第2章 西の都③
その章は対話形式で書かれていた。その内容は、主人公たる緑の騎士と、彼のもとに現れ、彼の運命を予言する神とのやり取りである。
儀礼のための空間によく響くユバルの低い声、それは繊細さ甘さには欠けるが、芯の通った力強さがある。恋歌や子守唄よりも、いくさ歌や英雄物語がよく似合う声だ。
対して、竪琴の演奏にあるのは素朴な温かみだった。ユバルの楽への愛情や誠実さは、こちらににじみ出ていると、ノアは思う。
どちらも大好きだった。ノアは講壇の上で腕組みした。顎を乗せて目を閉じると、ユバルの声と竪琴の音に聴き入った。
ノアの頭の中に、輝いていて顔の見えないひとと、さっき天井画で見た緑の男が浮かぶ。
彼らはユバルの声でしゃべった。竪琴の音は緑の男の表情になり、輝くひとの身ぶり手ぶりになった。ユバルの演唱によって、物語がいきいきと動いているのだ。
その不思議で心地よい時間は、唐突に響きわたった鐘の音で幕を閉じた。
物語が強制的に途切れさせられたようでもあったが、そうではなく、物語が終わった瞬間に、大神殿の尖塔の鐘が鳴り響いたのだ。
ノアがびっくりして目を開けると、視界に映ったユバルも竪琴を抱え、ぎょっとした顔をしていた。大神官さえ訝しげに首をひねる。
鐘の音はさほど長くは続かず、余韻を残してまもなく消えた。そのとき、礼拝所の両開きの扉が、バン、と音を立てて開いた。数人の神殿兵が飛びこんできて、マナセのもとへ走り寄る。
「大神官さま、これはいったい……」
「何が起こっている。誰かが鐘を鳴らしたのか」
「いえ、誰も鐘つき場に近づいてもいません。あたりの人々も驚いていて……」
「先に行っていなさい。みなには、わたしがうまく説明しよう」
再び駆けだして行った神殿兵たちを見送ると、マナセはくるりとユバルとノアに向きなおり、いきなり満面の笑みを見せた。
「……すばらしい!」
ユバルは小さく眉をひそめ、ノアはびくついて一歩下がった。マナセは顔を輝かせながらこう言う。
「いいかね。尖塔の鐘は古い時代の遺物であり、もう何百年も使われていないものだ。それが、ここに伝わっていたこの物語、きみがそれを語り終えてから、誰も触れないのにあの鐘が鳴った……」
困惑しているユバルを前に、マナセは紙の束に手を触れた。
「おそらく、この『失われた物語』の力だ。まじない歌のように、この物語にも間違いなくまじないの力がある。この断片でも発揮される力が」
「物語の力? 鐘を鳴らしたのが……」
「そうだ。そして、きみ自身の才がもたらしたものでもある」
ユバルに向けられたマナセの目が、期待に輝く。
「きみは、物語に正しい音をつけられる詩人なのだ。ただ美しく正確に物語を彩るだけではない。それは、まじないの力すら引き出す音だ」
ユバルに対して、東へ向かいなさい、と大神官は言った。西の大神殿と対をなす東の王宮、そこにも何か貴重な資料があるかもしれない、と。
そして、ノアに問いかけたのだ。
「ユバルについていくのかね?」
「もちろん」
即答したノアに、マナセが目を細める。
「良かったら、きみはここに残らないか。我々の知らないことがらについて、いろいろと教えてもらいたいのだが」
突然の申し出だ。目を白黒させたノアをよそに、大神官、とユバルが声を上げた。
「申し訳ないですが、こいつは連れて行かせてください。ひとつ星ともうまくやってくれるので、けっこう助かってるんです」
「……どうするね?」
苦笑のまじった表情で、マナセはノアに意思を問いかけた。
ノアはにっこりと笑みを返した。他ならぬユバルがこう言うのだ。少しも迷わない。
「ごめんなさい、大神官さま。わたし、ユバルと一緒に行きたい」
ユバルはマナセに、いいですね、と言った。
「こいつも連れて、おっしゃる通りおれは東に行きます。国王に目通りがかなえばいいですが」
マナセは、残念だがしかたがない、と肩をすくめた。
「きみなら大丈夫だ。東で歌ったことはないようだが、名前くらいは、もう向こうでも通っているようだよ。東からの参拝者に聞いたことがある」
「そうですか。それは心強いな」
「西の大神官として、わたしも鼻が高いよ」
その言葉に、一瞬ユバルの表情がこわばった。ノアにはそう見えた。
だが、そのあとは笑顔で、ユバルはマナセに別れを告げた。
外はまだまだ日が高い。都の街道は賑わいに満ち、光に満ちている。
入口で神殿兵から剣を返してもらって、参拝客用の馬小屋へひとつ星を迎えに行くと、小屋の番人があからさまにホッとした表情を見せた。この気難しい馬がどんな様子でいたかは知らないが、ユバルは小さく頭を下げると、番人の右手に金貨を一枚握らせておいた。本来の預け賃よりも多い額だ。
馬の引き綱を手にすると、ユバルは再び街道を歩き出した。
「どうしてこんなにすぐ、都を出るの?」
ここまで黙りこくったままだったユバルに、ノアはやっと声をかけた。
「大神官さまも、泊まっていけばいいと言っていたのに」
「おれはあの人を信用してない。人として好きじゃない」
いつになくきつい口調で言ったユバルに、ノアは恐る恐るなぜかと問うた。ユバルは小さく息をつき、ひとつ星の首を軽くたたいてみせた。
「おれは荷物持ちをさせているけど、本当はこいつ、武装した騎士や兵士を乗せて戦場を走るたぐいの馬なんだよ。大神官が自分の土地で生産してるのは、そういう馬だ」
「えっ。戦争をしようとしてるってこと?」
「いや、そこまではいかない。ただ、戦いの力を持とうとしてるんじゃないかとは思ってるよ、王宮の真似をして。聖職者として兵を持つことが許されてない代わりに、神殿兵を自分の支配下に置いてるつもりと見た」
「……あそこの人たちは大神官さまに仕えているんじゃないの?」
あの人の部下みたいに見えたか、とユバルは唇をゆがめて笑った。
「違うんだ。神殿兵は、本来は王宮に属してる。国にとって重要な聖域を守るためのお役目さ。神殿兵は大神官を慕って言うことを聞いてるだけ、大神官はたんに優秀な馬を育ててるだけ。表向きはな」
「うーん……?」
「それと、おれだ」
ユバルは自分の胸を親指で突いた。
「王宮では選りすぐりの詩人を、宮廷詩人として相当大事にしているそうだ。ひとつの地位の象徴だよ。大神官はたぶん、それにあたる存在をおれに求めてる」
歯を鳴らしてちょっかいを出してくるひとつ星の鼻面を掌で押し返しながら、ユバルはこう言った。
「民衆の中から選ばれたにすぎないくせに、王みたいにふるまいたがってるように見えてしょうがない。確かに、民衆の頭としては申し分ないと思う。大神官の候補になるべく、積んできた努力も本物だろうし……」
ユバルの表情が険しくなる。
「それでもおれは一介の吟遊詩人で、あいつの配下じゃない。そういうふうに扱われるのは気に入らない。……勘違いしてやがる」
そして、ノアを見おろした。
「だからおまえを残さなかったんだ。学者以上に知ってることもあるおまえだ、書物みたいな扱いを受けそうだ」
「……じゃあ、もう会いに行かなければいいんじゃ……」
「まだしばらく付き合うさ。あいつの、古い物語や歌についての知識と蔵書は便利だよ。『失われた物語』に関することだけじゃない、珍しい歌や物語をも得られる」
ただ、とユバルは言葉を続けた。
「都には長居しない。あいつの下にいるかのようなかたちになど、なってやるものか。利用されるんじゃなくて、おれが利用してやるんだ」
話をしていると、時間も景色もすぐに通り過ぎてしまう。都の市壁と門はもう目の前だった。
門をくぐったとき、ノアは少し名残惜しい思いで後ろを振り返った。整然たる石畳と赤い屋根と花に飾られた都は、楕円の門のかたちに切り取られ、遠ざかっていく。
きれいな都、ゆっくり見て回りたかったな。そんな気持ちを小さなため息にして吐き出した少女に、ノア、とユバルは声をかけた。
「おまえ、今よりまともに歌えるようになりたいか」
唐突な問いかけに、ノアは思わず笑った。
「どうして? そりゃあ、正しく歌えるなら歌いたいと思うけど」
「歌い方を教えてやろうか」
目をみはったノアに、ユバルはにやっと笑いかけた。
「おまえが歌えるようになるのがいちばん早いと思うんだよ、あの冒頭歌の音を知るには」
「でも……本当に歌えるようになる? わたしが?」
「おまえの歌は十分改善できると思う、地道な訓練は必要だけど。歌い人じゃない人間から言わせれば、そんなに絶望的じゃないよ」
信じられないような表情のノアに、ユバルは返答を促した。
「どうする? 無理強いはしないぞ、音楽は嫌々やるもんじゃない」
ユバルは待った。ノアは少しうつむいて、何か考えこむ様子だったが、その瞳は輝いていた。
ノアは長くは迷わなかった。衣服の腹のあたりを握りしめて、ユバルを見上げた。
「教えてほしい。……歌えるようになりたい」
「よし。任せろ」
ユバルがそう答えると、ノアは満面の笑みを浮かべた。
意気揚々と歩く少女を見おろしながら、ユバルの胸には少しの不安がわだかまりはじめていた。
歌い人の里に隠されていた冒頭歌、大神殿が所有していた物語の断片。それに、まじないの力。
(ただの散逸物語なものか。まだ、何か秘密がある……)
それは確信だったが、ユバルはそこで考えるのをやめた。
進路は東、今はとにかく、足を動かすことに決めた。