第3章 王の詩人②
こんなところで出会うことになるとは思わなかった。
けげんな表情をして、ユバルがエステルの顔を見ると、彼女はそっと自分の唇に指をあてた。
「秘密よ。本当はこれ、文字に起こすことを禁じられているの。用が済んだら、この紙は焼き捨てる。その前にあなたに語ってみてもらいたい」
なぜおれに、とユバルが問うと、エステルは複雑な笑みを浮かべた。
「この物語のまじないの力を試したいからよ」
「あんたじゃいけないのか」
「だめだったのよ」
疑りぶかく質問をかさねたユバルに対し、エステルは唇をかんだ。
「王立の音楽学校を首席で卒業し、国王陛下から認められたわたしが……当代の宮廷詩人の頂点としてこれを伝えられて、いざ語ってみれば、まじないの力はあらわれなかった。わたしのリュートは完璧だった、そう思ったのに!」
そう言ってから、エステルは深呼吸した。そうして気持ちを整えて、ユバルを見つめる。
「だから探していたのよ。わたしの代わりに、『失われた物語』の力を引き出せる詩人をね」
「それで、おれに目をつけたのか」
「そうよ。だから、やってみてほしい。この部分を正しく語り、奏でることができたなら……多くの野の鳥が詩人のもとに集うというわ、言い伝えによればね」
できるでしょう、とエステルは言う。
「鳥獣や木石の心をも動かす吟遊詩人、西のユバル。あなたなら」
「……やってみよう」
ユバルは竪琴を構えた。物語が始まりそうなのを察したノアが、期待顔で馬を引き、詩人たちに近づいた。
それに気づいたヨアシュがさっと動き、少女の目の前に立った。
「悪いが、この物語は秘伝だ。多くの人に知らせたくない。少し離れていてくれないか」
見おろされたノアが足をすくませて立ち止まる。気づいたユバルは、ヨアシュに向かって声を上げた。
「詳しくはあとで話すが、そいつは最初から蚊帳の外じゃない。ここで物語をきく権利がある」
ヨアシュが意を問うように、エステルの方を見た。女詩人は付き人に頷きかけた。構わないわ、と言い、固まったノアに向かって、優しい微笑みを浮かべた。
「どうぞ、一緒にきいてちょうだい」
そうして同席を許されたノアは、ひとつ星の綱を手近な枝につなぎ、ユバルの側に駆け寄った。
エステルとヨアシュは緊張した面持ちで、物語に目を通しているユバルを見守る。
やがてユバルは顔を上げると、ノアをそば近くに手招き、紙を渡した。
「見えるように持っててくれ」
ノアは丁重な手つきで、言われたとおり紙を持ち上げた。ノアからは、物語が書かれた方を見ることができない。
「……今度のは、どんな話?」
「緑の騎士が、傷ついた小鳥を助けるんだ。その小鳥が、恩返しにと隠し財宝の在り処へ騎士を導く。財宝への旅の話だよ」
物語に目をやり、竪琴を軽く爪弾きながらも、ユバルはそれなりに丁寧に答えた。
物語の荒筋を言葉にすると、曲をつけるための考えがまとまりやすい。物語の内容をどう伝えるかということは、どう奏でるかということに繋がっていくからだ。そのことを知ったのは、一人旅が終わってからのことだ。
新しく知る物語を演唱するにあたって、ノアという同行者の存在は、ユバルにとって予想しなかった効をもたらしていた
そして、物語がはじまった。
やはりユバルの演奏と朗読は巧みだった。緑の騎士が小鳥の導きで財宝に至るまでの道のりを、いとも楽しく表現してみせた。
エステルは息を詰めて、竪琴を奏でるユバルの手元を凝視していた。ヨアシュさえも腕を組み、じっと目を閉じて、きき入る様子を見せている。
物語の断片は短く終わった。竪琴の旋律を消え入らせて一息ついたユバルは、二、三度あたりを見回した。
「……何も起こらないが」
目を合わせたエステルは、安堵したような、落胆したような、複雑な表情をしていた。
「だけど、あなたは完璧に語ったわ。そうでしょう?」
ユバルは答えなかった。その自信は確かにあったし、西の都で起きたことが偶然でなかったのなら、自分にはできるはずなのだ、物語の力を引き出すことが。
ユバルが考え込んだときだった。ノアが唐突に、ねえ、と口をはさんできた。
「なんて言ったらいいのか……その物語、少し気持ち悪かった……」
「気持ち悪い?」
驚いたユバルが、ノアの方を見る。ノアの口から、歌や物語をけなす言葉を聞くのは初めてだ。
ユバルの表情を見たノアはあわてて、違うの、と右手を振った。
「気持ち悪いのはユバルの語り方じゃない。そうじゃなくて、肝心の物語の方が、なんだか、おかしい」
「どういうこと?」
そう声を上げたのは、エステルだった。
「どうおかしいと感じたの?」
いきなり全員の視線が自分に集中したことで、ちょっと気圧された様子を見せたノアだったが、少し考えるそぶりを見せると、しっかりと話しはじめた。
「変に感じたのは、文章。全部が全部じゃないけど、それ、ところどころ間違ってるんじゃないかな……」
間違いとは、とユバルが問うと、ノアは持たされていた紙をひっくり返して見た。
「本当に小さなことばかりだけど。言葉遣いが正しくないような、抜けちゃいけない一文字が抜けているような。そんな感じ」
「それ、おまえに正せるか」
愛馬の背中にくくりつけた荷袋のひとつをあさりながら、ユバルはそう聞いた。ノアが難しい顔をする。
「正すというより、わたしが気持ち悪いと感じないようになら」
「それでいい。やってみてくれ」
そう言ってユバルは、荷袋から取り出したペンと、皮布で厳重にくるんだインク壺を、ノアの手に押しつけた。両手に書くものを抱えて、ノアはエステルの方を見た。
「これ、書き込んでもいい?」
女詩人は頷いた。
「かまわないわ。もともと、焼き捨てるつもりだったし」
そしてエステルは、少女が地面にあぐらをかき、真剣な様子で物語と向き合うのを眺めつつ、ユバルに問いかけてきた。
「この子が何者なのか聞きたいわ。ただの同行者じゃないでしょう?」
ユバルは頷いた。
「ノアは、歌い人の娘だ。古代語はこいつにとって、おれたちが今話しているこの言葉と同じ、感覚にしみついたものに違いないんだ」
エステルは、ぎょっとして目を見開いた。
「歌い人は実在したの……」
「ああ。おれは確かにこの目で見てきた」
「そうなの。荒唐無稽なおとぎ話だとばかり……」
ユバルは肩をすくめた。
「大神官もそんなことを言っていたよ。そんなに信じられないことなのかとも思ったが……おれは田舎の出だからな。おれの故郷じゃ、迷信もおとぎ話も、都よりはずっと本当らしさをもって語られてるよ。最初から都人なみの教養でもあれば、おれもかえって、歌い人の伝説を歯牙にもかけなかったかもしれない」
そう言われてエステルは、ユバルを静かに見返してきた。
「何もないところから、あなたは、ここまできたのね」
「そうだよ。何をやるにしたって自力だった」
エステルは、後ろめたそうに目を伏せた。
そうこうしているうちに、ノアがぱっと顔を上げた。できた、と言って、書きこみを入れた紙をユバルに差しだす。
「これで、うまくいかないかな」
心もとない表情のノアに、ユバルは軽い調子でこう返した。
「やってみないとわからないさ」
ユバルは、受け取った紙を片手にエステルとヨアシュを振りかえった。そうしてエステルに向かって、物語をすっと差し出した。
「やってみなよ。あんたの演奏も完璧だったんだろ?」
差し出された紙を、エステルはためらい顔で見つめた。
「どういうつもり? あなたの側の知識でしょう?」
「おれじゃなくて、ノアの知識だ。それに、ちょっと文章が変わっただけの同じ物語、同じ詩人が続けて二回も語るなんてつまらない」
だから、と言って、ユバルは無理やりエステルに紙を押しつけた。
「語ってみなよ、もう一度。あんたが見つけた手がかりなんだ、権利はあるだろう」
ユバルを見上げて、エステルは困ったような笑みを浮かべた。
「……ありがとう」
そう言うと、エステルは表情を引き締めた。それを合図に、ヨアシュが立ち上がる。
ユバルの手から物語を受け取ったのは、近づいてきたヨアシュだった。一瞬交差した視線、王宮詩人の付き人の黒い瞳からは、ユバルへの敵意は薄れていた。
そのあいだに、エステルがリュートの調律をしていた。
ヨアシュがてきぱきと譜面台を設置すると、準備は整った。
エステルが横目にちらとユバルを見、小さく息をつき、物語は始まった。
物語は女詩人の語りとリュートの音色によって、新たな色を得た。ノアは息をつめてそれを聞いていた。
新鮮だった。なじんだユバルの声と竪琴、それ以外の語り手による物語を耳にするのは、思えばノアにとっては初めてのことだった。
エステルの語りは、ユバルのそれとは正反対だ。澄みきった声はふるえるように響き、どこか儚い。力強さは足りないながらも、その優美さ柔らかさは、ユバルにはない。
ノアが隣を見ると、ユバルは腕を組んで目を閉じていた。その口元には小さく笑みが浮かんでいる。
さっきまで腹を立てていたのに。ノアは小さく微笑んだ。ユバルとエステルが共にうたう歌をいつか聴いてみたいと、そう思った。