16
深夜、静寂に包まれた寝室の中で、私はふと目を覚ました。かすかな寝息の合間に、すすり泣くような音が混じっている。隣に寝ているはずのノエルだった。
(また、かしら…?)
薄暗がりの中、彼の小さな身体は丸く縮こまり、細い肩が震えている。夢を見ているのだろうか。声をかけるべきか迷いながらも、私はノエルの頬をそっと撫でた。「ノエル…?」と囁くと、びくりと身体を震わせ、金色の瞳が潤んだまま私を見つめる。
「どうしたの?」
ノエルは何も言わず、ただ涙を零した。頬を伝う涙の跡が月明かりに光る。私はそっと彼の肩を抱き寄せ、優しく背中を撫でた。しばらくそうしていると、涙の粒がぽたり、ぽたりと落ちる音が聞こえ、やがて呼吸が落ち着いてきた。
「怖い夢を見たのかしら?」
こくりと小さな頭が揺れる。それ以上は語らないが、それだけで十分だった。抱きしめる腕の中で次第にまぶたが落ちていく。ノエルの額から乱れた髪を払って、そっと口づけると、安堵したように息を吐き、そのまま深い眠りに落ちていった。最近寝る前に、愛情表現も兼ねて、ノエルの額にキスをするのが習慣になっていた。キスを贈るととっても嬉しそうにするので、ノエルが可愛すぎて一回やってしまってからも続けていた。どうやら彼にとって、この愛情表現は安心感を覚えるようだった。
(やっぱり、誰かに相談したほうがいいかしら…)
私はそっと彼を抱きしめ直し、自分も再び目を閉じる。ノエルが魘されるのは、過去の経験が影を落としているのかもしれない。出会ってから数日が経ち、少しずつ慣れたように見えても、心の奥にまだ不安や恐れが残っているのだろう。
(ノーラという旦那様の乳母なら、何か知っているかもしれないわね)
明日、家政婦長を引き受けてもらえないかと正式に打診をするために旦那様の乳母だったというノーラに会う予定だった。同じ黒髪の旦那様の幼少期を知る人物で子供を世話したことのある彼女なら、何か手がかりが得られるかもしれない。そう思いながら、ノエルの温もりを感じたまま、私はゆっくりと眠りに落ちた。
翌朝、明るい陽射しが窓から差し込み、カーテン越しに淡い光が揺れていた。朝食の席には、いつものように私とノエルが並んで座る。
今日の私は、薄い若草色のドレスを纏い、白い花の刺繍が柔らかい雰囲気を演出している。ノエルもまた、私の装いに合わせた白いシャツと若草色の膝丈のズボンを身に着け、胸元には可愛らしい大きなリボンが結ばれていた。
小さな手で器用にスプーンを使い、穏やかな表情で朝食を口に運ぶノエル。ここ数日でしっかり食事を摂るようになり、規則正しい生活を送るようになったことで、顔色は良さそうだ。
「今日は使用人たちと顔合わせがあるのよ」
私がそう言って今日の予定を伝えると、ノエルの金の瞳が私を見上げる。
「誰?」
「そうね…。まずは、あなたのお父様を育てた乳母だった女性かしら?」
「お父様の…」
ノエルは少し考え込むように視線を落としたが、特に何も言わずに頷いた。その様子を観察しつつ、私は壁際に控えていた侍女の中から、ミモザを呼んだ。
「ミモザ。ちょっといいかしら?」
「はい、姫様」
ミモザが私の呼び声に答えて、近くまで歩み寄る。それを不思議そうに見つめるノエルに向かって微笑みながら私は言った。
「一応、ノエルにも世話役が必要だと思ってね。ここ数日、私の侍女たちとも過ごしていたと思うけど、ミモザにノエル付きの侍女としてついてもらおうと思うの。どうかしら?」
私の言葉に、息子は目を瞬かせた。ミモザは穏やかに微笑み、丁寧に一礼する。彼女の雰囲気に安心したのか、息子はゆっくりと彼女を見上げる。
だが、その表情がふいに翳った。
「……じゃあ、もう、アイリス様とは一緒じゃないの?」
私の胸がきゅっと痛む。侍女をつけることで、自分と引き離されるのではないかと不安になったのだろう。
ノエルの小さな手をそっと包み込み、私は微笑む。
「ノエルが望むなら、私はずっと一緒よ。この城にノエルの部屋も用意するつもりだし、これから一人で城内を行動することもあるかもしれない。だから、ミモザを付けることにしたの。でも、まだもう少し私と一緒にいてくれたら嬉しいわ。ノエルと離れてしまったら、私が寂しいもの…」
その言葉に、ノエルはほっとしたように小さく息を吐いた。そして、ぎゅっと私の手を握り返す。
「…わかった」
私はそんなノエルの表情をみて少し安心し、彼の不安が少しずつ癒えていくように願いながら、そっと背を撫でた。
◇ ◇ ◇
執務室の扉が静かに開かれ、年嵩の使用人の女性がライナーに伴われて入ってきた。書類に目を落としていた私は、彼らの気配に気づき、ゆっくりと立ち上がる。
部屋の中では、ノエルがいつもと同じようにソファに腰掛け、本を読んでいた。しかし、新たな来訪者に気づくと、ぱたんと本を閉じ、素早くソファから降りる。そして、執務机の前まで歩いてきていた私の方へやってくると、さささっと私の斜め後ろに回り込み、小さな手でドレスの裾をぎゅっと掴んだ。ちらちらと入ってきた大人たちを見つめるその目には、不安と警戒が入り混じっている。
(か…可愛い…!!子猫ちゃんが警戒してる感じね?やっぱり私の黒猫ちゃんは可愛いわぁ)
そんなことを思いながら、寄ってきたノエルの頭を撫でる。使用人の女性は栗色の髪に茶色の瞳を持つ、温かみのある雰囲気の人だった。入室すると丁寧に一礼し、私に向かって挨拶をする。
「初めまして、アイリス姫殿下。私はこちらの城で長年働かせていただいておりますノーラと申します」
そして、すぐそばにいるノエルの姿を認めると、柔らかな笑みを浮かべた。
「まあ、ノクス坊ちゃまにそっくり。あなたがノクス坊ちゃまのご子息ノエル様なのですね。初めまして」
明るい声が室内に響く。名前を呼ばれたノエルはさらに私の背後に身を隠し、じっと女性を見上げた。その様子を見て、彼女は少し微笑む。「さぁ、座ってちょうだい?」そう私が言って、先ほどまでノエルが本を読んでいた執務机の向かいにあるソファーにそれぞれ座ってもらった。
「いきなり呼びつけてごめんなさいね?ライナーから頼りになりそうな使用人はいないか聞いたら、あなたの名前が上がったものだから」
「あら。そうだったのですね?」
「えぇ、この城の使用人たちからも慕われていると聞いたわ」
私の言葉に苦笑しながらも「ただ、この城に長年仕えているから色々と知っているだけですわ」と謙遜するノーラ。話は私の旦那様のことに移る。
「あなたが辺境伯閣下の乳母をしていたと聞いたのだけど、それは本当かしら?」
その言葉に微笑んで頷くノーラ。「ただ…」と続けて少し申し訳なさそうに言う。
「乳母とはいえ、私がお世話をしたのはノクス坊ちゃまが5歳の頃からですから、本当に身の回りの世話をさせていただいた程度なんですよ」
話を聞くと彼女は、私の旦那様の祖父に仕えていた古参の使用人で、幼少期の旦那様が母君の住む別館からこの城へ移った時に、当時ご存命の先先代より世話係を任されたのだという。
「ですから、本当に大したことはしていないんです。ただ、私のような古い人間が今さらお役に立つのかどうか……」
ノーラは控えめに言ったが、私は静かに首を振った。
「いいえ、ぜひ力を貸してほしいの。この城の人員配置を見直し、適切な改革を進めたいと考えているわ。あなたのように長く城を知る人の助けが必要なのよ。よければ家政婦長として、私とこの城を支えてくれないかしら?」
ノーラは驚いたように目を瞬かせたが、やがて私の真摯な視線を受け止め、口元を緩めた。
「私でお役に立つのであれば、喜んでお引き受けいたします」
そう言って深く頭を下げる。私はその言葉に安堵した。
(彼女とならうまくやっていけそうね)
「ありがとう。これから、よろしくね」
「はい。よろしくお願いいたします」
そのやり取りを静かに聞いていたノエルは、まだ警戒を解ききれない様子だったが、私が安心した顔をしているのを見て、小さく息をついた。そして、ぎゅっと掴んでいたドレスの裾を少しだけ緩めたのだった。
ノーラが仲間になりました!
次回、執事長や先先代に仕えていた家臣たちについてです。