第1章 歌う民③
そのとき、いったん逃げ出していたひとつ星がユバルのもとに戻ってきた。ぶらぶらして絡まりそうな手綱がユバルの目に入った。
大蛇はゆったりとした動きでノアに迫っている。
そのあいだにユバルはすばしこく動き、大蛇が進む方向の木によじ登っていた。枝の上でうずくまって目立たぬように待ち、そして、大蛇の頭部が眼下にやってきたとき、枝を蹴って飛び降りた。
その手にはひとつ星の頭絡から外した手綱、それを結んで作った輪っかを構えていた。着地したのは蛇の頭の上で、頑強な革手綱の輪をふるって蛇の口にひっかけ、締めつけることに成功した。
巨大な尾がのたうって地面をえぐり、地響きを起こした。ユバルが蛇の頭上から転落する。そのそばにひとつ星が駆け寄ってきた。
ユバルが金のたてがみに手をかけ、その背に飛び乗ると、ひとつ星は快い速さで駆けだした。それと同時に、細く澄んだ声に乗って、ひとつの旋律が聴こえてきた。
ノアだ。蛇から逃れようと走る馬の背で、ユバルは眉をひそめながら少女の方をあおいだ。力不足の声、恐怖も焦りもふくんで昼よりもいっそう不安定な音程で歌いながら、何かを訴えるようにユバルを見つめてくる。
はっとして、ユバルは馬に合図を送って向きを戻すよう促した。ひとつ星は不服そうに鼻を鳴らしたが、素直にユバルに従った。
よく耳をすませると、きれぎれに、帰れ、とか、眠れ、といった意味合いの古代語が聞きとれる。少女の歌は、大蛇を鎮める手立てと察せられた。
ノアは一通り歌をうたうと、伝わらないと思ったのか、諦めたように力なくうなだれた。
少女に近づきながら蛇の動きを避けるひとつ星の背で、ユバルは、「ノア!」と樹上の少女の名を呼んだ。
「もう一度歌え! 蛇を鎮める歌はそれなんだろう!」
「でも、わたしの音じゃ」
「とにかく聴かせろ、正しい音を聴きとってみせる!」
口を封じられて怒り狂う蛇の動きを避けながら、早く歌え! と怒鳴ると、ノアは意を決したような表情をした。
それから、夕方の消え入りそうな声音はどこへやら、ノアは力いっぱい声を張り上げて歌いだした。
樹上のノアが歌を繰り返す。ひとつ星にしがみつくユバルは、そのつたない歌に耳を澄ませ、正しい音をつかもうとした。
馬の動きに揺られ舌をかみそうになりながらも、ユバルは音の一つ一つを口の中で試していた。どうしてもつかめない音がひとつだけある。その最後のひとつ、それだけがどうしても納得できなかった。
この音を解決できない限り、まじない歌がまじない歌になることはない。詩人としての感覚がそう叫んでいた。
ひとつ星の体が熱く火照り、さかんに発汗してぬめっている。人ひとり乗せて駆けずり回って、頑丈なこの馬も疲労を見せはじめていた。
焦るユバルの目の前に、突然蛇の尾が迫った。
ユバルの頭が真っ白になったとき、ひとつ星が跳躍した。
地面をえぐりながら人馬まとめてたたき払おうとする怪物の尾、ひとつ星は、その生きた凶器の動きを見極めて飛び越えたのだ。
ただしユバルの体は、馬の着地と共についに投げ出された。頬が地面をこする。夜露に湿った土と草の匂いを間近に感じた瞬間、ユバルの頭の中に、いったん止まっていた音が再び流れ込んできた。
歌が好きな、地霊の蛇。
この地の感覚を、この地の音として表現すれば。
ユバルは弾みをつけて起き上がった。もう一度合流したひとつ星の背中から、手早く竪琴を取り出した。
体勢を立て直して再び迫る大蛇、もうユバルは逃げ出さなかった。
深く息を吸い込み、ノアが伝えてきた歌をうたった。力強く、正確に。
手には愛用の竪琴、伴奏は即興だ。ただ歌に合わせて、ユバルが弾きたいように弾いているだけだ。
この窮地で、ユバルがわざわざ楽器を手に取ったのは、楽器で奏でる音の加勢が必要だと思ったのだ。
はたして、あれほど激しく暴れくるっていた蛇は、ユバルの声と竪琴が響きはじめてから、目に見えて静かになりはじめていた。
そういえば里への道を開いたときも竪琴を弾きながら歌ったっけ、とユバルは頭の片隅で考えた。
竪琴を弾かずに歌っていたら、どうだったろうと思う。いや、とユバルは首を横に振った。自分にはこれが必要だ、自分が歌うときはこの竪琴がなくてはならないのだ。勢いをなくした蛇の姿を、いまや余裕をもって眺めながら、ユバルは気持ちよく歌い、竪琴を奏でていた。
蛇がそわそわと落ち着かなげにうごめく。歌を気に入ったのか気に入らないのか、言葉にしてくれる相手ではない。ユバルはいっそう、声を張り上げた。
月の光を受けて黒光りして見えていた蛇の鱗が、つやをなくしたような気がした。
次の瞬間、ユバルの顔にぱらぱらと砂のようなものがかかった。
何かを察知した様子のひとつ星が、ユバルの袖をくわえて引っ張る。そうして先に駆けだした馬のあとを追って、ユバルもその場を離れた。
周囲に残っていた男たちも、めいめいに散りはじめた。
大蛇が天に向かって、鎌首を高くさし上げた。かと思うと、その姿は動きを完全に失って石像のように固まり、それから崩壊が始まった。
がらがらと音をたてて、蛇が崩れていく。その体は土くれや小石や、落ちた小枝でできていた。
蛇が崩れ果てたあとには、巨大な土塊が残るばかりだった。
ユバルは一晩を里の外で過ごした。この里は好きになれない。苦労してやってきた場所だが、二度と戻りたいと思えない。
解放されたノアに、こき使うようで悪いがと断って、水を張った桶を何度か運んできてもらった。汗を大量にかいて疲れきった様子のひとつ星のためだ。立ったままうとうとする馬のそばで、ユバルは一睡もせずに剣を抱いて座っていた。
朝になって、ルベンの方からユバルのもとへやってきた。
ノアを連れていた。最後にユバルと別れてから、同じく眠っていないのか、少女の目の下にはどんよりと隈ができて、どことなくやつれたふうに見えた。
ルベンはまず、預かっていた旅荷をユバルに渡してきた。
「昨夜はご苦労だったね」
「お互い様だな。あんなことをしてまで出し惜しんだ『失われた物語』のこと、さっそくだが教えてもらおうか」
「それなら昨日のうちに、娘に伝えてある。我々の使う歌い言葉……森の外では古代語扱いになっているのかな、それも解する役に立つ娘だ。あなたは昨日の試しに立派に打ち勝った。その褒美だ、娘ごと連れて行ってくれ」
ルベンはそう言ってノアの肩に手を置いたが、本人はほとんど反応を見せずにうつむくばかりだった。昨日の昼はうるさいぐらいだった少女が、別人のように落ち込んでいる。
どう答えたものか、ユバルは言葉を返せないでいたが、ルベンは一方的に話を続ける。このあたり、この親子は似ていると思う。
「この里に伝わっている『失われた物語』は、その冒頭歌だけだ。これだけでも十分手がかりになると思う。物語のことを知りたいならパラバトールの各地を歩きなさい、吟遊詩人よ」
「言われなくともそうするさ。そんなことより、本気で言っているのか、あんたの子を連れていけというのは……」
ルベンは微笑んで肩をすくめた。
「この里では、歌えない歌い人はできそこない扱いでね。外に出た方が幸せに暮らせるだろう」
ユバルは少女を見た。ノアは目を合わせない。
これでは、行きたいとも行きたくないともいえないだろう。里においては追放宣告を受けたようなものだろうが、ノア自身は、外の世界だってなにひとつ知らないのだから。
ユバルは少しだけ迷い、そして決心した。
「行くぞ。ついてくるというのならついてきていい、連れてってやる」
ついてきていい、ユバル本人から選択肢を与えられて、やっとノアは顔を上げた。父親とユバルを何度か見比べる。
「……里に残るなら、この場で歌を教えてくれ」
そう言うと、あ、と少女は声を上げた。
「あの、行きたい。……森の外に、行きたい」
「そうか。じゃあ、行くぞ」
そう言うと、ユバルはひとつ星の手綱を引いてさっさと歩き出した。
さくさくと草を踏む軽い足音が、少し離れてついてくる。
それはやがて少し速くなって、やがてユバルの隣に並んだ。
ユバルはもういっさい後ろを振り向かなかったから、ルベンがどういう表情をしているかもわからないし、知る気もない。
「……本当にいいんだな。おれはもう二度と里に戻らないぞ」
「うん、いいや。わたしがどれだけいらない人間かわかったから。外の世界ってどんなだろう。楽しみだなあ、広いんでしょ」
ノアの言葉尻が震えているのに、ユバルは気づいていた。
「……広いが、そんなに楽しい場所でもないぞ」
「でもきっと、今までよりいいよ、きっと」
耐えかねて泣きだした少女に、かける言葉など知らない。泣きながらノアは呟いた。
「わたし、本当にいらない子だったんだな……」
ユバルはしばらく待っていた。
しばらく鼻をグズグズいわせていた少女だが、それでも気丈なたちと見えて、泣くだけ泣いたら落ち着くのも早かった。
「……うん、でも、楽しみだよ。本当に」
あいかわらず何も聞かれていないのに、鼻を赤くして笑いまじりに言う。期待しとくんだな、と言いながら、ユバルは小さく息を吐いた。
「ほら、もうすぐ森を出る」
「おおー!」
ユバルが目の前に現れた道を示すと、ノアは、少しばかりわざとらしい歓声を上げた。おかげでひとつ星がうるさそうに耳を伏せて、またなだめるはめになった。
ユバルが森に入ってから、たった一日。
それなのに、東西をつなぐ森の道を目にしたのは、ずいぶんと久しぶりな気がした。懐かしいとさえ思う。
「どっちに行くの?」
ノアの問いに、まず西だ、とユバルは答えた。
「会わなくてはいけない相手がいる。いいか、いきなり大きな町に行くが、変に浮かれたり、はぐれたりするなよ」
「町! たくさん人がいるのよね!」
「そう、人が多いと変なやつもいるんだ。迷子になったら探さないからな」
「わかった」
ノアがきまじめに頷いたのを確認すると、ユバルは見慣れた道へ足を踏み出した。
進もうとして、ノアが早速ついてきていないことに気づいた。おい、と厳しめの声をかけようと振りむいて、できなくなった。
ノアは森の奥、里の方をじっと見つめて立ちつくしていた。
何を考えているのか、表情は見えない。ひとつ星がじれて、早く、とばかりに鼻を鳴らすまでそうしていた。
それから森を抜けるまで、ノアは無言のままだった。
知り合ったばかりで、そこまで気にかけているわけではない。それでも新しい景色を目にした少女が、元気と好奇心のにじむ笑顔をのぞかせると、ユバルは心のどこかでほっとしたのだった。