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馬車の揺れが心地よく、私は窓の外へと視線を向ける。風景が徐々に昨日見たような場所に近づいてくるのを眺めながら、先ほどのやりとりを思い出していた。
ホテルを出る時になって、私は旦那様に馬車に乗りましょうと声をかけた。旦那様を迎えに行くために来たのだから、もともと馬車を二台用意していたのだ。それに対して旦那様は自分は馬に乗って帰ると言って譲らなかった。しかし、私は彼が明け方近くまで仕事をしていたのを知っている。明け方のまだ空に太陽が上りきっていない頃に、喉が渇いて目を覚ました私は、窓越しに隣の部屋の明かりが漏れているのを確認していたからだ。きっと仕事をしていたのだろう。そのため、疲れているだろうから馬車に乗ってほしいと手を握りしめて頼んだところ、彼は少し考えた後に折れてくれた。
今、その旦那様は馬車の向かいの座席に静かに座っている。揺れに合わせて微かに揺れるマントの裾。ホテルの部屋を出る時から被っているフードなのだけれど、彼は未だに取ろうとしない。私は軽く息を吐いてから、優しく口を開いた。
「ここには私しかいないのですから、フードを取ってよろしいのですよ?」
一瞬、彼の肩がわずかに揺れる。視線を伏せ、躊躇うような仕草を見せた後、彼はゆっくりとフードを外した。現れたのは、本日も美しい黒曜石のような漆黒の髪。陽の光を受けて、柔らかく光を反射している。私は思わずうっとりとつぶやいた。
「はぁ……素敵な黒髪」
その言葉に、彼は困惑したように金色の瞳をこちらに向けた。けれど、否定はしない。ただ黙って、私を見つめている。その沈黙に気まずさを覚えることはなく、むしろ心地よい。少しずつ、私は彼に話しかける。旦那様はぽつりぽつりと短い言葉で答えるだけだったが、少しずつ私との会話に慣れてきているようで嬉しくなった。
そうしている間に、馬車は城へと到着した。まだ嫁いでからそんなに経っていないのに、どこか懐かしさと帰って来れた嬉しさを感じてしまう。たった1日離れていただけなのに、どうやら随分とこの城が気に入ってしまったらしい。
出迎える使用人たちは、侍従長であるライナーと家政婦長のノーラを筆頭に整列し、規律正しく佇んでいる。その姿に私は満足した。
(あの子たち、もう仕事をしてくれているようね)
息子を任せているミモザ以外の私の3人の侍女たちには、ライナーやノーラと協力して使用人を教育するよう指示を出してから出発していた。その成果が、たった一晩でここまで現れるとは思わなかった。さすがアンドレアが直々に教育しているだけあって、あの子達も全員やることが早い。
フードを被り直した旦那様が先に馬車を降り、そして入り口で少し戸惑うように動きを止める。周囲の視線が彼に集まる中、彼は勇気を振り絞るように、そっと私に手を差し出した。
瞬間、静寂が辺りを支配した。
ライナー、ノーラ、そして使用人たちと旦那様についてきていた騎士たち――その場にいたすべての者が、驚きに息を呑むのが分かった。私は思わず微笑む。
(この城では、こういったことがきっと初めてなのね…)
城の家臣たちの様子に苦笑しつつも、私はしっかりとその手を取った。
「戻った」
旦那様は静かに簡潔にライナーへそう告げる。
「おかえりなさいませ。ノクス様、姫殿下」
そう言ったライナーとその隣のノーラが深々と頭を下げ、私も彼らを労うように「ただいま」と微笑みかけた。そして、旦那様がノーラへと視線を向ける。
「家政婦長の座を引き受けてくれたと聞いた、ありがとう」
その言葉に、ノーラはにこやかに微笑みながら答えた。
「坊ちゃまと姫殿下のお力になれること、光栄に存じますわ」
そのやりとりを横で見守りながら、私は自然と表情を綻ばせた。そして、旦那様と共に城の中へと足を踏み入れる。
広がるのは、以前とは様変わりした空間だった。品の良い調度品や家具が洗練され、時代を感じさせる城の造りとうまく調和している。その変化に気づいたのか、旦那様の金色の瞳がわずかに和らいだ。
「気に入っていただけたかしら?」
そう問いかけると、彼は小さく頷いた。
「……良いと、思います」
その反応が嬉しくて、私は満足げに微笑む。
「さぁ、あの子が待ってるはずですわ。行きましょう?」
私は旦那様の手を取り、当主家族の部屋が連なるエリアへと向かう。すでに昨日手を繋いでいる姿を見ている私の側近たちは特段何も反応しなかったが、その後ろでライナーとノーラが驚いたように目を見開いていた。されるがままの旦那様の姿に、心なしかライナーもノーラも嬉しそうに微笑んでいた。
(こんな日常が私たちの当たり前になっていくといいわね)
そんな祈りを胸に抱きながら、私は旦那様の手を引いて歩き続けた。
◇ ◇ ◇
城の廊下を歩きながら、私は少し後ろからついてくる旦那様の手をしっかりと握っていた。結婚して一週間以上が経つというのに、まともに言葉を交わしたのはほんの数回。そもそも対面したのも昨日だ。視察を終えてようやく帰還したばかりの旦那様は、まだどこかぎこちない。
(それにしても、昨日から手を握っても特に何も言って来ないし、嫌…ではなさそうね?どうしていいかわからないだけなのかしら…?)
もっと旦那様の考えていることが知りたいと思いながら、彼の大きな手の感触を楽しみつつ、手を引いて歩いて行った。やがて、私たちの部屋の近くに差し掛かると、小さな影が侍女とともに立っているのが見えた。
(ノエルだわ)
私の姿を見つけた瞬間、ノエルの不安げだった顔がぱっと明るくなる。小さな靴が床を叩く音を響かせながら、まっすぐ私のもとへ駆け寄ってきた。私は旦那様の手をそっと離し、両腕を広げる。そして勢いよく飛び込んできた小さな体を、しっかりと抱きしめた。
「ただいま、ノエル」
私がそう囁くと、ノエルはこくんと頷く。しかし、その直後だった。
「……っ!」
小さな体が震え、大粒の涙がその金色の美しい瞳からぽろぽろと零れ始めたのだ。
「あら……?」
驚いた私は、ノエルの背中を優しく撫でる。最初はあんなに明るい顔で飛び込んできたのに、急に泣き始めてしまった。
(寂しかったわよね…。かわいそうなことをしてしまったわ)
そう思いながら、愛しさが胸の奥から湧き上がった。その年齢にしては賢く、ちゃんとしている子ではあるから少し忘れてしまいがちだけれど、まだまだ甘え足りない子供なのだだ。そもそもこれまで誰にも甘えることなどできなかった彼に、その分も含めて私はたくさん甘えさせてあげて、愛してあげなくてはならない。私はもう一度強く抱きしめ、いつものように額にそっと口づける。
「ごめんね。もう大丈夫。一緒にいるわ」
腕の中でしゃくり上げるノエルの体温を感じながら、私はそっと視線を横へ向けた。そして、思わず微笑みを零す。
旦那様が、先ほどまで私と繋いでいた自分の手をじっと見つめていた。フードの奥から覗く金色の瞳が、僅かに揺れている。その表情は無表情にも見えたが、どこか寂しげでもあった。
(嘘…!手を離したのが寂しかったのかしら?なんって可愛い人なの?親子揃って可愛いがすぎる…)
彼のそんな姿を見られただけで、私の心は不思議と温かくなる。私はまだグスグスと泣いているノエルを抱き上げると、彼をあやしつつ、まだ旦那様に見せていないノエルの部屋をこのまま見せることにして旦那様へと話しかけた。
「ノエルのお部屋もあるのですよ?行ってみましょうか」
彼は一瞬だけ躊躇したようだったが、頷いてついてくる。ノエルの部屋へ入ると、旦那様が目を瞬かせてから、じっくりと部屋を見渡した。
(反応は悪くなさそうだから、問題なさそうかしら?)
そう思いつつ、旦那様を観察していると、落ち着いてきていたノエルがじっと旦那様を見つめていた。その視線に気づいた旦那様もまた、無言で視線を返す。
(なんだか、不思議な空気になってるわ…)
私はふっと微笑み、二人を見比べながら口を開いた。
「ノエル、この方があなたのお父様のノクス様よ?」
その言葉に、ノエルは瞬きを繰り返す。そして旦那様は、わずかに視線を伏せた。生まれてすぐに引き離され、ほとんど会ったことのない父と息子。どう接していいのか分からないのは、きっとお互い様なのだろう。
「閣下も…、いえ家族になるのだし、他人行儀な呼び方は変よね…。ノクス様、この子があなたの息子のノエルですよ?」
そういうと、初めて私に名前を呼ばれたノクス様はじっと私を見つめ、一方でノエルはノクス様をじっと見つめた。
「私たちは家族。これからはいつも一緒にいましょうね?」
私がそう語りかけると、二人はまるで鏡のように、私をみて同じ表情できょとんとした。そのあまりのそっくりさに、私は思わず吹き出してしまう。
「ふふっ、そっくりなお顔!二人とも可愛いんだから」
くすくすと笑いながら、私は片腕でノエルを抱き直し、余った手でノクス様の手をしっかりと握った。
「これから3人で、たっくさんの素敵な思い出を作りましょうね?」
優しくそう囁いた私の言葉に、ノクス様の瞳がわずかに見開かれた。そのまま、彼は静かに頷く。
こうしてやっと、私たちの家族としての時間が始まったのだった。
テネブレイド辺境伯一家の初の家族としての時間でした!




