22
春の夜風が心地よく肌を撫でる。私はホテルのエントランスに佇みながら、街並みに瞬く灯りを眺めていた。商業都市だけあって、夜になっても街は活気を失わない。人々の話し声や馬車の音が、どこか穏やかに耳をくすぐる。
(そろそろ戻ってくるかしらね…?)
「そろそろですかね〜?姫様〜?」
ふとヴィヴィの、のんびりとした言葉に意識を引き戻される。私は「そうね」と静かに頷き、視線を前方に向けた。舗装された広い道の向こうに、馬に跨った数人の男性の影が見える。その中の一人、マントを羽織った人物に目を留めた。
(間違いないわ、あれが私の旦那様ね…)
周囲の騎士たちと並ぶ姿は堂々としている。控えめな街灯の明かりを受け、ひらりと翻るフード。その下に隠された顔はまだ見えない。だが、視線をそらすことができなかった。
「閣下がお戻りになられたようですね?」
いつの間にか少し後ろに控えていたアンドレアが静かに告げる。続けて、「ご用意なさったお部屋も整っておりますわ」と報告された。私は微笑みながら、軽く頷いた。
部屋の用意はもちろん、私は他にもやるべきことをすでに終えていた。
結論から言うと、私は大金を叩いてこのホテルを買い取った。そのため、すでにこのホテルのオーナーは私だ。旦那様たちとレオを見送った後、ギリギリ10分後にはオーナーが支配人に連れられて私の前に現れていた。その後、用意された最上階のスイートルームの一つに通された。そして、オーナーと支配人に対して、辺境伯である私の旦那様を泊めようとしないホテルの対応に激怒し、こんこんと説教を開始。辺境伯領主への無礼を糾弾し、さらには黒髪の美しさと尊さについて数時間ほど熱く語って聞かせてあげた。
(……オーナーも支配人も、最後の方は顔が死んでたのは何故かしら?せっかく私が丁寧に黒髪がどんなにありがた〜い存在かを聞かせてあげたと言うのに)
元々オーナーだった豪商は、私が提示したホテルを買い取る金額に大変喜んだ。そして利益さえ得られれば問題ないという態度で、あっさりと手を引いた。
そうしてホテルを自分のものにした私は、旦那様たちが帰ってくる前に、旦那様の部屋の用意をしっかりと進めたのだった。幸いなことに、もともと私たちのために最上階の部屋は全て確保してあったため、他の宿泊客に迷惑をかけることもなかった。私の隣の部屋に旦那様の部屋を用意する。
この都市は辺境伯領の重要な拠点の一つであり、視察の機会も多いと出発前にライナーから聞いていた。ならば、このホテルを旦那様の視察中の拠点にしてしまえばいい——そう考えたのだ。
旦那様と同行していたレオにも後ほど事情を話して、今後のホテル運営について相談しなければならない。
(これを機に、辺境伯領地の主要な都市にホテルを建設しようかしら)
あの様子だと、他の都市に行った際にも同様の扱いを受けている可能性が高そうだ。どんなに黒髪がこの大陸で忌避されようと、私の身内になった人たちを虐げることなんて許さない。色々とやることはまだありそうだと思いながら、私は考える。
だが、それはまた後のこと。今は、ようやく帰ってきた私の麗しの旦那様を迎えることが先決だった。
私は微笑みを浮かべながら、馬を降りる旦那様へと歩み寄った。馬上での移動の疲れを見せることもなく、旦那様は私が近づくのを確認すると、静かに頭を下げる。その仕草は礼儀正しく、けれどどこかぎこちない。
「お帰りなさい、閣下。ちゃんと戻ってきてくれて嬉しいですわ」
そう声をかけると、彼は一瞬きょとんとしたように目を瞬かせ、戸惑いを隠せない様子で私を見つめた。無表情なので少しわかりにくいが、何と返せばいいのか迷っているような、そんな表情。金色の瞳が僅かに揺らぐのを見て、私は心の中で可愛いわね、と思う。
(ノエルに似ているけれど、ちょっとまた違った表情で、これもまた…いいわぁ!)
「姫さん、ただいま〜」
代わりに陽気な声が響いた。視線を向けると、馬を預け終えたレオがいつの間にか旦那様の横に来ていて、にこやかな笑顔で応じてくる。レオのその様子を見ていた旦那様は、まるで学ぶように視線を巡らせた後、少しだけ眉を寄せ、静かに口を開いた。
「……ただいま戻りました」
少し遅れての言葉に、私は思わず微笑む。その様子はまるで、知らない作法を覚えようとしている子どものようで、どこか愛らしかった。
「えぇ、二人ともお帰りなさい。さぁ、早く行きましょう。こっちよ!」
私は自然と目の前にあった旦那様の手を取る。大きい彼の手のふわりと暖かい感触が掌に広がった。繋がれた手を見つめ、彼は再び瞬きを繰り返す。その瞳には、不思議そうな戸惑いが滲んでいたけれど、振り払うこともせず、ただ静かに握られるままだった。
エントランスに入らずにそのまま素通りして、私たちは通常のホテル客が通るのとは別の入り口へと向かう。今までなかったその入り口を見た旦那様は、再び目を瞬かせる。増設されたそのエントランスをじっと見つめる彼の横で、レオが溜息混じりに問いかけた。
「もしかして、もしかしなくとも……このホテル、やっぱり買ったのか?」
「もちろんよ?」
私がにっこり笑って答えると、レオは想定の範囲内だったのか苦笑しながら肩をすくめる。一方の旦那様は、驚いたように小さく息を呑んだ。わずかに見開かれた金色の瞳は、何かを言いたげに揺れている。
「ここは私たち専用のエントランスよ。あなたたちが帰ってくる前に、土系統魔法で増設したの」
説明すると、彼はゆっくりと視線をエントランスの扉へと戻した。唇がわずかに動いたが、言葉にはならなかった。そんな旦那様の驚きと困惑が入り混じる表情を眺める。
(魔法ってほんとうに便利よねぇ)
そのまま手を引いてエントランスを通り抜け、誰にもすれ違うことなく最上階のスイートルームへと向かう。室内は、あの豪商が作ったにしては驚くほど上品なインテリアだった。質の良い家具や、品のある芸術品が飾られ、しっかりとした高級感が漂っている。
「ここが閣下の部屋で、隣が私の部屋。その先の角を曲がったところがレオたちの部屋よ」
そう手を繋いだまま説明すると、レオは「じゃあちょっと見てきます」と軽い調子でその場を離れていった。
「閣下の騎士たちの部屋も別の場所に用意しているから、安心してくださいな」
そう伝えると、彼は私をじっと見つめる。そして、視線がふと下がり、繋がれていた手へと向けられた。その仕草に気づき、私は「あっ」と小さく声を上げ、慌てて手を離す。
「ごめんなさい、つい……」
(黒髪に金眼でノエルに雰囲気似てるからついついノエルにやるように手を握ってしまったわ…)
旦那様は僅かに目を見開き、ゆっくりと瞬きをした。
「……私が恐ろしくはないのですか?」
低く静かな声だった。
「それと、不快ではないのでしょうか?」
彼の問いに、私はきょとんとする。
「恐ろしい? 不快? どうしてです?」
問い返すと、彼の視線が僅かに揺らぐ。まるで、自分が当たり前だと思っていたことを否定され、答えに迷っているような表情。それをみて、ノエルと始めて会った時のことを思い出した。呪われてるから…と傷ついた表情をしていた私の愛する黒猫ちゃんと同じような寂しげな雰囲気を漂わせている。そんな旦那様の目をしっかりと見据えて言い聞かせるように私は言う。
「私は閣下の黒髪を恐れることも、不快に思うこともないですよ?むしろ……」
私は口元に笑みを浮かべた。
「黒髪が好きなんですもの。問題どころか、ずっと眺めていたいくらいだわ?」
ふふっと笑いながら言ったその言葉に、彼はわずかに息を呑む。金色の瞳が大きく見開かれ、初めてわかりやすく驚いた表情を浮かべた。そんな顔を見たのは初めてだった。
(か…可愛い。可愛いわこの人)
私は思わず笑ってしまう。
「お仕事お疲れ様でした。少し休んで、それから着替えて食事にしましょう?」
「……一緒に食べるのでしょうか?」
「もちろん!一緒にいるのだから一緒に食べて当然でしょう?」
「……そうですか」
「えぇ、そうです。着替え、手伝いましょうか?」
「……いえ、一人で大丈夫です」
そう言われ、私は「そう?」と微笑み、彼を部屋に残して自分の部屋へと戻る。扉を閉じる直前、旦那様の視線が、まだ何かを考えるように私の手元を見つめているのがわかった。その様子がどことなく彼の息子であるノエルに似ていて……
(ほんっとに可愛いわこの人)
私は思わずまた、ふふっと笑ってしまう。そうして私たちは一旦別れ、夕食の場でまた顔を合わせることにした。
自分好みの旦那様の仕草や表情にいちいち可愛いとなっているアイリスと、戸惑いでいっぱいの旦那様です。




