10
昼下がりの陽光が、カーテン越しにやわらかく差し込んでいる。寝台の上でノエルがゆっくりと身じろぎし、長いまつげがかすかに震える。そんな様子を私は寝台の端に腰掛けて眺めていた。
(そろそろお目覚めかしら?)
次の瞬間、ノエルがぱちりと瞳を開けた。目覚めた彼は、いつもと違う場所で目覚めたためか、不安そうにキョロキョロと周囲を見渡した。どこだっけ?というようにその小さな表情には戸惑いが浮かんでいる。そして、寝台の端に腰掛けて自分を見つめていた私を確認すると、その表情が少しだけ和らいだ。
「……おはよう、ございます」
「おはよう、ノエル。よく眠れたかしら?」
「うん!…じゃなくて、はい!いつもと違ってとっても心地よかった…です!」
まだ幼いながらも、3歳児にしては落ち着いた口調だった。「うん!」と年相応な返しを間違えたというふうに丁寧な返しに変えて返事をする。昼寝前はお腹も空いていてあまり調子が良くなさそうだったのもあり、初対面の大人たちに囲まれて余裕がなさそうだったが、今はしっかり食べて寝たことで、思考回路がはっきりしてきているようだった。
(元々とっても賢い子なのね…)
頑張って丁寧な言葉使いをしようと背伸びしているように見える小さな子を前に、私はなんとも言えない気持ちになった。とても可愛いけれど、まだ3歳なのだ。もっと幼くても良いし、甘えたって良い。等身大のそのままでありのままを伝えてくれて良いと思うのだ。
そんなノエルに私は言った。
「うん!…でいいのよ?話したいように話していいの」
ノエルは目を丸くした。
「…いいの?」
その問いには、戸惑いが滲んでいた。どうやら、誰かに話し方を注意されたことがあったようだ。アイリスは微笑みながら頷いた。
「えぇ、もちろんよ。ノエルはノエルのまま、話したいように話してくれたら私も嬉しいわ」
「嬉しい…?」
ノエルは私の言葉に戸惑う表情を見せた。そして、しばし考えた後に小さく頷いて、少し緊張しながらも、少し幼い口調で言葉を紡ぐ。
「……ん、わかった」
アイリスは優しく微笑みながら、彼の髪をそっと撫でた。ふわりとした感触が指に伝わり、そのあたたかさに心が和らぐ。ノエルは頭を撫でられる機会があまりなかったのか、少しとろけた表情で気持ちよさそうにされるがままになっていた。
(はぁぁ!なんって可愛いのかしら!!)
今世では久しくお目にかかれなかった黒髪である。ノエルそのものが可愛らしい子ではあるが、そこに黒髪という要素が取り入れられて、私はさらにこの世のものとは思えない可愛らしさと愛しさを感じていた。
そろそろ移動をしようかと、ノエルの頭を撫でるのをやめて立ちあがろうとする。すると頭から撫でる手が離れたのが寂しかったのか、彼は少し残念そうな顔をした。
(いちいち可愛いわ…なんてことでしょう!!)
その仕草にも内心悶えながら、表面上は顔に優しげな微笑みを浮かべたまま私は耐える。これでも王女なのだ。表情管理はお手のものである。可愛い黒猫ちゃんに残念な顔をさせてはいけないと、立ち上がった私は彼に向かって腕を広げた。
「さぁ、あっちのお部屋に行きましょう!おいで?」
ノエルに向かって腕を広げた私を見て、彼は一瞬戸惑ったように瞬きをしたが、やがて少し嬉しそうな表情を浮かべて私のもとへと近づいた。私はそんな彼を優しく抱き上げて、隣の部屋へと向かった。
そうして隣の部屋のソファに座り、ノエルを膝の上に抱いたまま、私はゆっくりと口を開いた。
「ねえ、ノエル。大切な話があるわ」
私の言葉にノエルの瞳がゆるやかに揺れたが、こくりと頷いて私の次の言葉を待っている。
「私はアイリス、そう自己紹介したわね?どうして私がここにいるのか話していなかったでしょう?」
そう、私はノエルに自分の名前は教えたが、その素性は明かしていない。そういえばというような顔をしてノエルは私を見ている。
「私はね、ノエルのお父様と結婚したの。だから、これからは私があなたの……新しいお母様になるのよ」
静かな空気が流れた。ノエルはしばらく黙ったまま、じっとアイリスを見つめる。その幼い顔には、複雑な感情が浮かんでは消えた。
「……お母様、ですか?」
「そうよ。もちろん、無理にそう呼ばなくてもいいの。でも、私はノエルのことを本当に大切に思っているし、あなたをずっと守りたいと思ってる。今すぐには難しいかもしれないけれど、あなたと家族になりたいと思ってるわ」
ノエルは小さく唇を引き結んだ。そして、しばらく考えた後、そっと呟くように言った。
「……アイリス様は、本当に……僕のお母様になってくれますか?」
その言葉には、どこか慎重な響きがあった。彼の幼い心には、これまでの孤独や不安が色濃く残っているのだろう。
私は微笑みながら、ゆっくりと頷いた。
「ええ、もちろんよ。ノエルがどんな時でも、私はあなたのそばにいるわ」
その言葉に、ノエルの小さな肩がわずかに揺れた。そして、ためらいがちにアイリスの手をぎゅっと握って言った。
「でも…僕は呪われた子だってみんな言ってて…。お、お母様も僕のこと嫌ってた…」
自分の母を思い出したのか、その綺麗な金色の目にはじわじわと涙が溜まっていく。
「みんな僕に近づきたくないって、なんでこんな子供を世話しなきゃいけないんだって言ってて…。誰も僕のこと好きじゃないって…ずっと思ってて」
ノエルの目に溜まった涙は決壊したようにボロボロと溢れて頬を伝っていく。
「本で読んだ物語の中では、子供はお母様に大好きだよって言われてた…。いいなって…ずっと思ってたけど、僕みたいな子はきっとそんなふうに言われないって…」
溢れた涙と一緒に、今までの悲しい孤独な心も悲鳴をあげたように堰を切って溢れ出したのだろう。ボロボロと溢れていく涙に切なくなりながら、私はその涙を丁寧に拭っていく。
(きっとたくさん、たくさん気持ちを溜め込んでいたのね…)
自分を嫌う者たちに囲まれた生活の中で、本来は一番子供に寄り添うべき母親にも頼れなかった。幼いこの子の小さな身体で受け止めるには辛く苦しい日々だったはずだ。
私はそんなノエルを、強く抱きしめた。抱きしめた胸元にノエルの涙の跡が広がっていく。そして彼を抱きしめたまま、私がノエルを想う気持ちがどうか伝わりますようにと祈りながらゆっくりと優しく言った。
「あなたは私の大好きな息子よ…。まだ出会ったばかりだけれど、あなたが愛しくてたまらないわ。あなたのような息子を持てて私は幸せ者ね。不安にならなくなるまで、ずっと言い続けるわ。大好きよ」
小さな肩を震わせながら、ノエルは嗚咽混じりに涙を流す。涙はさらに溢れ、止まらなくなった。
「……うぅ……ぐすっ……!」
私はそんなノエルの頭を撫でながら、彼を改めてしっかりと抱き寄せた。私の腕に包まれながら、ノエルは私の胸に顔を埋め、しゃくりあげながら涙を流し続けた。
(泣きたい時には泣けばいいのよ…。我慢する必要なんてないの…)
私は何も言わず、ただノエルを抱きしめ、寄り添い続けた。
その涙が尽きるまで、ずっと。