後、申し訳なさそうに目を伏せた。


「わざわざ申し訳ございません。姫殿下にそのようなことをさせてしまうとは」


机の上には、整理される間もなく積まれた書類が山をなしていた。その上の一部を退かし、私はそっと夜食を置く。


「さぁ、召し上がれ」


ノクス様は一瞬迷ったようだったが、素直に手を伸ばし、一口スープを口に運んだ。その様子を見ながら、私は心の中でくすりと笑う。やっぱり素直な人——そう思わずにはいられなかった。


ノクス様が夜食を食べている間、私は執務室の脇にある椅子を彼が座っている執務机のところまで引いてきて、腰掛けた。


「今日、ノエルと会ってみてどうでした?」


問いかけると、ノクス様はスープをすくう手を止め、わずかに視線を落とした。


「……家族というものがどういうものなのか、私にはよくわかりません」


少し考えるように沈黙した後、彼は静かに言葉を紡いだ。


「ただ……今日の姫殿下とノエルの姿を見て、不思議な気持ちになった、ような気がします。私が今まで見たことのない……家族の姿だった、ように思うのです」


その言葉に、私はそっと微笑む。


「家族の形は様々ですから。正解なんてないでしょう。私がノエルにしていたようなことも、ノエルにとって、家族として正しいのかはわからない。でも——」


ノエルに似たノクス様の綺麗な金色の瞳をまっすぐに見つめながら、私は続けた。


「私は、あなたとノエルと一緒に、温かい家族を作っていきたいと思っているの」


ノクス様の指が、無意識にスプーンを握りしめる。


「家族がどういうものかわからないなら、一緒に探していきましょう?わからないことは教えてあげます。そして、あなたのことも私に教えてほしいのです」


彼の目を見つめながら、私は静かに微笑んだ。


「そうやって、私たちだけの家族の形を作りましょう」



◇ ◇ ◇



その後、ノクス様は黙々と夜食を食べて、私はその様子をたわいもない話をしながらそばで見守っていた。そろそろ食べ終わるかというところで、私はふと目の前の書類が気になり、彼に聞いてみた。


「これを見ても?」


私が机上の書類の一つを指すと、ノクス様は少し驚いたように視線を上げた。しかし、すぐに「構いません」と淡々とした声で応じる。


手元にあった書類を手に取り、内容をざっと目を通す。財務関係の報告書のようだ。私も自分の領地の経営をしているだけあって、あらかた理解はできる。辺境伯領も特段うちの領のものと変わらないような書類だろう。


(これは…ノクス様が直接目を通さずとも、他の者にに任せられるものではないかしら?)


ちらりと顔を上げると、ノクス様が興味深げにこちらを見つめていた。すでに夜食は食べ終わっていたようだ。彼の金の瞳が、静かに揺れる。


「今日の仕事はどこからどこまでやるつもりなのです?」


私が問うと、ノクス様は手元の書類の束を軽く叩いた。


「これを終わらせる予定です」

「……そんなの、一人でやったら朝になってしまうわ」


思わず呆れた声が漏れる。


(量が多すぎよ。この人どれだけ仕事を抱え込んでいるの?)


「手伝っても?」


はぁ…とため息をついてから発した私の言葉に、ノクス様はわずかに肩を揺らした。


「…そんなことはさせられません」

「ノクス様。あなたは、仕事をしすぎです。ちゃんと休まないと」

「……でも、私のような人間にはこうするしか価値がないですから」


彼の声は低く、どこか硬かった。その一言に、私の胸が少し痛む。


(なるほど。ノクス様にとってこうした仕事をこなすことは、自分の存在価値そのもの…って思っているようね)


彼の過去、どこでそのような考えに至ったのかはわからない。しかし、これは簡単には解決しなさそうだと思った私は、彼に優しく微笑みながら机の上に置かれていた彼の手をとって、自分の手でその大きな手を包みながら、子供に言い聞かせるような穏やかな声色で言う。


「ノクス様。私はあなたを心配しているんです。こんな状態が続けばどんなに強い人間だって、倒れてしまうもの。それに、仕事だけじゃなくて、私やノエルとももっと一緒に過ごしてくれたら私は嬉しい。仕事を取り上げるつもりはないけれど……無理しないでほしいわ。一人で苦しい時は、なんでもいいの。私に言ってくださいね?」


目の前のノクス様は沈黙する。私の言葉の意味がすぐには理解できないようだった。でも、やがて小さく頷く。


「……わかり、ました。努力します」


それだけ。けれど、その頷きは確かに彼の心に届いた証のように思えた。


「ノエルは、時々夜中に泣くのです。でもそれはもう少し先の時間。それまで少しだけ、私も手伝いますね?」


そう言って、私は返事を待たずに書類を引き寄せ、仕事を始める。


「……ありがとうございます」


ぼそりとノエル様が呟く。

静寂の中、ペンの音と紙をめくる音だけが執務室に響いていた。

今回は夫婦のコミュニケーションの回でした…!


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